作品タイトル不明
第八十四話 夜の街道
夜の街道を、馬が駆けていた。
灯りはない。
月は雲の向こうに隠れ、道の両脇に沈む草地も、遠くの木立も、ほとんど黒い塊にしか見えなかった。街道そのものも白く浮いているわけではない。踏み固められた土の色が、周囲よりわずかに薄く沈んでいるだけだ。普通なら、馬を走らせる速度ではない。
それでも、一団は速度を落とさなかった。
先頭を行くギルは、鞍の上で身を低く保ちながら、馬の呼吸と脚の運びを感じていた。風が赤布の端を叩き、外套の裾を後ろへ引く。頬に当たる夜気は冷たいが、身体の内側では肉体強化魔法が薄く巡っていて、手綱を握る指にも、鞍を挟む脚にも、余計な震えはない。
自分だけではない。
馬にも、必要な分だけ流している。
強くしすぎれば、馬の身体が保たない。弱すぎれば、この速度が維持できない。筋肉の動きに沿わせ、呼吸を邪魔せぬように肉体強化魔法で支える。そこへ防御魔法も薄く重ねる。飛び石、枝、道端から跳ねる小さな硬いもの。そういう些細な傷で速度を落とすわけにはいかない。
うーん。
やっぱり夜の高速移動は、馬にも人にも優しくないな。
そんなことを思いながらも、ギルは手綱を緩めなかった。
背後には、セバスチャンたちが続いている。
振り返る必要はない。感知魔法を広く展開していれば、魔力反応の位置は分かる。自分を中心に、夜の中へ薄く広げた感覚の中で、後続の反応が一定の距離を保って動いている。セバスチャンの反応は相変わらず静かだ。あのクソじじいは、こういう状況でも無駄が少ない。強く見せるでもなく、弱く漏らすでもなく、必要な場所に必要な分だけ魔力を使用している。
オルドの反応は、少し荒い。
力で押しているのが分かる。馬上で怒鳴っているわけでも、実際に目で見ているわけでもないが、魔力の揺れ方に癖が出る。こういう時、オルドは気合いで速度を維持しようとする。悪くはない。悪くはないが、長く続くと馬に負担が来る。
ジノはもう少し細い。
槍を持たせた時の慎重さと同じで、魔力の流れにも無理が少ない。だが慎重すぎる分、道が荒れた時の反応がわずかに遅れる。クレインとトールは、さらに違う。体力で押すのではなく、馬と自分の消耗を見ながら魔力を削っている。苦しいはずだが、潰れるほどではない。
よし。
まだ行ける。
ギルは街道の先へ視線を戻した。
感知魔法には、強い反応はない。
少なくとも、進路を塞ぐような騎士団規模の反応も、待ち伏せを疑うようなまとまった魔力もない。遠く、街道から外れた場所にぽつりぽつりと小さな反応があるだけだ。距離はある。こちらへ寄ってくる動きもない。寝静まった村や宿場の中に混じるものもあれば、森の縁にあるものもある。
魔物ではないだろう。
たぶん、傭兵か探索者だ。
あるいは、騎士になれなかった魔力持ち。
そういう者は、いる。
貴族と騎士だけが魔力持ちというわけではない。いや、社会の表側だけ見ればそう見える。城に出入りし、訓練場で魔法を使い、戦場で名を上げ、迷宮を管理するのは貴族と騎士だ。平民は基本的に魔力を持たない。農民、職人、商人、兵、使用人。彼らは感知魔法には引っかからない。
だが、魔力持ちがすべて家に収まるわけではない。
騎士家に生まれても、騎士としての生活に馴染めない者はいる。戦場を嫌う者、規律に耐えられない者、主家との関係を壊す者、単純に腕が足りない者。家そのものが潰れることもある。主を失い、領地を失い、名だけを抱えて市井へ落ちる者もいる。
そういう者が傭兵になる。
そういう者が探索者になる。
時には商家や町の顔役の用心棒のような立場に収まることもある。
その子に、魔力が出ることもある。
ギルは、前方の道がわずかにくぼんでいるのを見て、馬の歩幅を半呼吸だけ変えた。蹄が泥を叩き、湿った音が跳ねる。後続の反応がそれに合わせてわずかに揺れたが、崩れはしない。セバスチャンは当然ついてくる。オルドも遅れない。ジノが少し外へ膨らみ、クレインとトールはその後ろで道を選んだ。
よし、見ているな。
ただ走っているだけではない。
この速度で、暗い街道で、前の馬の動きと道のわずかな変化を拾っている。最初の頃なら、誰か一人くらい無駄に魔力を強めていたかもしれない。今は、少なくともそれをしない程度には鍛えられている。さすがはマバール家に仕える騎士だ。
ギルは少しだけ息を吐いた。
市井育ちの魔力持ちでは、こうはいかない。
もちろん、全員がそうだと決めつけるつもりはない。中には才能だけで伸びる者もいるだろう。だが、普通は無理だ。魔力は持っているだけでは役に立たない。扱い方を知らなければ、ただ身体の中に熱があるだけになる。
魔力をどう練るか。
どこへ流すか。
どの程度まで強め、どこで止めるか。
攻撃魔法で焼く時、貫く時、薙ぐ時、叩き潰す時、何が違うのか。防御魔法を厚く張るのか、薄く広げるのか、身体に沿わせるのか、馬ごと包むのか。肉体強化魔法を腕へ寄せるのか、脚へ回すのか、全身へ均すのか。感知魔法を広く浅く置くのか、狭く深く見るのか。
そういうものは、言葉だけで覚えるものではない。
この世界の魔法には、詠唱がない。決まった言葉を唱えれば火が出るわけでもない。印を切れば壁が立つわけでもない。身体の内側で魔力を動かし、揺らし、形にする。だからこそ、教える側にも経験が要る。見本を示し、失敗を見抜き、崩れた感覚を直す者がいなければ、まともに伸びない。
騎士家には、それがある。
代々の蓄積がある。親が教え、兄が教え、家に仕える者が見て、主家の訓練場で鍛えられる。どこまで強めれば感知魔法に引っかかりやすくなるか。攻撃魔法はどう魔力を練るのか。治癒魔法は魔力をどう使えばいいのか。そういうものを、幼少期から叩き込まれる。
傭兵になった親が子へ教えるだけでは、とても足りない。
騎士家で生まれ育った騎士と、市井で生まれ育った魔力持ちの間には、どうしても差が出る。
実際、騎士から見れば、市井育ちの魔力持ちなど子どもの騎士に等しいのだろう。貴族からすれば、さらに低く見える。貴族の赤子より頼りない、と笑う者もいるかもしれない。
ギル自身、その感覚がまったく分からないわけではなかった。
力の差は、目に見える。
魔力反応を拾えばなおさらだ。弱い。薄い。揺れる。荒い。どこかで見かける市井の魔力持ちの反応は、訓練された騎士のものと明らかに違う。今、街道脇の遠くで眠るように小さく揺れている反応も、直属騎士たちと比べれば比べるまでもない。
だが、だから無視していいかといえば、違う。
そこが面倒くさい。
ギルは、前方の暗がりへ感知魔法を伸ばしたまま、口の中で小さく息を転がした。赤布の内側に、自分の呼気がわずかにこもる。夜気に冷やされてすぐ消えるが、その一瞬の湿り気が妙に現実感を持って頬へ戻ってきた。
個人魔法。
それがある。
今の実戦で中心になるのは五大魔法だ。攻撃魔法、防御魔法、肉体強化魔法、治癒魔法、感知魔法。洗練され、共有され、体系化された魔法。多くの者が扱い、教え、戦場や迷宮で使う。
だが、その外側に、個人魔法というものがある。
ある特定の目的に偏って生まれる魔法。
たいていは、使い物にならない。
いや、本当に使い物にならないものが多い。戦場で役に立たない。迷宮でも役に立たない。家の力にもならない。そんなものを覚えても、名誉にも金にもならない。だから笑われ、忘れられ、失われる。
有名な笑い話に、豚を探す魔法がある。
どこかの魔力持ちが、豚ばかり探していたらしい。逃げた豚か、放牧している豚か、飼っている豚か。詳しい話までは知らない。だが、とにかく豚を探すことに人生の相当な時間を使った者が、いつの間にか豚だけを探せる魔法を覚えていた。
豚だけだ。
牛は探せない。
馬も探せない。
人も探せない。
魔物も探せない。
豚だけ。
あまりにも狭い。
使い道がないとは言わない。豚をなくした時には便利だろう。養豚に一生を捧げるなら、多少は役に立つのかもしれない。だが、騎士家が継承する魔法ではない。貴族が大金を払って学ぶものでもない。戦場で、敵兵の中から豚を探せても仕方ない。
そりゃ笑われるよな。
ギルも、話だけ聞けば笑う。
だが、笑って終わらせるには少し引っかかる。
その魔力持ちは、おそらくまともな魔法教育を受けていなかった。少なくとも、騎士家で攻撃魔法や防御魔法を叩き込まれた人間が、豚だけを探す魔法へ人生を賭けるとは考えにくい。市井に近い場所で、必要に迫られ、豚を探し続けた結果として、そんな魔法が生まれた。
つまり、自力で魔法を形にした。
それだけでも、軽くない。
さらに厄介なのは、豚が魔力持ちではないという点だ。
魔物の豚なら話は別だが、笑い話として残っている以上、おそらく普通の豚だろう。魔力反応を持たない対象を探した。少なくとも、そういう魔法が存在したと伝わっている。
なら、平民を探す魔法も、絶対に存在しないとは言い切れない。
ギルの感知魔法では、平民は拾えない。
魔力を持たないものは感知できない。足跡も、姿も、呼吸も、武器も、罠も、毒も、腐銀も分からない。分かるのは魔力反応だけだ。だから感知魔法を拡げていても、平民の伏兵が草むらに潜んでいれば、目で見るか、音を拾うか、別の手段で気づくしかない。
その穴を埋める個人魔法があったら。
それは、笑い話では済まない。
ギルは手綱をわずかに引き、速度を落とさないまま進路を少しだけ左へ寄せた。前方の街道脇に、倒れた枝の影があった。魔力反応はない。平民が置いた罠かどうかも感知魔法では分からない。目で見える範囲では、ただの枝だ。馬の脚を取るほどではないが、この速度なら避けた方がいい。
後続もついてくる。
枝を越える蹄音が、夜の中で小さく乱れ、すぐに揃った。
感知魔法には、まだ強い反応はない。
遠くの弱い反応も動かない。
それでも、ギルはそれらを完全には消さず、頭の片隅に置き続けた。
この世界の貴族は、平民を下に見る。
騎士も、似たようなところがある。
下に見る、という言葉では少し足りないかもしれない。別の存在として見ている。平民は平民。騎士は騎士。貴族は貴族。それぞれ、身体の作りから違うとでも言うように、当たり前に線を引く。
前世の貴族や騎士を、この世界の人間に説明しても、たぶん理解しにくいだろう。
石を投げられただけで死ぬかもしれない弱い人間が、なぜ権力を持つのか。なぜ命令できるのか。なぜ多くの者を従えられるのか。血筋、土地、法律、宗教、金。そういった仕組みを語れば理屈としては分かるかもしれないが、頭の芯や身体の奥では納得しない気がする。
この世界は、その点では単純だ。
強いから偉い。
偉いから強いのではない。
もちろん、家や血統や政治が絡む。単純な腕力だけで決まるわけではない。だが、根の部分にあるのは魔力であり、戦える力であり、魔物や敵国から守れる現実の力だ。辺境にいれば、それは特に分かりやすい。弱い貴族に価値はない。戦えない騎士は、いざという時に死ぬだけだ。
だからこそ、強さは正しく評価される。
少なくとも、そう見える場面は多い。
だが、評価される強さの形が決まりすぎると、外れたものを見落とす。
市井育ちの魔力持ちが、もし何か有効で強力な個人魔法を持っていたら。
その可能性は低い。
かなり低い。
だが、決してゼロではない。
ゼロではないものを、ゼロとして扱うのは危ない。
ギルは、少しだけ目を細めた。
夜の道は続いている。進む先に、まだ灯りは見えない。馬の息が白くならない程度の冷えが、肌の上を滑っていく。背後の反応は保たれているが、クレインの魔力が一度だけわずかに乱れた。すぐに戻る。落馬でも、馬の異常でもない。おそらく道の段差で身体が跳ねたのだろう。
ギルは速度をほんの少しだけ落とした。
大きく落とせば時間を失う。
落とさなければ、後続の消耗が増える。
その中間を選ぶ。
セバスチャンの反応が、何か言いたげに少しだけ揺れた気がした。気のせいかもしれない。感知魔法で感情は分からない。ただ、あのクソじじいなら、こちらの速度調整の意味くらい察しているだろう。
オルドが少し楽になる。
ジノの反応が整う。
クレインとトールの揺れも落ち着いた。
よし。
このまま行く。
ギルは前を向いたまま、胸の奥で魔力の流れを整えた。感知魔法を拡げすぎない。狭めすぎない。強くすれば遠くまで拾えるが、こちらの魔力も目立つ。薄く、広く、必要な範囲だけ。弱い反応を雑音として流しながらも、完全には捨てない。
市井育ちの魔力持ち。
騎士崩れ。
探索者。
傭兵。
豚を探す個人魔法。
くだらない笑い話の奥に、魔法の厄介さがある。
思えば、魔法というものは最初からそういうものなのかもしれない。誰かが必要に迫られ、何度も繰り返し、身体の内側で魔力を動かし続けた結果、形になる。五大魔法だって、最初から五大魔法だったわけではない。誰かの個人魔法が洗練され、共有され、使えるものだけが残り、体系化された。
なら、まだ体系になっていない危険なものが、どこかに転がっていてもおかしくはない。
それを持つ者が、貴族であるとは限らない。
騎士であるとも限らない。
そして、味方とは限らない。
ギルは小さく笑いそうになり、赤布の内側で口元だけを歪めた。
面倒な世界だな、本当に。
だが、その面倒な世界で生きている。
しかも、自分は貴族だ。辺境伯家の三男で、異常な魔力容量と魔力強度を持ち、直属騎士を率いて夜の街道を駆けている。弱者の警戒心だけで生きているわけではない。むしろ、警戒される側だ。
だからこそ、見落とすと足をすくわれる。
ギルは感知魔法に映る弱い反応を、もう一度だけなぞった。遠い。動かない。こちらへ向かう気配もない。今この場で脅威ではない。
それでいい。
今はそれだけ分かればいい。
馬の速度を戻す。
蹄音が少しだけ鋭くなり、夜気が頬を叩く力も増した。背後の反応が遅れずについてくる。セバスチャン、オルド、ジノ、クレイン、トール、そして他の直属騎士たち。全員が、暗い街道の上で一本の流れになっていた。
灯りはまだない。
強い魔力反応もまだない。
それでも、ギルは油断しなかった。
メガレア家長男の件へ向かっている以上、何が転がっているか分からない。帝国の貴族、王国側の思惑、亡命者、保護対象、上品な山賊。面倒な言葉はいくらでも並ぶ。だが、今この瞬間に必要なのは、前へ進むことと、見落とさないことだ。
夜の街道が、さらに暗く沈む。
ギルはその先へ、馬を走らせた。