作品タイトル不明
第190話 ローゼス姉妹
『秩序の神』、或いは『規律の神』と謳われていたグロリア・ローゼスは、元々主神側に属する神であった。その理由は非常に単純なもので、世界秩序の安定を是とする主神側の思想が、整った社会を愛する彼女の考えとおおよそ合致していたからだ。今の不自由ない世界システムを破壊してまで、生命の在り方を変えようとする邪神側の考えを、彼女はむしろ毛嫌いしていたほどだ。では、なぜグロリアは主神を裏切り、邪神の勢力に参加したのだろうか?
……それは彼女の実の姉、『守護神』イザベル・ローゼスが関係していた。神話大戦が起こる数ヵ月前の事だ。イザベルは主神より賜った守護領域を密かに抜け出し、邪神アダムスの陣営へと向かおうとしていた。
『イザベル姉さん! アダムスの下に付くって話は本当!?』
『ググググ、グロリア、声が大きいですよぉ……! だだ、誰かに聞かれでもしたら、口封じをしなくちゃで大変に面倒な事に……!』
その間際になってグロリアに見つかり、イザベルは酷く動揺している様子だった。普段から何かと落ち着きのない彼女であるが、この日は一段と取り乱していたのだ。グロリアはそんな姉の様子に、噂が本当であった事を確信する。そして、直ぐ様に疑問を言葉に表した。
『……それじゃあ、私の質問に答えて。イザベル姉さんほどの神が、何で革命を起こそうとする一派に加わろうとしているの? あいつらは安定したこの世界を、混沌の闇に落とそうとしている。守護神として皆の盾となるべき姉さんが、なぜそんな愚かな行いをしようとするの?』
グロリアが秩序や規律を守る神だとすれば、イザベルは外敵の脅威から物理的に味方を守る、神々の盾とも呼べる存在であった。守る事を使命として担っている筈の姉が、なぜ破壊に加担しようとしているのか、グロリアにはイザベルが何を考えているのか、微塵も理解できないでいた。
『ええっと、ええっと…… その、今の世界の在り方が本当に良いものなのか、正直疑問になった、と言いますか……』
『は? どういう意味?』
『……グロリアはさっき、今の世界が安定しているって言っていましたけど、それは神々の統治下にある下界の生命に、強力な制約を課しているから、ですよね? それは本当に必要な事なのでしょうか?』
『何を当たり前の事を言っているの? 当然、世界の体制を維持する為には必須でしょう。制約を課しているからこそ、世界は想定の範囲内で物事が進んで行くの。仮に一個体でも生物として逸脱した者が現れたら、その世界は一気に破滅へと近付いてしまう。かつて、下界に魔王と呼ばれる者が現れた時みたいにね。我々のような神々と違って、下界の生命に気高い精神が備わるとは限らないのよ?』
『……それじゃあ、世界の管理者である神々が、その気高い精神を失ってしまったとしたら?』
『え?』
この時、イザベルは先ほどまでの慌てふためていた様子が一切なくなっていた。それどころか、目が据わっているようにも感じられる。
『確かに、安定した平和は素晴らしいものです。下界の者達も、代わり映えのしない日常を謳歌している事でしょう。素晴らしい、大変に素晴らしいです。 ……ですが、悠久の時を生きる私達神にとって、平穏は次第に毒となっていった』
『………』
『下界の者達はまだ良いの。仮に腐ったとしても、そのうちくたばって死んで洗浄されて転生して、赤子となる事で悔い改めるから。真新しい命には、また向上心が芽生えてくれる。けれど、神は違うの。寿命なんて概念がないから、不幸が起こらない限りずっとずっと生き永らえてしまう。腐ったまま、ずっと、ずっと―――』
『ね、姉さん?』
『……今の神々の大半は、変化のない世界に毒されてしまった。怠惰になってしまったの。ただただ現状を維持する事しか頭になくって、それ以上の高みに至ろうとしない。私達、神なんですよ? 下々が崇拝する対象、模範とすべき絶対的な存在なんですよ? グロリア、知っていますか? 一万歩譲って停滞するだけならまだしも、今の神々の中には自身が統括する下界を完全に放置する者、ゲーム感覚で遊び始める者まで居る始末なのです。主神はそれらクズを放任し、何も咎めようとしません。こんな事が許されて良いのでしょうか? 神である私達が、見て見ぬふりをする必要が、一体どこに?』
イザベルは自身が持つ杖の先で、コツンコツンと地面を叩き続ける。その動作は小さく、奏でられる音も僅かなものだ。しかし、イザベルと向かい合うグロリアにとって、その動作は怒り狂う巨人の足音にも匹敵する衝撃であった。杖で地面が叩かれる度、自分も跳ね上がってしまいそうになる。
グロリアにとって姉のイザベルは、正に恐怖の対象であった。ドジで清楚な愛らしい女性で、慈愛にも満ち溢れたイザベルは、彼女の信者達から理想の女神として慕われている。しかし、それと同時に彼女は他人に求める水準がでたらめに高く、特に怠惰を貪る者を忌嫌う傾向にあった。風紀を第一とするグロリアが現在のようになったのも、原因の全てではないにしても、そんな姉の傍に居たからなのかもしれない。
『で、でも、中には模範的な神だって居るでしょ? それに、下界の生命の在り方を変えるまでの必要は―――』
『―――確かに、模範的な神は居ますね。たとえば…… グロリア、貴女が典型的なそれでしょう。実力はまだまだ未熟とはいえ、他の神と比べれば随分とマシな方。神としての模範的な精神と向上心を併せ持っていますから、将来性にも期待ができます。この世界に変革が起こったとしても、貴女は貴女のままでいてほしいくらいです。 ……ですが、腐ったリンゴが他の果実を腐らせてしまうように、今後も腐った神がグロリアに悪影響を与えないという保証はどこにもない。そうなってしまう前にも、対処が必要なのですよ』
―――コォン!
ひと際大きくなった杖の音に、グロリアはビクリと体を震わせる。
『た、対処って……?』
『要するに、今の神々には危機感が欠けているのです。自身が何をしようと、下界の者達が何をしようと、今のシステムの上に神々は守られている…… ならばそのシステムを壊し、課された制約から下界の者達を解き放てば良い。彼らは努力と才能に応じて正しく生物としての高みに上り、いずれは神にも届く力を手に入れる事でしょう。そんな理想的な世界になれば、神々は現状維持なんて生温い事を言っていられなくなります。いつどこから飛んで来るかも分からない、下剋上のナイフが誕生する訳ですから。神々は神として相応しい力を追求し、下界の者達はそんな神に焦がれ背中を追いかける――― ほら、そこには常に進化し続ける、素晴らしい世界が広がっていますよ?』
理想を語るイザベルの口調は高揚した様子だが、相変わらず彼女の目は据わったままだ。冗談でも何でもなく、イザベルは本気でそのような世界を目指そうとしているのだろう。そして、一度走り始めたら最後。一度守ると決めたイザベルは、彼女が思う腐敗から世界を守ろうとするだろう。
実の姉が作り出す災厄を想像し、グロリアは酷く眩暈がした。自らが守るべき風紀が、実の姉によって破壊されてしまう。それは絶対にあってはならない事だ。こうなった姉を引き留めるのは最早不可能、ならせめて、自分が姉のブレーキ役にならなければ。そんな世界が誕生するにしても、少しでもマシな方へと導かなければ。グロリアはこれを運命として受け入れ、姉と共により良い世界を創造する事を決意した。
『……イザベル姉さん、私もアダムス側に付くわ』
『ほ、本当ですか? よ、良かった…… 私の考えを理解してくれたのですね? フフッ、愛しいグロリアと一緒なら、この先に怖いものはありません。共に世界を洗浄し、あるべき姿へと戻しましょう』
ほわわんとした元の雰囲気に戻った姉は、グロリアの申し出を心から喜んでいた。こんな危うさが付き纏う姉でも、グロリアにとっては大切な肉親なのである。主神の勢力として姉の野望を打ち砕く選択肢は、彼女の中には存在していなかった。