軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 悪役令嬢になる予定でしたが、求人票を見つけました

王太子アルベルトが、その少女の扇を拾った瞬間。

リディア・エルネストは、自分の未来が修道院へ向かって一直線に伸びていることを思い出した。

王城の大広間は、今夜も華やかだった。

磨き上げられた床には燭台の光が映り、楽師の旋律が貴族たちの笑い声に紛れている。金糸の刺繍、絹の裾、甘い香水の匂い。どこを見ても上等で、だからこそ息が詰まる。

公爵令嬢という名の「完璧なマネキン」を演じる業務は、想像以上に消耗が激しい。

背筋は伸ばす。

扇の角度は、顔を隠しすぎず、けれど表情を読ませすぎない位置。

微笑みは柔らかく。

視線は泳がせない。

誰が誰に話しかけたか。どの家の令嬢がどの夫人に近づいたか。どの笑顔に棘があるか。

夜会とは、社交の花園という名の、終わりのない情報処理の現場だった。

その中心にいるのが、アルベルト王太子だった。

淡い金髪に、澄んだ青の瞳。物語の挿絵から抜け出してきたような美しい王子。立っているだけで視線を集め、微笑むだけで令嬢たちの呼吸を浅くする。

リディアは、その隣に立つべき婚約者だった。

少なくとも、今夜までは。

大広間の端で、小さな音がした。

ぱさり、と扇が床に落ちる音。

扇を落としたのは、見慣れない少女だった。

栗色の髪を控えめに結び、淡い色のドレスを着ている。貴族令嬢たちのような華美さはない。王城の夜会に慣れていないことは、ひと目で分かった。

少女は慌てて身をかがめようとした。

けれど、それより早く、アルベルトが動いた。

王太子は自然な仕草で扇を拾い、少女へ差し出す。

「大丈夫かい?」

柔らかな声。

周囲の令嬢たちが、ほう、と息をこぼした。

少女は頬を赤らめ、両手で扇を受け取る。

「は、はい。ありがとうございます、殿下」

「まあ、殿下はお優しい」

「あの少女、幸運ですこと」

「まるで物語の始まりみたいね」

誰かの囁きが、リディアの耳に届いた。

物語の始まり。

その言葉が、胸の奥に刺さった。

同時に、前世の記憶が乱暴に起動する。

脳内サーバーが一斉にエラーを吐き出し、視界が絶望的な赤に染まるような感覚だった。適切な再起動手順などない。落ち着いて処理する余裕もない。

このままだと、私の人生という名のプロジェクトが強制終了される。

『光の聖女と王冠の誓い』。

前世で遊んだ乙女ゲームのタイトルが、夜会の光の向こうに浮かび上がった。

平民出身の少女ミリアが、神殿に聖女候補として見出され、王太子や貴族青年たちと絆を深めながら、王国を救う恋愛ファンタジー。

今、王太子に扇を拾われた少女こそ、そのミリア。

そして、リディア・エルネスト。

公爵令嬢。

王太子アルベルトの婚約者。

王太子ルートにおいて、聖女候補ミリアに嫉妬し、嫌がらせを重ね、最後は王宮舞踏会で断罪される悪役令嬢。

修道院送り。

貴族社会からの退場。

前世で『最終版_修正_本当に最後.docx』というファイルが二百個並んでいた時と同じ絶望が、背筋を冷たく撫でた。

どれを開いても詰み。

しかも、間違えたファイルを選べば、自分の人生がそのまま上書き保存される。

よりによって、そこ?

リディアは扇を握る指に力を込めた。

楽師の音が遠くなる。貴族たちの笑い声も、グラスの触れ合う音も、水の向こうから聞こえるようにぼやけていく。

その中で、アルベルトとミリアの姿だけが妙に鮮明だった。

王太子が優しく微笑む。

ミリアが恥じらう。

周囲が温かく見守る。

なるほど。物語の始まりだ。

ただし、リディアにとっては断罪処理の開始通知である。

婚約という名の強固な契約がある限り、丁寧な文面で届く招待状は、実質的な召喚命令と同義だ。下手にミリアへ優しくすれば、今度は「理解ある婚約者」という、さらに断りづらい役職を押しつけられる。

問題は、ミリアではない。

アルベルトでもない。

恋愛劇が始まった瞬間、その周辺にリディアの席が用意されてしまうことだ。

なら、その席に座らない方法を探すしかない。

リディアの視線が、ふと大広間の柱の陰に吸い寄せられた。

華やかな場に似つかわしくないものは、いつだって目立たない場所へ押し込まれる。使用人の出入り口、祭事準備の通路、神殿関係者が使う控えの一角。

そこに、一枚の紙が貼られていた。

神殿職員募集の求人票。

『神殿職員急募』

『聖女候補、浄化補佐、結界管理補助』

『経験不問』

『魔力測定あり』

『給与応相談』

給与応相談。

神聖な言葉の中に、急に生活の匂いが混じっている。

リディアは、その求人票を剥ぎ取る勢いで見つめた。

聖女候補。

ミリアがそこへ進む前に、自分がその枠へ入ればいい。

悪役令嬢が聖女をいじめるのが定石なら、先に自分が聖女の枠を埋める。略奪者の発想ではなく、空席を埋める労働者の矜持である。

リディアは、求人票の条件を目で追った。

聖女候補。対象範囲内。

浄化補佐。未経験可なら問題なし。

結界管理補助。専門知識は後で覚える。

経験不問。ありがたい。

魔力測定あり。公爵家の血筋なら、最低限の数値は出るはず。

給与応相談。重要。とても重要。

公爵令嬢兼、聖女候補。

肩書きは渋滞するけれど、修道院送りよりははるかに現実的だ。

「リディア?」

少し離れた場所から、アルベルトの声がした。

王太子は、ミリアに扇を返した後、ようやく婚約者の方へ視線を戻したらしい。

リディアは、微笑みを整えた。

王子の声。王子の視線。王子の気遣い。

普段なら、社交上それなりに価値のあるものとして扱うべきだった。

けれど今は、自分の人生を停滞させる通知音にしか聞こえない。後で確認する。必要なら返信する。現在の優先度は低い。

「はい、殿下」

「顔色が少し悪いようだが」

「ご心配には及びません。少し、人いきれに当てられただけです」

「なら、休むといい」

「ありがとうございます」

丁寧に礼を返しながら、リディアは静かに一歩下がった。

この会話は終了。

重要なのは、明日の動線だ。

神殿。

採用窓口。

魔力測定。

履歴書。

志望動機。

……志望動機。

そこは少し難しい。

その動きに気づいた侍女ノラが、すぐそばへ寄ってきた。

「お嬢様? お顔の色が少し……」

「ノラ」

「はい」

「明日の予定を変更します」

ノラは瞬きをした。

「王妃様とのお茶会でございますか?」

「いいえ」

リディアは、もう一度だけ柱の陰の求人票を見た。

聖女候補。

浄化補佐。

結界管理補助。

経験不問。

魔力測定あり。

給与応相談。

条件は確認した。

なら、次は応募である。

「神殿に行きます」

「神殿、でございますか。ご祈祷でしょうか」

「いいえ」

リディアは扇を閉じた。

「就職します」

ノラの表情が止まった。

まばたきも、呼吸も、侍女としての作法も、一瞬だけ置き去りになった顔。

公爵令嬢が。

王太子の婚約者が。

王城の夜会中に。

明日、神殿へ。

就職。

単語が一列に並ばないのだろう。

リディアにも分かる。

分かるが、今は並べるしかない。

公爵令嬢が、就職。

冗談なら笑えた。

けれど、リディアの目は本気だった。

「お嬢様」

ノラが、やや慎重に口を開く。

「はい」

「公爵令嬢は、履歴書を持つものなのでしょうか」

そこ。

リディアは夜会の笑顔を崩さないまま、静かに考えた。

まずは志望動機。

悪役令嬢になる予定でしたので、先に聖女職を希望します。

……正直に書くのは、やめておこう。