軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八十三話 夕暮れの牙

少しだが休む事が出来た。

椅子の背に身体を預け、目を閉じ、手足から余計な力を抜いただけだ。レティシアが淹れてくれた茶の香りがまだ部屋に残っていて、机の端ではレアが白い綿毛をふくらませたまま、こちらをじっと見ていた。

窓布の隙間から入る光は、朝のものではなくなっている。

昼を過ぎた明るさが薄くなり、石壁の色が少しずつ冷えていく。城内の音も変わっていた。遠くの中庭からは兵の掛け声が残っているが、昼間のような張りはない。廊下の足音は、夜の準備へ向かう使用人たちのものに変わり始めている。

ああ、だるい。

心の中でそう呟き、俺は目を開けた。

眠っていたわけではない。

たぶん。

いや、少しは落ちていたかもしれない。だが、少しだ。少しなら問題ない。貴族の三男にも休息は必要だ。むしろ、休まず動き続けて判断を間違える方が問題である。

そう自分へ言い訳しかけて、俺は小さく息を吐いた。

駄目だな。

ここはマバール城だ。

王国内陸の、社交と茶会で一日が終わるような貴族屋敷ではない。国境を護る辺境伯家の城であり、帝国と向かい合う場所だ。そこで本家の三男が昼間から寝台に潜り、だらしなく昼寝していたとなれば、兵も使用人も口には出さずとも見る目を変える。

貴族は面倒くさい。

貴族は面子を大事にする。

それは別に、虚飾だけの話ではない。舐められれば命令が鈍る。命令が鈍れば現場が揺れる。現場が揺れれば、国境では人が死ぬ。たぶん中央の貴族ならもう少し優雅な理屈を並べるのだろうが、マバール家ではその辺りが妙に生々しい。

だから、だらだらしたくても出来ない。

お気楽な三男坊でいたいのに、舐められる三男坊にはなれない。

まったく、面倒な立場である。

「若様、お茶を替えましょうか」

レティシアの声が、机の向こうから静かに届いた。

彼女は俺が目を開ける前からこちらを見ていたのだろう。茶器へ伸ばしかけた手に迷いがない。白い指が杯を取り、冷えかけた茶を下げる。隣ではダリアが布を畳み、旅支度に使う小物を一つずつ確認していた。

レアが机の上で首を傾げる。

丸い目は、相変わらずこちらへだけ妙に生意気だった。

「いや、いい。そろそろ行く」

俺が身体を起こすと、レアがぴょこりと近づいてきて、机の縁まで歩いた。何か言いたげに嘴を開きかけたが、声は出さない。代わりに俺の指を狙って首を伸ばす。

「つつくな」

指を少し引くと、レアは不満そうに首を振った。

つつかれたところで痛みはない。だが、痛くないからいいというものでもない。こいつは俺にだけ態度が悪い。レティシアやダリアには妙に素直なくせに、俺にはこうだ。

俺が睨むと、レアはわざとらしくレティシアの方へ寄っていった。

くそ鳥め。

レティシアはそれを見て、わずかに口元を緩めた。笑いを堪えているようにも見える。

「何だ」

「いいえ。レアは若様のお見送りをしたいのかもしれません」

「見送りたい奴は指をつつかない」

「そうでしょうか」

レティシアの声はいつも通り穏やかだったが、その奥にごく薄い笑みが混じっていた。俺は何か言い返そうとして、やめた。言い返せば、どうせレティシアの方が上品に返す。昔からそういうところは妙に強い。

ダリアが畳んだ布を脇へ置き、こちらへ視線を向けた。

「ギル様、赤布はこちらに」

机の上へ置かれた赤布は、温泉宿場で使ったものと同じだが、きちんと洗われ、乾かされ、皺を伸ばされている。紋章も飾りもない、ただの赤い布。けれど、それを口元へ巻けば、マバール家の三男ではなくなる。

いや、なくなるわけではない。

見なかったことにしやすくなるだけだ。

前世で銀行強盗だかなんだかが顔に絆創膏やシールを貼ると顔を覚えられにくいと読んだような気がする。それと似たようなものだ。

「助かる」

俺は赤布を手に取り、外套の内側へ入れた。城内で巻く必要はない。今から出るのはギルバート・マバールであり、上品な山賊になるのは、まだ、先だ。

何というか、自分で考えておいて馬鹿馬鹿しい。

けれど、その馬鹿馬鹿しさで人を殺し、家を揺らし、国境の面倒を一つ減らそうとしているのだから、この世界は本当にろくでもない。

「若様」

レティシアが近づいてきた。

いつものように、俺の襟元を整える。外套の留め具を確認し、袖の皺を伸ばし、腰の位置に目を落としてから、剣帯の具合を見た。指先が迷いなく動くたび、俺の身体から休息の名残が剥がれていく気がする。

レティシアは何も聞かなかった。

どこへ行くのか。

何をするのか。

危なくないのか。

そういう言葉を、彼女はここで重ねない。聞くべきことはもう聞いているし、止めるべきところは止めようとした。今さら出発前に未練を滲ませるような女ではない。

その代わり、留め具を整え終えた指が、ほんの一瞬だけ俺の胸元に残った。

「お気をつけくださいませ」

「ああ」

短く返す。

それで十分だった。

ダリアは少し下がった位置で頭を下げた。彼女の目は俺ではなく、外套の裾や靴に向いている。抜けがないか、汚れや乱れがないかを見ているのだろう。まだマバール城の全てに慣れたわけではないはずなのに、こういう時の動きは日に日に自然になっている。

「レティシア、ダリア。リエリエールとノエルの方は頼む」

「承知しております」

「はい、ギル様」

リエリエールとノエルは、まだ城へ来たばかりだ。部屋は用意され、魔力封印も済み、保護の形は一応整った。だが、形が整ったからといって心がすぐ落ち着くわけではない。俺がここで余計な顔を出すより、レティシアとダリアに任せた方が良い場面もある。

レアがレティシアの袖の近くで、小さく鳴いた。

俺が視線を向けると、すぐに顔を逸らす。

本当に腹の立つ鳥である。

「お前は大人しくしてろ。書類をつついたら焼いて食うぞ」

レアは丸い目でこちらを見上げたあと、何事もなかったようにレティシアの手元へ寄った。

分かってやっている。

絶対に分かってやっている。

俺は椅子から立ち上がり、部屋を出た。

廊下の空気は、自室よりも少し冷えていた。夕方の城は、昼間より音がはっきりする。石床を踏む靴音。角を曲がる使用人の衣擦れ。遠くで扉が閉まる低い響き。城壁の方から流れてくる風の匂いには、武具の油と馬屋の乾いた草の匂いが混じっていた。

俺が進むと、廊下にいた使用人たちは自然に脇へ下がる。

視線がこちらへ集まり、すぐに伏せられる。

その中に、好奇心はある。緊張もある。だが、誰も声をかけない。今の俺がただ散歩に出るわけではないことくらい、城の者たちは察しているのだろう。

外へ向かうにつれて、空気の中に鉄と革の匂いが混じり始めた。

中庭に出ると、夕方の光が石畳に斜めに落ちていた。昼の熱を少しだけ残した石の上に、騎士たちの影が長く伸びている。城壁の上では兵が交代の準備をしており、槍の穂先が薄い光を受けて鈍く光った。

中庭の一角に、セバスチャンがいた。

その前に、直属騎士たちが並んでいる。

並んでいる騎士たちは、正式な騎士装備ではなかった。

儀礼用の鎧など論外。戦場で名乗るための整った装備でもない。革と布を重ね、要所だけを守る金具を付け、剣や槍を扱いやすい位置へ収めている。馬で長く走り、必要ならすぐ降りて動くための格好だ。華はないが、無駄も少ない。

誰もだれていなかった。

オルドは太い腕を組まず、きちんと下ろしている。力で押す男だが、こういう時に余計な動きをしない程度には慣れてはいる。ジノは槍の位置を何度も確認するようなことはせず、視線だけで周囲を見ていた。クレインは荷の量と馬の状態を気にしているらしく、並びながらも目だけが時折動く。トールはいつものように、誰がどこを見ているかを観察している気配があった。

他の騎士たちも、顔に浮ついた色はない。

以前より、少し締まった。

セバスチャンに走らされ、転がされ、魔力を使うなと言われ、逆に使えと言われ、何度も限界を見せられれば、そりゃあ多少は変わる。俺も人のことは言えない。最初にクソじじいと走らされた時のことを思えば、今ここに並んでいる連中の気持ちは分かる。

セバスチャンだけは、相変わらずだった。

傷の多い顔に、妙な笑みがある。

楽しいのか、このクソじじいは。

「集まっているな」

俺が声をかけると、騎士たちが一斉に姿勢を正した。

「若様」

セバスチャンが軽く頭を下げる。その動きは礼としては雑ではないが、丁寧すぎもしない。俺とこの男との距離感は、今さら誰も驚かない程度には城内に浸透している。

「説明する」

俺は騎士たちの前に立った。

夕風が外套の裾を揺らす。馬屋の方では、今回使う馬が既に出されていた。鼻を鳴らす音、蹄が石を打つ音、手綱を持つ兵の低い声が聞こえる。馬たちも、ただの遠乗りではない空気を感じているのか、落ち着ききってはいない。

「今回は普通に行軍しない。馬と自分に肉体強化魔法をかけて、夜通し駆ける」

言葉が石畳の上に落ちた瞬間、並んだ騎士たちの空気が変わった。

誰かが、ごく小さく息を呑んだ。

たぶん一人ではない。はっきり音にした者はいないが、喉の奥で詰まった気配は分かる。無理もない。馬へ肉体強化魔法を使えば、通常より速く、長く走れる。騎乗者にも使えば、その速度に身体を合わせられる。だが、それは楽に移動することと同義ではない。

肉体強化魔法は便利だ。

便利だが、魔法を使っているから疲れないわけではない。馬も人も身体を使う。速度が上がれば、一つの失敗で死に近づく。夜道ならなおさらだ。

俺は騎士たちを見渡した。

「だが、その速度で走れば、落馬した時点で普通に死ねる。枝、石、馬の踏み外し、前の馬との接触。夜なら見落としも増える。だから防御魔法も並行して維持しろ。速度のためじゃない。事故で死なないためだ」

オルドの顎がわずかに引かれた。

ジノは槍の柄へ添えた指を一度だけ緩め、すぐ戻した。クレインは何かを計算するように目を細め、トールはセバスチャンの方を一瞬見た。

セバスチャンは、にやりと笑っていた。

やはり楽しんでいる。

「馬にも、ですな」

セバスチャンが言った。

確認の形だが、騎士たちへ聞かせるための声でもある。

「ああ。馬が脚を折ったら終わりだ。馬体の強化を切らすな。ただし、強めすぎて馬を壊すなよ。お前たちの脚ではない。馬の呼吸と動きに合わせろ」

言いながら、俺は馬屋の方へ目を向けた。

馬は道具ではない。

少なくとも、今回の移動では命綱だ。肉体強化魔法で無理に押し切れば、速く走れるかもしれない。だが、その後に潰れれば意味がない。目的地に着いた時、馬が立てず、騎士が消耗しきっていれば、何のために急いだのか分からなくなる。

「到着は明日の朝を目標にする」

今度は、空気がさらに重くなった。

夕方に出て、明日の朝。

通常の移動ではない。休憩を挟み、馬を替え、宿に泊まるような旅ではない。夜と魔法を利用して距離を潰す。しかも、ただ逃げるのではなく、到着後に動く可能性がある。

オルドが口を開いた。

「若様、到着後すぐに戦闘の可能性は」

「あると思っておけ」

俺が返すと、オルドは短く「承知」と言った。

質問としては自然だ。今聞くべきことでもある。戦う可能性があるなら、移動で全てを使い切るわけにはいかない。こちらの体力も魔力も、馬の余力も、到着後の判断に直結する。

俺はそこで、全員へ視線を戻した。

「魔法を三つ同時に使える者は」

沈黙は短かった。

まずオルドの手が上がる。

続いてジノ。

少し遅れて、クレインとトールも手を上げた。

主要な四人。

この辺りは予想通りだった。得意不得意はあるにせよ、俺の直属騎士として選ばれ、セバスチャンの訓練を受け続けている。魔力操作が一定以上でなければ、この場には残れない。

その横で、セバスチャンも手を上げた。

俺は思わず眉を寄せた。

「お前は出来て当然だからいいぞ」

セバスチャンの口元がさらに歪んだ。

「年寄りはもう少し労わってください」

「お前なら後五十年は戦場に立てるだろうが」

言った瞬間、何人かの騎士の表情がわずかに動いた。

別に大げさな冗談ではない。騎士は平民より長く生きる。魔力持ちは身体が丈夫で、老い方も遅い。もちろん戦場や迷宮で死ぬ者も多いから、長く生きられることと実際に長生きすることは同じではない。だが、セバスチャンのような化け物じみた騎士なら、後五十年くらい戦場にいても不思議ではない気がする。

「そのつもりですがね」

セバスチャンは涼しい顔で答えた。

冗談なのか本気なのか、たぶん両方だ。

騎士たちの間に、ごく薄く息が流れた。緊張が消えたわけではない。だが、張り詰めすぎた糸が少しだけ緩んだ。こういうところは、やはりセバスチャンが上手い。腹立たしいが、上手い。

「三つ使える者でも、今回は無理に使うな」

俺は話を戻した。

「肉体強化魔法と防御魔法に集中しろ。自分と馬だ。感知魔法は俺が使う」

クレインが目を上げた。

何か言いたそうにしたが、すぐには口を開かない。俺が視線を向けると、彼は一礼してから言った。

「若様お一人で、移動中ずっと維持されるのですか」

「そうだ」

「消耗は」

「お前たちが三つ維持するよりは遥かに安い」

俺がそう言うと、トールの目がわずかに細くなった。

たぶん、言葉の意味を測っている。俺が強がっているのか、本当にそうなのか。まあ、後者だ。感知魔法を広く展開して維持すること自体は、俺にとってそこまで重くない。もちろん夜通しとなれば疲れはする。だが、全員が各自で感知魔法を使い、集中を散らし、馬と自分への肉体強化魔法や防御魔法を乱すよりは、俺がまとめて見た方がいい。

それに、感知魔法は万能ではない。

魔力しか拾えない。

魔力を持たない平民は引っかからないし、落ちた枝も、穴も、毒も、罠も分からない。だから騎士たちの目と耳は絶対に必要だ。だが、魔力持ちの接近や魔物の反応を拾うだけなら、俺がやればいい。

「分かっているだろうが、感知魔法では道の穴や平民の伏兵までは拾えん。だから周囲を見るのを怠るな。だが、魔力持ちや魔物の反応は俺が見る。お前たちは走れ。落ちるな。馬を潰すな。到着後に動けるだけの余力を残せ」

「承知しました」

ジノが静かに答えた。

オルドも頷く。クレインは少し考え込むように目を伏せたあと、馬の方を見た。トールは周囲の騎士たちの反応を一通り見てから、最後に俺へ視線を戻した。

悪くない。

誰も無駄口を叩かない。誰も軽く受けていない。だが、怯んで足が止まるほどでもない。

これなら行ける。

そう思ったところで、セバスチャンが一歩前に出た。

「では、馬の確認を。若様、先頭は」

「俺が出る。お前は後ろを見ろ」

「年寄りを後ろへ置くとは」

「後ろからなら全員まとめて蹴れるだろ」

「よく分かっていらっしゃる」

セバスチャンが笑うと、オルドがほんの少しだけ口元を引き締めた。笑いを堪えたのか、緊張を締め直したのかは分からない。ジノは相変わらず真面目な顔をしているが、目の奥にわずかな呆れが見えた気がした。

俺とセバスチャンの会話は、相変わらず騎士たちに妙な影響を与える。

主従の差が消えたわけではない。こいつは俺を若様と呼ぶし、俺の命令には必ず従う。だが、普通の騎士なら絶対に言わないことを言うし、俺もそれを許している。この距離感を、直属騎士たちはもう何度も見ている。

それでも、出発前に見ると、少し空気が動くのだろう。

悪くはない。

硬すぎると、夜道では折れる。

俺は馬の方へ歩いた。

用意されていた馬は、普段の訓練で見慣れた馬より少し落ち着きがない。兵が手綱を押さえ、首筋を撫でている。俺が近づくと、馬は鼻を鳴らし、耳をこちらへ向けた。

魔力を通す相手が人間なら、まだ反応を言葉で確認できる。

馬はそうはいかない。

肉体強化魔法をかける時は、力任せに押し込むのではなく、筋肉の動き、呼吸、脚の運びに合わせる。俺自身に使う時より、少し気を遣う。自分の身体なら多少雑でも分かるが、馬の身体は俺のものではない。

俺は手を伸ばし、馬の首に触れた。

温かい。

皮膚の下で血が流れ、筋肉が動き、呼吸がゆっくり上下している。魔力を揺らし、肉体強化魔法を薄く通す。いきなり強くはしない。馬が嫌がらない程度に、身体の奥へ馴染ませる。

馬の耳が動いた。

暴れはしない。

よし。

次に防御魔法を薄く重ねる。

これは速度のためではない。走っている最中に飛んでくる小石や枝を受け流し、転倒時に致命傷を避けるためのものだ。馬全体を硬い殻で包むような感覚ではない。そんなことをすれば動きが鈍る。動きを邪魔しない程度に、表面へ薄く沿わせる。

自分にも同じように通す。

肉体強化魔法で身体を軽く起こし、防御魔法を薄く纏う。鎧で固めるのとは違う。皮膚の少し外側に、見えない布を一枚かけるような感覚だ。衝撃を殺し、擦過を流し、最悪の一撃を逸らす。

さらに感知魔法を拡げた。

中庭を中心に、城の魔力反応が点として浮かぶ。

騎士たち。

城の奥にいる魔力持ち。

レティシアの反応は、自室の方にある。近くにレアの微弱な反応も感じる。ダリアは拾えない。ノエルも拾えない。リエリエールの反応は、魔力封印のせいで本来とは違う小ささになっている。

分かるのは、それだけだ。

姿は見えない。表情も分からない。声も聞こえない。

だからこそ、今見たもの、聞いたものを雑に混ぜてはいけない。

俺は馬に跨った。

視界が少し高くなる。中庭の向こうに城門が見え、その上の空が夕闇へ傾いていた。兵たちがこちらへ目を向ける。誰も大声は出さない。だが、整列する気配と、門の内側が開かれていく音が重なった。

セバスチャンが自分の馬へ乗る。

オルドたちも続いた。鞍の革が軋み、金具が小さく鳴る。馬の蹄が石畳を叩き、息が白くはならないまでも、夕方の冷えを含んで鼻先から流れた。

「出るぞ」

俺の声に、全員が応じた。

城門を抜ける時、マバール城の重い影が背後へ伸びていた。

城下町へ入るまでは、速度を上げない。

石畳の通りには、まだ人が残っている。店じまいをする商人、桶を抱えた女、荷車を押す男、門限前に急ぐ子ども。こちらに気づいた者たちは道を開け、頭を下げる。騎士たちが馬上で姿勢を崩さなければ、平民たちは余計な声を出さなかった。

夕餉の匂いがした。

焼いた肉。

煮込んだ野菜。

竈の煙。

城下町の生活の匂いだ。

俺はそれを横目に進む。今から向かう先で何をするかを考えると、その匂いは少しだけ遠く感じた。だが、嫌な感傷は湧かない。守る側の匂いと、潰す側の匂いがあるだけだ。俺はマバール家の三男で、今は城下の平民に優しく笑う時間ではない。

街の外れへ近づくにつれ、人の数が減る。

家々の灯りがまばらになり、畑の影が広がり、道の両側に低い木立が増えた。背後の城壁には火が入り、狭間の奥で兵の影が動いている。マバール城は夜へ入る準備を終えつつあった。

城下町を抜けたところで、俺は馬を止めた。

後ろの騎士たちも静かに止まる。

風が変わっていた。石と人の匂いが薄れ、土と草の匂いが濃くなる。街道は夕闇の中へ伸び、遠くではもう輪郭が曖昧になり始めていた。

俺は外套の内側から赤布を取り出した。

口元へ巻く。

布越しに、自分の息が少し温かく返ってくる。視界の端で、オルドたちも同じように赤布を上げた。完全な山賊には見えないかもしれない。だが、少なくとも辺境伯家の正式な騎士団には見えにくい。

セバスチャンが隣で笑った気配がした。

「上品な山賊の出番ですな」

「上品さを忘れるなよ」

「山賊に品を求めるとは、若様も難しいことを仰る」

「ただの山賊ならマバール家が困るだろ」

「それもそうで」

軽口はそこまでだった。

俺は感知魔法を展開し直す。

城下町の魔力反応が背後に固まり、前方は少ない。街道沿いに騎士らしい強い反応はない。魔物らしい反応も、今の範囲では遠い。平民までは分からない。だから視界を捨てない。耳も使う。馬の反応も見る。

肉体強化魔法を少し強めた。

馬の身体が、俺の下で熱を帯びるように変わる。脚の筋肉が締まり、呼吸の深さが変わった。自分の身体にも魔力を通し、鞍の上で重心を整える。防御魔法は薄く、切らさず、動きを妨げない。

後ろでも魔力が揺れた。

騎士たちが、それぞれ自分と馬へ肉体強化魔法を通している。防御魔法の気配も重なる。強さには差がある。揺れ方にも差がある。それでも、全員が維持している。

悪くない。

「行くぞ」

俺は短く告げた。

馬の腹を軽く蹴る。

最初の数歩は、まだ普通の駆け出しだった。

だが、すぐに違いが出る。

蹄が地面を捉え、次の瞬間には身体ごと前へ押し出される。風が赤布の端を叩き、外套が後ろへ流れた。街道の土が馬蹄の下で弾け、細かな砂利が横へ跳ぶ。防御魔法の表面に小さな衝撃が触れ、すぐに流れて消える。

背後から、蹄音が重なった。

セバスチャンは少し後方。

オルドたちは隊列を崩さずついてくる。

城下の灯りが背後で小さくなる。マバール城の影が遠ざかる。夕闇はすぐに夜へ変わり、街道の先は黒く沈んでいく。それでも、速度は落とさない。

感知魔法の中で、魔力反応が点として流れていく。

前方、左右、背後。

遠い小さな反応。

城に残る大きな反応。

騎士たちの反応。

自分のすぐ下で、馬に通した魔力の揺れ。

全部を同時に感じながら、俺は前を見る。

夜の街道を、上品な山賊たちが駆けていく。

目的地はまだ遠い。

だが、明日の朝までには着く。

そこから先は、着いてから考えればいい。

いや、考えなければならない。

メガレア家の長男。

亡命を望み。

保護を求める。

責任の押し付け。

そして、それを山賊として始末する俺たち。

笑えるくらい面倒だ。

けれど、面倒だからと放っておけば、もっと面倒になる。俺はお気楽な三男坊でいたい。そのためには、時々こうして夜を駆けなければならないらしい。

本当に、貴族というものは面倒くさい。

そう思いながら、俺はさらに肉体強化魔法を馬へ馴染ませた。

馬が応えるように速度を上げる。

風が強くなる。

赤布の下で、口元が少しだけ笑った。