作品タイトル不明
第八十二話 朝の居場所
会議室の扉が背後で閉まると、廊下の空気が一段冷たく感じられた。
夜はまだ明けきっていない。窓布の隙間から差す光は細く、石壁に掛けられた灯火の方がまだ強い。火皿の中で油が小さく弾ける音がして、長い廊下の先では夜番の兵が槍を持ち替える気配がした。
ギルは歩きながら、肩に残っていた会議室の重さを息と一緒に吐き出した。
メガレア家の長男。
亡命。
保護。
そして、上品な山賊。
言葉だけ並べれば馬鹿馬鹿しい。だが、その馬鹿馬鹿しさを形にしなければならないところまで、話は進んでいた。マバール家が正式に保護することはない。王国が帝国の後継争いに手を突っ込んだ形にもできない。なら、どこかで赤布を巻いた連中が勝手に暴れただけ、という形にする。
実に雑だ。
だが、雑な形ほど都合がいいこともある。
「セバス」
隣を歩いていたセバスチャンが、わずかに首を傾けた。
「へい」
「オルドたちを集めろ。夜には出る」
セバスチャンは足を止めなかった。ただ、口元だけが少し歪む。
「また徹夜ですかい」
「なんだ。年寄りにはきついか?」
ギルが軽く返すと、セバスチャンは喉の奥で笑った。
「いえ。リエリエール様が来たばかりの若様の方がきついんじゃねぇかと」
「む」
言い返そうとして、言葉が出なかった。
廊下の灯りが揺れ、セバスチャンの傷の多い横顔に影が走る。本人は何でもない顔をしているが、完全にこちらをからかっている。
「余計な心配をするな」
「そりゃ無理でさ。若様は色々と元気ですからな」
「黙れ、クソじじい」
「へいへい」
返事だけは従順だった。
中身は一切従順ではない。
ギルは軽く睨んだが、セバスチャンは涼しい顔で受け流した。こういうやり取りも、リエリエールやノエルの前では少し役に立ったのだから腹立たしい。あの二人の緊張がほどけたのは確かだ。もっとも、だからといってこの熟練の騎士の口が許されるわけではない。
「夕刻までには揃えておきます」
セバスチャンが廊下の分かれ目で足を止めた。
「ああ」
ギルは頷き、短く付け加える。
「赤布を忘れるな」
その言葉に、セバスチャンの目が楽しげに細くなった。
「もちろんで」
朝の城内に似合わない笑みだった。
血煙と煙臭が似合う顔である。
「では、叩き起こしてきます」
「ほどほどにな」
「若様がそれを言いますかい」
セバスチャンは肩越しにそう言って、別の廊下へ消えた。
足音が遠ざかる。
ギルはしばらくその背を見送り、それから自室へ向かった。
城は目覚め始めていた。
まだ食堂が賑わう時間ではない。だが、廊下の端では使用人が水桶を運び、別の扉の向こうから布を畳む音が微かに聞こえる。夜の気配が完全に消える前に、朝の仕事が滑り込んできている。
自室の扉を開けると、茶の香りがした。
昨夜の冷えを追い出すように、室内には柔らかな暖かさが広がっている。灯火は少し落とされ、窓布の隙間から入る淡い朝の光が机の端を白く照らしていた。
レティシアが茶器の前に立っている。
レティシアはいつも通り茶を淹れていた。乱れはない。だが、気のせいか目元が少しだけ重く見えた。それでも湯を注ぐ手は普段通り静かで、茶の香りを乱さない。
ダリアは少し離れた位置で、小物の場所を確認していた。褐色の肌に朝の光が薄くかかり、灰色の髪が肩口で静かに揺れる。帝国で拾った案内役だった女は、今ではギルの部屋にいても違和感が薄くなっていた。
そして、窓際の椅子にリエリエールが座っていた。
白金の髪は灯火と朝の光を受け、淡く光って見えた。碧い目は窓の方へ向いているが、外を眺めているというより、何かを見ようとしていないようにも見える。昨夜より顔色は少し戻っている。けれど、疲れが抜けたとは言えない。
うむ。
ギルは胸の内で深く頷いた。
素晴らしい。
レティシアは柔らかい。所作も声も整っていて、近くにいると部屋の空気まで落ち着く。ダリアは凛としている。平民だし、騎士でもないのに、立ち姿の線が綺麗で妙に目を引く。リエリエールは儚げだ。少し触れたら壊れそう、というのとは違う。壊れずに立ってきたからこそ、今だけ薄い硝子のように見える。
柔らかな美人。
凛とした美人。
儚げな美人。
同じ部屋に三人。
これは、なかなか凄いのではないか。
転生してよかった。
いや、今そういうことを考える場面ではないのだが、感動は感動として受け止めるべきだ。
こん、と軽く衝撃が来た。
「おい」
足元を見る。
白い雛鳥がいた。
レアである。
丸い目でギルを見上げ、黄色い嘴をわずかに開いている。
「今、いいところだっただろうが」
こん。
またつつかれた。
痛みは大したことない。だが、態度が腹立たしい。
「焼くぞ」
レアは首を傾げた。
分かっている。
こいつは絶対に分かっている。
「若様」
レティシアの声に振り向くと、彼女は茶器を置きながら少しだけ困ったような顔をしていた。
「レアを焼かないでくださいませ」
「書類をつつかないなら考えてやる」
そう言っている間に、レアはギルの足元を離れた。
小さな身体が机の脚を回り込み、リエリエールの椅子の方へ向かう。白い綿毛が床の上で揺れ、途中で何か気になるものでもあったのか、敷物の縁を一度つついた。
リエリエールが目を落とす。
「その子が、レアなのですね」
「ああ。生意気な鳥です」
ギルが答えると、レアはまるで抗議するようにこちらを一度見た。それから何事もなかったようにリエリエールの足元へ寄る。
リエリエールは少し迷うように指を伸ばした。
レアは逃げなかった。
細い指先が白い綿毛を撫でる。レアは目を細めるでもなく、つつくでもなく、ただ当然のようにそこにいた。
ギルは眉を寄せた。
「なんで俺だけつつくんだ、お前」
レアは答えない。
代わりに、少し離れて控えていたノエルの靴先へ近づいた。ノエルが驚いたように身を固くする。だがレアはやはり攻撃しなかった。黄色い嘴で靴の縁を軽くつつき、それだけで満足したのか、またリエリエールの足元へ戻る。
ノエルの表情がわずかに緩んだ。
昨日、名前を聞いたばかりのリエリエール専属使用人。
だが目の前にいれば、怯えや疲れくらいは見える。完全に安堵しているとは言えない。けれど、レアが足元を歩いた一瞬、肩の硬さが少し落ちたように見えた。
この鳥、役に立つこともあるんだな。
ギルは少しだけ感心した。
リエリエールの過去について、ギルは何も聞かなかった。
今ここで聞く必要はない。
メガレア家長男の側にいたこと。名門の血筋であること。エレオノーラが託すほどの価値を持つこと。会議で話された情報だけでも十分重い。そこへ本人の口から無理に何かを引き出しても、良いことがあるとは思えなかった。
多少、事情は聞いていただろうが、いきなり王国に来たのだ。
見知らぬ城。
見知らぬ人間。
魔力封印。
保護という名の管理。
それだけでも十分だろう。
ギルは椅子へ腰を下ろし、茶を一口飲んだ。
温かい。
夜を越えた身体に、ゆっくり熱が戻る。
窓の外の色が少し明るくなり、城の中を歩く人の気配も増え始めた。朝食の時間が近い。
レティシアが静かに近づいた。
「若様、朝食はいかがいたしましょう」
「ここで食べる」
レティシアの目がわずかに動いた。
「こちらで、でございますか」
「ああ」
ギルは茶器を置く。
「レティシア、お前も食え。ダリアもだ。ノエル、お前も一緒に食え」
ダリアが布を畳む手を止めた。
「ギル様、私もですか」
「そう言っただろ」
ノエルは戸惑ったようにリエリエールを見た。
リエリエールもギルを見ている。
昨日来たばかりの者を、いきなり食堂へ連れて行く必要はない。見知らぬ使用人たちの視線の中で、落ち着いて食べられるわけがない。リエリエールなら礼儀正しく振る舞うだろう。ノエルも主に恥をかかせまいと耐えるだろう。
だからこそ、面倒だ。
今朝くらい部屋でいい。
「今朝は皆の顔を見ながら食べたい気分だ」
ギルは適当な理由を口にした。
レティシアは一拍置いてから、静かに頭を下げる。
「かしこまりました」
ダリアもそれ以上は言わない。ノエルはまだ遠慮を見せていたが、リエリエールが小さく頷くと、ようやく身を引いた。
リエリエールは茶器を両手で包むように持ったまま、ギルへ目を向ける。
「ありがとうございます」
声は大きくない。
だが、昨夜より少しだけ柔らかかった。
「ただの気分です」
ギルはそっけなく返した。
少し照れくさい。
別に褒められるようなことではない。単に、食堂で余計な視線を集めるのが面倒なだけだ。そういうことにしておく。
朝食が運ばれてくるまでの間、レティシアとダリアは手早く机の上を整えた。ノエルも何かを手伝おうとしたが、ダリアが低い声で位置を示すと、すぐに動きが落ち着く。帝国出身の平民同士だからか、言葉の温度が少し近いように感じた。
やがて扉が叩かれ、使用人たちが食事を運び込んできた。
焼きたてのパンの香りが、室内へ一気に広がる。
白い湯気を立てるスープ。
柔らかく焼かれた卵。
薄く切られた肉。
果物。
朝食としては重すぎず、だが夜通し起きていた身体には十分な量だった。
ギルはパンを手に取った。
表面は軽く焼けていて、割ると中から湯気が立つ。香ばしい匂いに、腹が素直に反応した。
その瞬間、机の端に白いものが飛び乗った。
「おい」
レアは聞いていない。
小さな嘴でパンの端をつつき、落ちた欠片を素早く飲み込む。次に卵の皿へ近づき、黄色い嘴で慎重につついた。熱いのか、一度首を引っ込める。それから今度は少し冷めた端を狙った。
ノエルが目を丸くしている。
「人の食べ物を食べるのですね」
「何でも食うわけじゃない。こいつなりに選んでいるらしい」
ギルはレアを睨んだ。
「生意気にもな」
レアは無視した。
レティシアは慣れた様子で小皿に少しだけパンを分けた。ダリアも卵の端を冷まして置いてやる。リエリエールはその様子を静かに見ていたが、やがて小さく笑みを浮かべた。
その顔を見て、ギルは少しだけ手を止める。
笑えるなら、今はそれでいい。
この鳥が役に立つこともある。
「たまには役に立つ鳥だな」
口にした瞬間、レアが振り返った。
こんっ。
ギルの指を強めにつつく。
「お前な」
リエリエールが口元を押さえた。
完全に笑っていた。
ノエルも驚いたようにリエリエールを見て、それから少しだけ目を細める。レティシアは困ったように微笑み、ダリアは肩を揺らしていた。
朝食の空気は、悪くなかった。
会話は多くない。
無理に明るくする必要もない。
パンを千切る音、器が触れる音、レアが小皿をつつく音、茶を注ぐ音。それらが室内に重なり、夜の緊張を少しずつ薄めていく。
ギルは食べながら、リエリエールをちらりと見た。
姿勢は崩れていない。
貴族女性としての所作も乱れていない。
だが、食べる速度はゆっくりだった。胃が受け付けないのかもしれないし、単に疲れているのかもしれない。断定はできない。だから何も言わず、ギルは自分のスープへ視線を戻した。
食事が終わると、使用人たちが皿を下げ、レティシアが茶を淹れ直した。
今度の香りは少し軽い。
朝の食事のあとに合う。
ダリアはノエルと短く言葉を交わしながら、机の周りを整えている。ノエルは最初こそ遠慮がちだったが、手順が分かると動きが速かった。長くリエリエールに仕えてきたのだろう。主の視線が動く前に、必要なものへ手が伸びる。
その時、扉が叩かれた。
レティシアが応じる。
「失礼いたします」
入ってきた使用人が、深く頭を下げた。
「リエリエール様のお部屋の用意が整いました」
早いな。
ギルは素直に驚いた。
昨夜の遅い時間に戻り、会議があり、今はまだ朝だ。メイド長がどれだけ動いたのか、想像すると少し申し訳なくなる。
「案内を頼む」
「はい」
リエリエールが静かに立ち上がる。
ノエルがすぐそばへ寄った。レティシアとダリアも続く。レアは机の上でパン屑を探していたが、レティシアが手を差し出すと当然のように乗った。いや、そいつは連れてこなくてもいいように感じるが?まぁ、いいか。
ギルたちは部屋を出た。
廊下には朝の光が入っていた。
夜明け前の青さは薄れ、石床の色がはっきり見える。すれ違う使用人たちは一礼し、余計な視線を向けないようにしている。だが、全く見ていないわけではない。リエリエールの白金の髪も、ノエルの帝国風の気配も、目立たないはずがなかった。
それでも騒ぎにはならない。
さすがマバール城の使用人だと思う。
案内されたのは、ギルの居住区画から遠くない一室だった。
近すぎるわけではない。
だが、何かあればすぐ動ける距離。
扉の前には既に清掃を終えた気配があり、木の表面には磨かれた薄い艶がある。使用人が扉を開けると、まだ新しく整えられた部屋の匂いがした。
この部屋には入った事は無いが、広いな。
派手ではないが、十分に上等だった。
寝台には厚い寝具が整えられ、窓際には椅子と小机が置かれている。壁際には衣装棚があり、手を洗うための水差しや布も揃っていた。床の敷物は柔らかすぎず、歩く音をほどよく吸う。
部屋の奥には、もう一つ扉があった。
案内役の使用人がそちらへ進み、静かに開ける。
「こちらが、ノエル様のお部屋でございます。内側から行き来できます」
ノエルが息を呑んだ。
隣の小部屋は、主の部屋よりはずっと簡素だ。だが寝台と棚、小さな机があり、使用人一人が暮らすには十分に整っている。何より、リエリエールの部屋と直接繋がっていた。
ギルは内心で感心した。
メイド長、気が利くな。
リエリエールはしばらく扉の向こうを見ていた。
横顔だけでは何を思ったのか断定できない。ただ、肩に入っていた力がわずかに抜けたようには見えた。
ノエルも同じだった。
知らない城で、主と完全に離されない。
それだけでだいぶ違うのだろう。
部屋の隅には、夜のうちに運び込まれた荷物が並んでいた。
馬車に積まれていた箱。
布で包まれた衣類。
小さな手箱。
ノエルがそれを見て、今度こそ表情を崩しそうになった。すぐに引き締めたが、目元には明らかな安堵が浮かんでいる。
リエリエールはゆっくり部屋の中央まで進んだ。
窓に近づき、外を見る。
そこから見えるのは、中庭の端と、朝の光を受ける石壁だった。帝国の館でも、逃げてきた夜道でもない。マバール城の朝だ。
彼女はしばらく何も言わなかった。
ギルも急かさない。
レティシアは少し後ろで控え、ダリアはノエルの荷物の位置を目で確認している。レアはレティシアの手の中で大人しくしていた。珍しいこともある。
やがて、リエリエールが振り返った。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
昨夜から何度も礼を言われている。
だが今の言葉は、少し違って聞こえた。
保護への礼というより、この部屋そのものへの礼だ。
居場所。
そう呼ぶにはまだ早いかもしれない。
けれど、少なくとも今朝からここは彼女の部屋になる。
「しばらくはゆっくりしてください」
ギルは言った。
「何かあれば、いつでもお気軽におっしゃってください」
リエリエールは顔を上げる。
碧い目がこちらを見る。
疲れは残っている。
不安も消えてはいないだろう。
だが、その奥にほんの少しだけ、昨夜より落ち着いた色があるように見えた。
「はい」
静かな返事だった。
「お気遣い、感謝いたします」
「では、俺はこれで」
長居はしない。
部屋を用意されたばかりなのだ。荷物を確認し、ノエルと話し、息をつく時間が必要だろう。ギルがここに居続ければ、リエリエールもノエルも休めない。
レティシアが小さく一礼し、ダリアもそれに続く。
ノエルは扉の近くで深く頭を下げた。
ギルは軽く頷いて、部屋を出た。
扉が静かに閉まる。
廊下へ戻ると、朝の城の音が少し大きくなっていた。
食堂の方から人の動きが届き、遠くの中庭では兵の声も聞こえる。夜は終わり、城は完全に一日を始めている。
ギルは一度だけ、閉まった扉を見た。
帝国から来た女。
メガレア家長男の側にいたかもしれない女。
血統と政治の価値を持つ女。
そして、今はマバール城の一室にいる保護対象。
考えることは多い。
だが、今すぐではない。
今夜には出る。
赤布を巻き、上品な山賊になる。
その前に、少し部屋で休むか。
そう思った瞬間、レティシアの手の中にいたレアが、こちらを見て小さく嘴を鳴らした。
「お前は来るなよ」
レアは首を傾げた。
分かっていない顔だ。
いや、分かっていてやっている顔かもしれない。
ギルはため息をつき、朝の廊下を歩き出した。