軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

9. 母国への祈り

母国へ帰るのは、やはり緊張した。

馬車の窓から見える景色は、何もかもが見慣れているはずだった。王都へ続く街道も、遠くに見える城壁も、門のそばに並ぶ商人たちの声も、知らないものではない。けれど、胸の奥は落ち着かなかった。隣国から正式な依頼として戻っている。日程も決められている。祈りを行う場所も、滞在時間も、付き添う役人も、すべて書面で確認済みだった。それでも、国境を越えた瞬間から、セシリアの指先にはわずかな強張りが残っていた。

セシリアの母国と、今彼女が滞在している隣国との間では、聖女の扱いについて取り決めが交わされている。母国へ戻る場合でも、セシリアは他国の管理下には入らない。滞在時間、祈りの内容、同行者、休憩場所、帰国の時刻まで、すべて隣国側にも共有され、本人の同意なしに予定を増やすことはできない。

その徽章は、ただの飾りではなかった。

隣国が、セシリアを一人の人間として保護し、その意思を尊重している証である。同時に、母国に対して「今度こそ聖女を粗末に扱うことは許さない」と示すものでもあった。母国側も、その意味を理解している。だからこそ、今回の祈りは正式な依頼として扱われ、教会ではなく王城を通して申し入れられていた。

それは、母国がセシリアへ示せる、せめてもの誠意でもあった。

「セシリア様、まもなく到着いたします」

向かいに座る隣国の役人が、穏やかに告げた。

「本日の祈りは広場で一度だけです。終了後、休憩を取り、体調に問題がなければ帰路につきます。変更が必要な場合は、すぐにお申し付けください」

「ありがとう。分かっているわ」

馬車が止まったのは、王都の西広場だった。かつて瘴気の溜まりやすかった地区で、今も時折、空気が重くなることがあるという。広場にはすでに住民たちが集まっていたが、一定の距離が保たれている。母国側の役人もいるが、教会の者は誰一人来ていない。聖女に何かあっては困るからだ。少なくとも、今日の場ではそう決められていた。

馬車を降りると、ざわめきが広がった。

「聖女様……」

「本当に戻ってくださったのか」

「ありがたい……」

小さな声がいくつも聞こえる。セシリアはそれらに一つずつ応えることはせず、広場の中央へ進んだ。

セシリアは深く息を吸った。

空気は少し澱んでいる。石畳の隙間から滲むような、重たい気配があった。

彼女は両手を組み、静かに祈る。目の前の人々が少しでも穏やかに暮らせるようにと。

淡い光が足元から広がった。広場を覆っていた重い気配が、少しずつ薄れていく。

やがて、空気が軽くなった。

セシリアは目を開け、ゆっくりと手を下ろした。膝は震えていない。息も乱れていない。少し疲れたが、倒れ込むほどではなかった。隣国の役人がすぐに近づき確認する。

「ご気分はいかがですか」

「大丈夫。予定通りで平気よ」

「では、休憩場所へ」

その時、群衆の中から一人の女性が前へ出ようとした。役人が止めるより先に、女性はその場で深く頭を下げる。

「聖女様、ありがとうございます。娘が、前にあなた様に助けられました。あの時、何も知らずに祈っていただくだけで……本当に、申し訳ありませんでした」

セシリアは足を止めた。

女性の声は震えていた。責めているのではない。すがっているのでもない。ただ、ずっと言えなかった言葉を差し出しているようだった。

「謝らなくていいわ。私はあなたの娘さんが元気なら、それでいいの」

女性は顔を上げ、涙をこぼしながら何度も頷いた。セシリアはそれ以上近づかず、小さく会釈して歩き出した。深入りすれば、きっとまた尽くしてしまうのだから。

休憩用に用意された部屋で、セシリアは温かな茶を飲んだ。窓の外には、母国の王都が見える。懐かしいというには複雑で、嫌いだと言い切るには人々の顔が浮かぶ場所だった。

予定の時刻になると、セシリアは馬車へ戻った。母国側の役人が深く礼をする。次の依頼について言い出そうとした者もいたが、隣国の役人が穏やかに遮った。

「本日の予定は以上です。追加の依頼は、正式な書面でお願いいたします」

その言葉を聞いて、セシリアは少しだけ肩の力を抜いた。

帰りの馬車が国境を越える頃、夕日は低く傾いていた。疲れてはいる。けれど、行った事に後悔はなかった。

国を憎んでも、民を憎んではならない。

誰かにそう言われたわけではない。けれど、セシリアは今日、祈りを終えた広場で改めてそう思った。教会は彼女を都合よく使った。国も、それを長い間見過ごしていた。だからといって、病に苦しむ子供や、瘴気に怯える人々まで同じように憎むことはできなかった。

あの人たちは、セシリアを閉じ込めた人間ではない。彼女の食事を削った人間でも、疲れている体を無理に働かせた人間でもない。ただ、救いを求めていただけだ。

もちろん、それだけで全てを許せるわけではない。何も知らなかったから仕方がない、と簡単に言うこともできない。けれど、祈りを必要とする人々の前に立った時、セシリアの中にあったのは怒りではなかった。

助けられるなら、助けたい。

ただし、自分自身が救える範囲で。

隣国の王城へ戻ると、玄関広間に王太子が立っていた。

「お帰りなさい」

その一言を聞いた瞬間、セシリアの胸の奥がふっと緩んだ。

「ただいま戻りました」

そう答えてから、少し迷い、言い直す。

「……ただいま」

王太子は驚いたように目を瞬かせ、それから穏やかに微笑んだ。

「お帰り、セシリア」

王太子の優しい笑顔を見た時、セシリアは安心とは少し違う感情が胸に残るのを感じた。