軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 公爵令嬢、履歴書を持って神殿へ行く

公爵令嬢が履歴書を持つと、それだけで屋敷の朝は軽く事件になる。

王妃とのお茶会には、昨夜の体調不良を理由に欠席の返書を出した。

王太子からの庭園散策の誘いにも、同じ文面を整えた。

それらを横目に、リディア・エルネストは自室の机で、最高級の羊皮紙に公爵家の印章を押していた。

履歴書。

恋文でも礼状でもない。

公爵令嬢の机に置かれるには、いささか実務の匂いが強すぎる紙である。

ノラは予定表を抱えたまま、朝から三度目の深呼吸をした。

「お嬢様。本日の予定が、ほぼ焼け野原でございます」

「跡地には新しい予定を建てます」

「建てる予定が神殿の採用面接である点に、私はまだ慣れておりません」

リディアは返事をしながら、印章の縁を確認した。

滲みなし。

封蝋の位置もよい。

履歴書の文字列も、乱れていない。

氏名、リディア・エルネスト。

身分、エルネスト公爵家令嬢。

希望職種、聖女候補、または浄化補佐。

得意分野、魔力制御、記録整理、社交上の調整。

志望動機。

そこだけは、少しだけ筆跡が慎重になっている。

最初に書きかけた文は、こうだった。

悪役令嬢になる予定でしたので、先に聖女職を希望します。

さすがに消した。

面接官に心労を疑われる。あるいは、正直すぎる求職者として別室で休まされる。どちらにせよ採用面接が本題へ進まない。

結局、穏当な文にした。

王国の浄化業務に貢献したく志望いたしました。

嘘ではない。

方向性は合っている。

ノラは履歴書を見下ろし、深いため息を飲み込んだ。

「履歴書とは、こうも堂々と持つものなのでしょうか」

「堂々と持たない履歴書は、あまり採用されない気がします」

「お嬢様は、本当に神殿へお勤めになるおつもりで」

「ええ」

「王太子殿下の婚約者でいらっしゃるのに」

「だからこそです」

それ以上の説明はしなかった。

前世の乙女ゲームで、自分が平民出身の聖女候補に嫉妬し、悪役令嬢として断罪され、修道院送りになる予定だと話せば、ノラの朝は完全に崩壊する。

今必要なのは、理解より行動。

王宮ではない。

神殿へ行く。

ノラはしばらく黙っていたが、やがて腹を括った顔でリディアの髪を整えた。

動きやすさと品位を天秤にかけ、就活仕様のまとめ髪を完成させる。外出着も装飾を抑えた。面接へ行くのに宝石を盛りすぎては、神殿側が扱いに困る。

もっとも、リディアが来る時点で、扱いには十分困るだろうけれど。

「お嬢様が本気でいらっしゃるなら、せめて紙と封筒は最高級のものにいたしましょう」

「助かります。第一印象は重要です」

「第一印象以前の問題が山ほどございますが」

ノラは履歴書を封筒へ入れ、リディアに差し出した。

書類の角は折れていない。

封筒の向きも正しい。

主の奇行に巻き込まれても、仕上げは完璧。侍女としての矜持である。

玄関で、ノラは最後にもう一度だけ確認した。

「本当に、神殿でよろしいのですね。王宮ではなく」

リディアは馬車に乗り込む。

「王宮へ行けば悪役令嬢です」

封筒を膝の上に置き、背筋を伸ばした。

「神殿へ行けば、まだ求職者です」

王都中央大神殿は、朝の光を受けて白く輝いていた。

白亜の柱。

長い階段。

女神像。

けれど柱の影から漏れ出すのは、祈りの声だけではなかった。

「結界点検の記録、どちらへ回しましたか」

「昨日の浄化報告がまだ戻っていません」

「西門の依頼書、二重に受付されています!」

焦燥に駆られた神官たちの荒い息遣いが、磨かれた石床を滑ってくる。

受付の横には、紐でまとめられた依頼書の束。

待合椅子には、疲れた顔の民。

白く清らかな建物の内側で、処理待ちの紙と人の疲労が静かに積み上がっていた。

リディアは履歴書の封筒を持ち直した。

求人票に偽りはなさそうだ。

受付には、若い女性職員が座っていた。

赤茶色の髪を短くまとめ、胸元には神殿受付係の小さな印がある。

彼女はリディアの姿を見るなり、はっとして立ち上がった。

「エルネスト公爵家のリディア様でいらっしゃいますね。本日は、寄付のご相談でしょうか」

寄付。

神殿に公爵令嬢が来る理由としては、妥当すぎる。

リディアは封筒を差し出した。

「採用面接です」

受付係の笑顔が固定された。

「……採用」

「はい」

「面接」

「はい。求人票を拝見しました」

「求人票」

受付係は封筒を受け取った。

見る。

リディアを見る。

もう一度、封筒を見る。

封筒の表には、整った文字でこう書かれている。

聖女候補採用ご担当者様。

受付係の笑顔は、神殿の職務規定では想定されていない角度で引きつった。

「少々、お待ちくださいませ」

彼女はそう言って奥へ向かった。

最初は歩いていた。

五歩目で早歩きになった。

十歩目には、ほぼ小走りだった。

ノラが小声で言う。

「お嬢様。逃げられたように見えました」

「上席確認です」

「かなり全力の上席確認でございました」

リディアは受付台の上を見た。

未処理らしい依頼書が、種類も日付も少しずつ違うまま重なっている。

紙の端はよれていた。

何度も人の手を渡り、まだ決着していない書類の顔だ。

やはり、神殿は祈りの場である前に職場らしい。

しばらくして、受付係が戻ってきた。

その後ろに、壮年の神官がいる。

白い法衣を着ており、胸元には人事担当を示す銀の印。

貴族対応用の笑顔は整っているが、目だけは明らかに混乱していた。

「リディア様。どうぞ、こちらへ」

案内されたのは、小さな面接室だった。

白い壁。

女神の小さな絵。

丸い机。

書類棚。

棚から少しはみ出した紙束。

神聖さの奥に、事務室の匂いがする。

リディアは椅子に腰を下ろした。

ノラは後ろに控える。

人事神官の横には、若い書記官が座っていた。

灰色の髪。

青みがかった灰色の瞳。

目の下には薄い隈がある。

書記官セオの目は、魂をどこかの徹夜明けに置いてきたかのように虚ろで、水が濁った洗面器に近い色をしていた。

ただし、手にした記録板だけはしっかり握っている。

「こちらは記録担当のセオ・グラントです」

人事神官が紹介する。

セオは形式通りに頭を下げた。

「記録を担当いたします」

声は丁寧だった。

けれど、乾いている。

リディアの視線は、彼の隈、机の紙束、棚から滑り落ちかけた記録簿を順番に拾った。

求人票に載っていない項目が、いくつも机上に出ている。

人事神官が咳払いをした。

「リディア様。まず確認させていただきたいのですが、これは何かのご冗談ではございませんね」

「冗談で履歴書は持参しません」

人事神官の手元から、一枚の確認書類が滑り落ちた。

彼は慌てて拾い上げ、貴族対応用の笑顔を貼り直す。

「そ、それは、そうでございますが」

セオの羽ペンが記録板の上を滑った。

かり、と乾いた音。

リディアの返答のせいで、面接記録の初行から妙なことになっていそうだ。

「では、お尋ねいたします。なぜ聖女職を志望なさるのですか」

リディアは一拍置いた。

「安定した職と、断罪されにくい身分が欲しいからです」

人事神官の袖が、机の角に引っかかった。

彼はそれにも気づかない。

セオの隈が、ぴくりと動いた。

まぶたではなく、隈が動いたように見えた。

それほど、彼の顔には疲労が染み込んでいる。

「だ、断罪……でございますか」

「こちらの事情です」

ノラが後ろで、静かに視線を逸らしていた。

セオの羽ペンは、一度止まった。

次に動いた時、ほんの少しだけ文字が小さくなっていた。

神殿の公式記録に載せてよい言葉か、彼なりに迷っているらしい。

人事神官は慌てて、神殿側の建前へ戻る。

「聖女とは、女神への深い信仰と、民への慈悲を持つ者が務める尊き役目です。時に己を顧みず、民のために祈る覚悟が」

「はい」

リディアは頷いた。

「だからこそ、倒れるまで働かせてはいけません」

人事神官の袖に引っかかっていた書類が、今度こそ床に落ちた。

ぱさり。

面接室に、その音だけが妙に大きく響く。

「……倒れるまで、とは」

リディアは、面接室へ来るまでの廊下を思い出した。

依頼書を抱えて走る神官。

受付横の紙束。

待合で長く座っていた人々。

そして、隣に座る記録担当の隈。

「先ほど、依頼書を抱えた神官の方が三人ほど走っていました。受付には、長く待っている方もいらっしゃいます。祈りを必要とする人が多いのに、対応する側が倒れたら、次の日の民はどうなるのですか」

人事神官は、落ちた書類を拾えないまま固まっている。

セオの手だけが、記録板の端を強く握った。

リディアは続ける。

「無理をして聖女が倒れたら、明日の民は誰が救うのですか?」

セオが、初めて顔を上げた。

虚ろだった目が、わずかに揺れる。

驚き。

疑い。

それから、信じてはいけないものを見てしまったような切実さ。

彼は何か言いかけたが、人事神官の横に座る立場を思い出したのか、口を閉じた。

代わりに、羽ペンが動き出す。

さっきより速い。

しかも字が荒れていない。

実務者の手だ。

人事神官は困ったように眉を下げた。

「ですが、聖女様の献身は、女神への奉仕であり」

「奉仕を続けるには、奉仕する人が明日も立っている必要があります」

床に落ちたままの書類を、ノラがそっと拾い、人事神官の机へ戻した。

人事神官は、それでようやく自分が書類を落としていたことに気づいたらしい。

気づいた分、さらに困った顔になった。

「ま、まずは魔力測定をいたしましょう。聖属性の反応を確認する必要がございますので」

「承知しました」

魔力測定室は、面接室よりも神聖な雰囲気だった。

部屋の中央には大きな透明の水晶。

床には女神の紋章。

壁には過去の測定値を記録する古い板がかけられている。

人事神官は、ようやく慣れた手順に戻れたという顔をしていた。

「こちらの水晶へ手を置いてください。聖属性の反応が出れば、聖女候補として登録できます」

リディアは水晶の前に立つ。

ノラが後ろで息を呑む。

セオは記録板を構えた。

リディアは水晶に手を置いた。

冷たい感触。

次の瞬間、水晶の奥で白い光が生まれた。

最初は淡い灯りだった。

それが、すぐに膨らむ。

水晶の内側から光が満ち、部屋の壁を照らし、床の女神紋へ流れ込む。

紋章が白く浮かび上がった。

人事神官の口が開く。

セオの羽ペンが止まる。

光はまだ強くなる。

測定室の扉の隙間から、白い光が廊下へ漏れた。

外が騒がしくなる。

「強光反応!」

「非常鐘は?」

「待て、原因確認が先です!」

「誰が確認を」

「記録板を」

「責任者は」

声が重なった。

足音が交差する。

扉の向こうで何かが落ちる。

指揮系統が薄い。

非常時の判断基準も曖昧。

記録担当、現場確認担当、責任者の切り分けができていない。

リディアは光る水晶の前で、騒ぎの内容を冷静に拾った。

これは教育が必要ね。

測定室の扉が開き、神官が二人飛び込んでくる。

一人は測定記録板を抱え、一人は防護布らしきものを持っていた。

どちらも、自分が何を優先すべきか分からない顔をしている。

「測定値は」

「上限超過」

「暴走か」

「安定しています」

「なら、何だ」

セオが測定値の板を見上げた。

彼の喉が、一度だけ上下する。

「……高すぎるだけです」

部屋の空気が変わった。

困惑が、畏怖に変わる。

冗談かもしれないと思われていた履歴書が、急に重みを持ち始める。

リディアは水晶から手を離し、人事神官を見た。

「採用結果は、いつ頃いただけますか」

人事神官は、何度か口を開け閉めした。

そして、ほとんど反射のように答えた。

「本日付で仮採用です」

「ありがとうございます」

「た、ただし、まずは聖女見習いとしての登録になります。正式認定には、実務確認や神殿内での承認が必要でして」

「承知しました」

リディアは素直に頷いた。

人事神官が少し安心した顔をする。

その安心は早い。

「では、勤務条件を確認させてください」

人事神官の顔が再び止まった。

「勤務……条件」

「はい。始業時刻、終業時刻、休憩時間、休日、緊急時の呼び出し条件、給与、職務範囲、記録方法です」

防護布を持っていた神官が、一歩下がった。

ノラは後ろで、もう驚かないと決めた顔をしている。

人事神官は、助けを求めるようにセオを見た。

セオは答えなかった。

答えられなかった。

彼は記録板を持ったまま、震えていた。

泣いているのか。

笑っているのか。

救われているのか。

たぶん、その全部だった。

「この人……」

セオが小さく呟く。

「神殿に、勤務条件を聞いている……」

声は震えていたが、そこには先ほどまでの死んだ諦めがなかった。

リディアは、聞こえていないふりをした。

「聖女職は、民の生活に関わる重要な職務です。であれば、長く続けられる形でなければ困ります」

人事神官は何も言えない。

セオの目に、ほんの少しだけ光が戻っている。

その目が、リディアではなく、壁の記録板と、廊下の騒ぎと、手元の未記入欄を順番に見た。

欠けているものが多すぎる。

彼にも、それが見えている。

仮採用の手続きは、妙に慌ただしく進んだ。

人事神官は何度も「前例が」と言いかけ、そのたびにリディアの魔力測定結果を見て言葉を飲み込んだ。

前例はない。

だが、歴代最高値も前例がない。

前例同士が衝突し、神殿側の処理能力が悲鳴を上げている。

ノラは、仮登録用の書類にリディアが署名する様子を見ながら、何とも言えない顔をしていた。

「お嬢様。本当に採用されてしまいました」

「応募しましたので」

「応募すると採用されるとは限りません」

「今回は条件が合いました」

「条件」

ノラは一度、測定室の水晶を見た。

まだ少し光っている。

「神殿側の条件も、かなり揺らいでいるように見えます」

「交渉の余地がありますね」

ノラは黙った。

主が就職に前向きすぎる。

やがて手続きが一段落し、リディアは面接室を出た。

背後で、セオが記録板に何かを書いている。

羽ペンを持つ手はまだ震えていた。

震えているのに、止まらない。

『新聖女候補、初日から神殿に労働条件を要求。要観察』

インクが乾く前に、次の行へ移る。

『勤務条件、現状不明。確認必須』

まだ止まらない。

『強光反応時の対応手順、共有不足』

羽ペンの先に、少しだけインクが溜まった。

セオはそれにも気づかず、リディアが去った扉を一度見た。

それから、また記録板へ視線を落とす。

『聖女職の継続性について、要検討』

震えた指で記録板の端を押さえ、彼はさらに余白を探していた。