軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八十五話 ヴォス要塞

夜の街道を、馬の蹄が叩いていた。

音は重ならない。重なれば目立つ。だから俺たちは、ひと塊になりすぎず、離れすぎず、闇の中を細く伸びる牙のように走っていた。月は雲の向こうに隠れ、空には薄い灰色の膜が張っている。風は冷たく、湿った土と草の匂いが外套の隙間から入り込んでくる。

馬の首筋には汗が浮いていた。

俺は手綱を握りながら、自分と馬へ流している肉体強化魔法を調整する。強めれば速い。だが速すぎれば壊れる。馬は道具ではない。ここで潰せば帰りに困るし、何より無駄だ。防御魔法も同じだった。必要な分だけ覆い、余計な魔力の揺れを外へ漏らさないよう押し込める。

こういう走り方にも、だいぶ慣れてきた。

慣れてきた自分が少し嫌になる。

お気楽な三男坊とは、何だったのか。

前方に目を向けると、街道の形が少しずつ変わってきていた。土の色が重くなり、道端の草が低くなり、ところどころに大きな岩が転がっている。最初は馬車の邪魔になりそうな石が増えた程度だったが、進むにつれて地面そのものが硬くなっていく。丘の輪郭は丸みを失い、闇の中に黒く沈む岩肌が見え始めていた。

ヴォス。

古い言葉で、大きな石や岩という意味がある言葉だ。

父上やダル兄さんの話で何度か聞いた名だ。地図の上では、国境地帯の要の一つ。だが、こうして夜の中を近づいてみると、その名の意味が肌に乗ってくる。道の両側に増えていく岩は、ただ邪魔なだけではない。砕けば石材になり、積めば壁になり、削れば砦になる。ここに要塞が築かれた理由は、地図よりも地面の方がよく語っていた。

この先の背後には、マバール領で最大の平野が広がっている。

そこへ帝国側から大きく食い込まれれば、面倒では済まない。だからこそ、この岩だらけの地に要塞を置き、道を押さえ、平野の入口を塞ぐ。資材は周囲にいくらでもある。守るべき平野は後ろにある。兵を置く理由も、壁を厚くする理由も、夜風の冷たさの中で自然と理解できた。

なるほど。

ダル兄さんがいる場所としては、実にらしい。

真面目で、硬くて、逃げ場がなくて、責任が重い。

俺ならちょっと嫌だ。

いや、かなり嫌だ。

だが、ダル兄さんなら背筋を伸ばして立つのだろう。そういう兄だ。俺は、今からその要塞の近くで山賊をやる。

最悪だな、これ。

内心で苦笑しながら、俺は感知魔法を拡げ直した。闇の中に、魔力反応が点として浮かぶ。背後にはセバスチャンたちの抑え込まれた反応。完全に消えているわけではないが、夜を駆けながらこれだけ保てるなら十分だ。オルドやジノたちも以前よりずっといい。まだ多少の揺れはあるが、駆ける馬上で肉体強化魔法を使い、防御魔法を維持しながら魔力を抑えているのだから、文句ばかりも言えない。

前方の遠く、要塞方向にも反応はあった。

騎士の反応。数は多い。だが、壁の向こうで固まって動かない反応と、外側へ薄く散っている反応の差は何となく掴める。ただ、掴めるのは強弱と距離と数。その程度だ。

そして、このまま王国側から近づけば、相手にもこちらを拾われる。

俺たちは帝国から来た山賊でなければならない。

王国側から駆けてきた謎の集団では駄目だ。少なくとも、そう見えやすい動きは避けるべきだった。

「セバス」

声を低く落とし手で合図すると、後ろを走っていた傷顔の騎士が馬を寄せてきた。闇の中でも、顔に走る傷の陰が分かる。赤布はまだ口元へ下ろしていない。今は走るための呼吸を優先しているらしい。

「そろそろ曲がるぞ」

「へい」

短い返事だけで十分だった。

セバスチャンは後続へ手で合図を出す。声は飛ばさない。馬列がわずかにしなり、街道から外れる。蹄の音が硬い道から草と土へ移り、響きが鈍くなった。暗い斜面を斜めに下り、岩陰を縫い、国境線を示すような明確な壁も柵もない場所を越える。

帝国領。

その境目を越えると空気が少し変わった気がする。

もちろん、気のせいだ。

土は土だし、草は草だ。夜風に国境の匂いが混じっているわけでもない。それでも、ここから先で俺たちが何をしても、マバール家の若様ではなく山賊の仕業にしなければならない。その意識だけで、背筋の奥が少し冷える。

赤布を巻き直す。

布が口元を覆うと、呼吸に自分の熱が返ってきた。視界の端で、セバスチャンたちも同じように赤を上げていく。月明かりの乏しい夜の中で、赤だけが妙に鮮やかに見えた。

上品な山賊。

馬鹿みたいな言葉だ。

だが、これほど便利な言葉もない。

帝国領へ入ってから、俺たちはしばらく速度を維持した。街道ではなく、地形の薄い線を拾って進む。斜面の起伏、低い藪、岩の切れ目、乾いた沢のような窪み。夜目に頼る部分もあるが、馬を壊さないためには無茶な直線移動を避ける必要があった。

感知魔法は拡げたままだ。

薄く、広く、余計な濃さを出さずに。

俺の魔力容量なら、それくらいは苦にならない。普通の貴族がどの程度まで広げられるのか正確には知らないが、少なくとも今まで出会った連中よりはかなり広く拾えている自覚がある。これだけ先に反応を掴めるなら、奇襲する側としてはかなり便利だ。

実に山賊向きだな、俺。

嫌な才能だ。

そう思った瞬間、拡げた感知魔法の端に、強い反応がかかった。

俺は手綱を引きすぎないよう注意しながら、馬の速度を落とした。肉体強化魔法の流れを細め、馬の脚へかけていた補助も徐々に抜く。急に止めれば馬が乱れる。反応が乱れれば後続にも伝わる。自分の身体も同じだ。戦う前に目立ってどうする。

後ろの蹄音が順に鈍くなった。

セバスチャンが横へ来る。

「引っかかったんで?」

「ああ。前方、少し左寄りだ。強いのが一つ。周りに騎士らしい反応がいくつか。思ったより少ないな」

俺が見ているのは魔力の点だけだ。だが、強い反応の周りにあるはずの騎士反応が、俺の想像より薄かった。メガレア家の長男が王国へ亡命を求め、要塞手前まで来ているのなら、もっと護衛が厚くてもいいと思うんだが。

「距離は?」

「まだある。ここからは通常移動だ。魔力を抑えて近づく」

「へい。野営してやがるなら、寝込みを撫でるにはいい頃合いですな」

セバスチャンの声は低い。冗談めいた軽さはあるが、笑いはない。

俺は頷き、後続へ手で合図した。馬の歩調が変わる。夜を裂く疾駆から、地面を探る静かな移動へ。肉体強化魔法を切るわけではない。完全に切れば反応は減るが、いざという時の初動が遅れる。だから極限まで薄くする。外へ漏れる揺れを抑え、身体の奥で小さく回すように保つ。

魔力を使わず走らされた訓練を思い出す。

走れない兵は死んだ兵。

クソじじいの声が脳の奥に残っている。あれは地獄だった。だが、その地獄のおかげで、今の俺は魔力に頼りすぎず馬上で身体を保てる。腹立たしいが、役に立っている。

地形はさらに岩が多くなっていた。大きな岩の陰に入り、低い尾根を回り込み、風が運ぶ匂いを拾う。煙。馬。煮炊きの残り。人のいる場所の匂いが、夜明け前の冷たい空気に薄く混じっていた。

空の東端が、ほんの少しだけ灰色を増している。

夜明け前。

人間が一番鈍くなる時間だ。

俺たちは馬を降りた。手綱を直属騎士の一人に預け、岩陰へ伏せるように進む。赤布の下で息を殺し、外套の裾が石に擦れないよう片手で押さえる。草は低く、隠れるには足りない。だから岩を使う。ヴォスという名に相応しく、周囲には身を隠すだけの黒い塊がいくつもあった。

少し先に、いくつかの淡い灯りが見えた。

中央に天幕がある。

暗がりでも分かるほど、布が上等だった。支柱の立て方も、周囲の荷の置き方も、ただの逃亡者の野営ではない。余裕を失っているはずなのに、貴族の形だけは捨てきれていない。中心の天幕は他より大きく、布の重なりも厚く、入口には飾り気を抑えた紐が垂れている。松明は少ない。火を大きくすれば要塞側からも見えやすいと分かっているのだろう。

周囲に騎士がいる。

立っている者、座っている者、馬の近くにいる者。姿として見えるのはその程度だ。感知魔法を使わずとも、夜明け前の野営の沈んだ空気は分かる。だが、ここで油断するのは危ない。暗がりには見えない人間がいるかもしれないし、平民は感知魔法に引っかからない。

俺は一瞬だけ感知魔法を濃くした。

点が明るくなる。

中央の天幕に強い反応。一つ。

それなりに強い。貴族の反応だが、そこから離れた反応は思ったより弱く、数も多くない。騎士らしい反応はある。あるが、メガレア家の長男を守る一団としては、薄い。

すぐに感知を薄める。

濃く拡げれば、相手の感知魔法に触れる危険が上がる。ここから先は、こちらが気づかれる前に距離を詰めるだけだ。

「騎士が少ない」

岩陰で膝をついたまま、俺は囁いた。

セバスチャンが隣で野営地を見ている。彼の目が実際に何を拾っているのかは分からない。ただ、その横顔には驚きがない。

「おそらく、見捨てられたんじゃねえですかい?」

囁き声が、冷えた岩に吸われた。

「見捨てられた、か」

「へい。直属の連中や、よほど深く食い込んでた騎士は別でしょうがね。それ以外は、沈みかけの船に最後まで乗る義理もねえでしょう」

俺は中央の天幕へ目を戻した。

メガレア家そのものが消えたわけではない。長男が落ちても、家の名、血、財、残った人間はある。次男か、他の有力者か、あるいは長男ではない誰か。可能性が残っている場所へ移ることは、帝国騎士にとって裏切りではなく生き残りかもしれない。

次の皇帝だと思っていた男が、一気に袋小路へ転がり落ちた。

ついていった者も大変だな。

同情はしない。

だが、少しだけ分かる。

会社で次期社長派閥にいたら、急にその社長候補が全部失って逃げ出したようなものだ。いや、前世の会社なら命までは取られないかもしれないが、この世界では普通に死ぬ。なら逃げ足の速い連中から消える。

残っているのは、逃げられない者か、逃げる先のない者か、最後まで賭けた者か。

どれでもいい。

こちらの仕事は変わらない。

「生き残りを拾われると面倒だ」

「山賊ですからな」

セバスチャンが口元の赤布を少し押さえた。

俺も赤布を巻き直す。指先の感覚を確かめ、足裏へ意識を落とす。身体の奥で魔力を細く保つ。まだ解放しない。ここで漏らせば、天幕の中の貴族が動くかもしれない。

俺は手で合図を出した。

オルドたちが岩陰から散る。声はない。鎧ではないが、武器はある。山賊もどきの格好でも、身体の運びは騎士だった。低く、静かに、距離を詰める。こちらの位置を知っているのは、今この場の俺たちだけでいい。

これ以上近づけば、相手の感知魔法に引っかかる。

そう感じる手前で止まった。

野営地の輪郭がはっきり見える。入口近くに座っていた騎士が、首を下げている。眠っているのか、目を閉じているだけか。馬が鼻を鳴らし、誰かが毛布の中で身じろぎした。中央の天幕だけが、不自然なほど静かだった。

俺は息を吸った。

寒い空気が赤布越しに肺へ入る。

魔力を解放した。

胸の奥に押し込めていた熱が、一気に全身へ広がる。肉体強化魔法が骨と筋肉へ食い込み、防御魔法が皮膚の外側に薄く走る。感知魔法は必要な範囲だけを鋭く保ち、同時に攻撃魔法を起こす準備を整える。

周囲でも魔力が跳ねた。

セバスチャン、オルド、ジノ、クレイン、トール。抑え込まれていた反応が、赤布の下で牙を剥く。

野営地の騎士が顔を上げた。

遅い。

「行くぞ」

俺たちは岩陰から飛び出した。

地面が後ろへ流れる。肉体強化魔法で踏み込んだ脚が、湿った土を裂いた。最初に立ち上がろうとした騎士へ、攻撃魔法を放つ。胸元を貫くように絞った一撃が、鎧ごと身体を後ろへ弾いた。声が出る前に倒れる。別の騎士が剣を抜く。俺は横へ抜けながら攻撃魔法を薙ぐように走らせ、腕と肩口を焼き切った。

悲鳴が上がった。

その悲鳴で野営地が目を覚ます。

遅い。

セバスチャンが右側へ入った。低い姿勢から剣が跳ね、起き上がりかけた騎士の喉を裂く。オルドは力任せに見える踏み込みで、盾を構えかけた相手ごと押し潰した。ジノの槍が暗がりを走り、天幕脇の影から出た騎士の腹を貫く。クレインとトールは派手ではないが、逃げ道を塞ぐ位置へ回り込んでいた。

俺は中央の天幕へ向かう。

足元に転がった木箱を飛び越え、張り綱を踏まないよう避ける。豪奢な天幕の布が目の前で揺れた。中の強い反応が、ようやく動き出す。

熟睡してたのか?

こんな場所で?

いや、眠るしかなかったのか。

どちらにせよ遅い。

天幕の入口が内側から乱暴に開いた。

大柄な男が出てきた。

髭をたくわえた顔。厚い肩。夜着の上に慌てて羽織ったらしい上衣。それでも、立っただけで周囲の空気を押すような貫禄があった。暗がりの中でも、目の奥に残る光は鈍くない。落ちたとはいえ、ただの貴族ではないのだろう。

なかなかの貫禄だな。

そう思った瞬間、男の魔力が膨れ上がった。

威圧。

肌に熱が刺さる。周囲の騎士たちが一瞬動きを止め、馬が怯えたように嘶いた。男の魔力は強い。少なくとも、そこらの騎士とは比べものにならない。メガレア家の長男として、魔力強度も魔力容量も相応に持っている。

普通なら。

普通の貴族なら、これで足が止まるのかもしれない。

俺はさらに魔力を開いた。

押し込めていた湖を、地面の下から持ち上げるような感覚。胸の奥の熱が膨れ、赤布の内側で呼吸が熱くなる。男の威圧が俺へ届く前に、こちらの魔力が押し返した。夜明け前の薄闇が、見えない圧で軋んだ気がした。

髭面の男の目が見開かれる。

その表情に浮かんだものを、俺は断定しない。

ただ、身体が半拍止まった。

それで十分だった。

俺は攻撃魔法を放った。

焼く。

ただ広げるのではなく、男の正面へ絞り、厚く、逃がさず、押し込む。男も反応した。防御魔法が立ち上がり、攻撃魔法の熱を一瞬だけ受け止める。さすがに遅くはない。強い。貴族として、戦う術も知っている。

だが、足りない。

防御魔法の表面が軋み、赤く歪む。男が何か叫んだ。言葉までは聞き取れない。俺は踏み込みながら、さらに魔力を流し込む。攻撃魔法の熱が防御を食い破り、上衣を焼き、肉を焼き、骨まで飲み込んだ。

男の輪郭が崩れた。

悲鳴は途中で消えた。

豪奢な天幕の入口に立っていた大柄な身体は、一瞬だけ黒い影になり、次の瞬間には火に飲まれ、灰へ変わった。風が吹くと、僅かな灰が布の上と湿った地面へ散る。あれほどの貫禄を持っていた男の残りは、それだけだった。

周囲が止まった。

生き残っていた騎士たちの反応が乱れる。感知魔法に映る点が揺れ、弱くなり、いくつかは後ろへ下がろうとした。実際に膝をついた者も見えた。剣を落とす音がする。

「こ、降――」

誰かが言いかけた。

俺はそちらへ攻撃魔法を向けた。

「山賊が降伏など聞くと思うか?」

赤布の下から出た声は、自分でも冷たく聞こえた。

騎士の顔が強張ったように見えた。次の瞬間、攻撃魔法が胸を貫き、後ろの荷まで焼いた。隣でセバスチャンが動く。逃げようと背を向けた騎士の首筋へ剣が入り、声もなく倒れる。オルドが怒鳴らずに踏み込み、抵抗しようとした相手の首を叩き折る。ジノの槍が逃げ道を縫い、クレインとトールが外周を潰した。

戦いは、もう戦いではなかった。

起き上がる前に死ぬ者。

剣を抜く前に焼かれる者。

馬へ走ろうとして、背中を貫かれる者。

魔力を膨らませようとした瞬間、セバスチャンに喉を裂かれる者。

騎士たちは弱くはなかったのだろう。だが、眠りから叩き起こされ、主らしき男を一瞬で灰にされ、降伏すら拒まれた。そこから整った陣も、命令も、立て直しも生まれない。野営地の豪奢さだけが、場違いに闇の中で揺れていた。

俺は逃げる魔力反応を追った。

一つ、岩陰へ走る。

攻撃魔法を細く伸ばして足元を薙ぐ。倒れた反応へ近づき、もう一撃で消す。別の反応が馬の方へ。そこにはトールが回っていた。騎士が剣を振る前に、横合いからセバスチャンの剣が入り、反応が途切れる。

天幕の布に火が移りかけた。

俺は余計な延焼を防ぐため、攻撃魔法を止め、防御魔法で熱の流れを軽く遮った。証拠を焼くのはいいが、煙を上げすぎると要塞から見えやすい。いや、もう見えているかもしれない。だが、山賊が派手に暴れた跡としては、この程度で十分だ。

平民らしき悲鳴が遠くで上がった。

感知魔法には引っかからない。だから位置は目と耳で拾うしかない。荷の陰から人影が逃げる。武装はしていないように見えた。使用人か、馬丁か、雑役か。数人が野営地の外へ転がるように走っていく。

俺は追わなかった。

今、優先すべきは魔力持ちだ。

騎士や貴族の反応を残せば、証言だけでは済まない。誰が、どの程度の魔力で、どう動いたか。そういうものを持ち帰られる方が危険だ。平民の口から出るのは、赤布の山賊が襲った、強い魔法で焼いた、恐ろしかった、その程度ならいい。

最後の騎士反応が消えた時、空はわずかに白み始めていた。

野営地には、焦げた匂いと血の匂いが混じっていた。馬が数頭、手綱の範囲で暴れている。倒れた天幕の端に灰が残り、湿った地面には黒い跡が散っていた。俺は赤布の内側で息を吐き、感知魔法をもう一度濃く展開する。

近い範囲に強い反応はない。

弱い反応も、こちらの騎士たちだけだ。

遠く、ヴォス要塞方向には、多数の反応がある。壁の上らしい位置に、ひときわ覚えのある魔力が立っていた。

懐かしい。

胸の奥が、ほんの少しだけ緩みかける。

だが、そちらへ顔を向けすぎないようにした。

今の俺はギルバート・マバールではない。帝国領から現れ、帝国貴族を焼き殺した山賊だ。ここで要塞へ近づき、兄弟の感動の再会などしていたら、馬鹿どころではない。

「セバス」

俺が呼ぶと、セバスチャンが血のついた剣を軽く振ってから近づいてきた。赤布の上の目だけが、いつも通り妙に落ち着いている。

「生き残りは?」

「魔力持ちは皆殺しにしました」

「平民は?」

「数人逃げましたが、追いますかい?」

俺は逃げた方向へ目を向けた。

夜明け前の薄明かりの中、岩の間へ消えていく人影はもう見えない。追えば殺せるかもしれない。だが、追うには時間を使う。平民相手に余計な追撃をしている姿を見られる方がつまらない。

「放っておけ。平民なら大した証言能力はない。赤布の山賊に襲われた、それで十分だ」

「へい」

セバスチャンはそれ以上聞かなかった。

オルドたちが外周から戻ってくる。誰も大きな傷は負っていないように見える。細かな確認は後だ。今はここに長居しない。俺は豪奢な天幕の残骸を一瞥した。さっきまで大柄な男が立っていた場所には、灰が湿った地面に薄く広がっているだけだった。

メガレア家の長男。

おそらく、そうだったのだろう。

感知魔法で名前は分からない。顔も知らない。名乗りも聞いていない。だが、この状況、この反応、この天幕の中心にいた男。外す方が難しい。

それでも、俺は心の中で断定を一つ遅らせた。

山賊は、相手の名前など知らない。

襲って、焼いて、奪う。

ただそれだけだ。

「燃やしすぎるな。煙が上がる前に離れる」

「荷はどうします?」

オルドが低く尋ねた。

俺は周囲を見た。財貨らしき箱もある。食料も馬もある。山賊としては持っていく方が自然かもしれない。だが、ここで荷を漁れば時間がかかる。俺たちは本職の山賊ではない。目的は財貨ではなく、長男を消すことだ。

「持てる範囲でそれらしく荒らせ。欲張るな。馬は使えるものだけ連れていく。残りは散らせ」

「承知」

短い返答とともに、直属騎士たちが動く。荷を少し崩し、分かりやすい貴重品だけ抜き、野営地を混乱の跡に変えていく。手際が良い。よくないことに、こういう作業にも慣れている。

俺はヴォス要塞の方角をもう一度だけ感知した。

壁の上にある魔力反応が、こちらを見ている気がした。

もちろん、感知魔法で視線は分からない。

だが、あの反応は動かなかった。要塞から打って出る反応もない。騎士たちの点は揺れているが、全体としては壁の内側に留まっている。ダル兄さんなら、何が起きたか理解しても、ここで軽々しく兵を出さないだろう。

気づいてくれたかな。

いや、さっきのでさすがに気づいたか。

俺の魔力を知らないはずがない。あれだけ盛大に解放すれば、要塞の壁の上からでも分かる。むしろ分からない方が困る。兄として気づいてくれたなら、弟としては少し嬉しい。だが、軍務上は気づかない顔をしてもらわなければ困る。

面倒な兄弟愛だ。

俺は赤布の下で小さく笑いかけ、すぐに表情を戻した。

「撤退する」

声を落として言うと、全員が動きを止めずに反応した。馬が引かれ、使える荷がまとめられ、足跡を完全に消すのではなく、むしろ帝国側から来て帝国側へ抜けたように乱していく。やりすぎれば不自然だ。山賊はそこまで丁寧に証拠を消さない。だから、雑に見える程度に整える。

空がさらに白くなる。

夜が終わる前に、俺たちは野営地を離れた。

背後には、崩れた天幕と灰と血の匂いが残る。前方には、帝国領の岩だらけの道が続く。王国側へまっすぐ戻るわけにはいかない。少し帝国側へ流れ、山賊らしく痕跡を散らし、追跡されにくい場所から折れる必要がある。

馬上に戻ると、身体の奥に残っていた熱が少しずつ落ち着いてきた。

戦闘は短かった。

だが、魔力を一気に開いたせいで、胸の奥がまだ熱い。防御魔法を薄く保ち、肉体強化魔法を馬へ流し直す。馬は怯えていたが、潰れてはいない。よし。帰りも働いてもらう。

ヴォス要塞の方角は、もう岩に隠れて見えなかった。

それでも感知魔法の端には、あの懐かしい反応がまだ残っている。

ダル兄さん。

会いたい気持ちはある。

あるが、会えば全部が面倒になる。山賊が要塞司令と挨拶してどうする。赤布を外して、兄さんお久しぶりです、メガレア家の長男っぽい人を焼いてきました、などと言えるわけがない。

いや、言ったらダル兄さんは真面目な顔で頭を抱えるかもしれない。

少し見たい気もするけど。

だが我慢だ。

俺は手綱を握り直し、馬首を帝国側の岩場へ向けた。

「若様」

横に並んだセバスチャンが、赤布の奥で笑ったような声を出す。

「何だ、クソじじい」

「いい山賊ぶりでしたぜ」

「褒めるな。嬉しくない」

「へいへい」

その軽口に、後ろの誰かが小さく息を漏らした気配があった。笑ったのか、緊張が抜けただけかは分からない。どちらでもいい。生きて帰れば、また訓練で地獄を見る。書類もある。レティシアとダリアも待っている。レアはたぶん、俺の指をつつく。

帰る場所がある。

だから、ここで長居はしない。

東の空が白み、岩の影が薄くなっていく。

俺たちは赤布を揺らしながら、帝国領の朝の中へ駆け出した。