作品タイトル不明
第七十四話 お喜びだったな
城門が見えた時、ギルは少しだけ肩の力を抜いた。
マバール城の石壁は、遠くからでも分かるほど重く、厚く、いつも通りにそこへ立っている。山間の湯の宿場とは違う。湿った湯気もなければ、硫黄に近い匂いもない。代わりに、磨かれた石と、馬と、武具と、人の動きが混ざった重厚な空気があった。
城門の前では兵が出入りを確認していた。荷車が一台、横へ寄せられている。交代の兵らしい者たちが短く言葉を交わし、門の影では使用人が何かを運んでいた。数日離れていただけなのに、見慣れた光景が妙に久しぶりに感じる。
温泉は良かった。
かなり良かった。
透明な湯も、岩に囲まれた湯場も、山の冷えた空気も、レティシアとダリアが湯に沈んでいた光景も、思い出すだけで悪くない。いや、悪くないどころではない。かなり良い。
だが、落ち着けたかと言われると微妙だった。
迷宮を見つけ、潰し、埋まり、卵を持ち帰り、黒い鳥を相手にして、温泉に入り、雛鳥が生まれた。混浴は出来た。そこはかなり重要だ。だが、その後のイチャイチャは足りない。圧倒的に足りない。
ギルは馬上で小さく息を吐いた。
次はもっとゆっくりしたい。
できれば騒ぎなしで。
いや、騒ぎなど起こすつもりはなかったのだが。
隣ではセバスチャンが馬を進めている。その腕の辺りに、白い雛鳥がいた。レアである。今は布で軽く包まれ、セバスチャンの手元で大人しくしていた。俺が持つとつつくのに、セバスチャンには大人しい。
気に入らない。
レティシアとダリアは少し後ろだ。道中、レアはだいたいレティシアの手元にいたが、城門へ近づく前にセバスチャンへ預けた。レティシアが抱えたまま城へ入れば、使用人や兵の目を引く。セバスチャンならまだ誤魔化しやすい。
まあ、白い雛鳥を抱えた下級騎士が誤魔化せるかは微妙だが。
城門をくぐると、石畳の音が変わった。
馬の蹄が硬い音を立てる。城内の空気が身体にまとわりつく。湯の宿場のような緩さはない。使用人の動きも、兵の立ち位置も、どれも役割の中に収まっている。
帰ってきた。
そう思ったところで、一人の使用人がこちらへ近づいてきた。
息を切らしているわけではないが、歩みが早い。顔には少し緊張がある。ギルは手綱を緩め、馬を止めた。
「若様、お館様がお呼びです」
「帰ったばかりだぞ」
「至急との事です」
至急。
ギルは少し眉を寄せた。
父上が至急と言うなら、何かあるのだろう。
使用人は続けた。
「セバスチャン様もどうぞ、とのことです」
「俺もですかい」
セバスチャンが軽く眉を上げる。
ギルは少し考えた。
父上が俺だけでなくセバスチャンも呼ぶ。なら、報告を聞くつもりなのだろう。温泉へ行ったことか。迷宮のことか。卵のことか。いや、全部かもしれない。
まあ、褒めるならセバスチャンからも聞きたいのだろう。
迷宮を潰して、宿場周辺の魔物もどうにかしたのだ。
良いことしかしていない。
ギルは馬を降りた。
レティシアとダリアも近づいてくる。レティシアの目には、わずかな不安があった。ダリアも静かだが、こちらの様子を見ている。
「レティシアたちはすまんが、荷物の片付けと茶の用意を頼む」
「かしこまりました」
レティシアはすぐ答えた。
だが、少し視線が残る。
ダリアも軽く頭を下げる。
「分かりました、ギル様」
「セバス、レアは連れてくぞ。父上にお見せしたい」
「へいへい」
セバスチャンは布に包まれたレアを見下ろした。
レアは白い綿毛を少しだけ揺らし、丸い目で周囲を見ている。生まれたばかりのくせに、道中でも思ったより丈夫だった。弱々しい雛鳥のはずなのに、時々レティシアの腕を歩き回っていたのだ。
やはり魔物なのかもしれない。
だが、今のところ俺の指をつつく以外は大きな害はない。
レティシアは少しだけ迷ったようにレアを見た。
「若様、レアをお連れして大丈夫でしょうか」
「父上にも見せておいた方がいいだろう」
「そうでございますね」
納得しきっていないように見えるが、レティシアはそれ以上言わなかった。彼女は何か言いたそうな時でも、場を選ぶ。ここで止めても俺が行くと思っているのかもしれない。
ダリアはレアを見てから、ギルへ視線を戻した。
「お気をつけください」
「父上に呼ばれただけだぞ」
「はい」
それなのに、その返事には少し不安が混じっていた。
ギルは不思議に思いながらも、セバスチャンと歩き出した。
廊下へ入ると、城の空気はさらに濃くなった。石の床は磨かれ、壁には燭台が等間隔に並んでいる。日中なので火は少ないが、廊下の奥には使用人が控え、通る者へ頭を下げていた。
「父上もそんなに急いで褒めなくても大丈夫なのにな」
ギルが言うと、横を歩くセバスチャンがこちらを見た。
「若様、たぶん逆ですぜ」
「ん? なんでだ? 大して騒ぎは起こしてないぞ」
「いや、色々やらかしたじゃねえですか」
セバスチャンは呆れたように言う。
ギルは心外だった。
「未発見の迷宮を潰し、無辜の民に迷惑をかけていた魔物を倒しただけだぞ」
「それだけ聞くと、いい事したように聞こえますな」
「いい事しかしてないだろうが」
実際そうだ。
湯の宿場は魔物被害で人が少なかった。迷宮らしき洞窟もあった。小さく、資源も少なく、放っておけば面倒になりそうだった。だから潰した。黒い鳥も宿場へ寄ってきそうだったから止めた。
結果だけ見れば、宿場は助かったはずである。
まあ、山は少し崩れたが。
そこは誤差だ。
セバスチャンは何か言いたそうだったが、結局肩を竦めた。
会議室の前に着く。
扉の外に立っていた者が、すぐに頭を下げて扉を開けた。
中へ入ると、空気が重かった。
父上がいる。
ガルシア・マバール。
いつも通りの姿勢で席についていた。表情は変わらない。重い視線だけが、こちらをまっすぐに捉えている。
その周囲に、武官、文官、諜報部の長、メイド長、他にも城の上層にいる者たちが揃っていた。思ったより人数が多い。単なる帰還報告にしては大げさだ。
ギルは堂々と歩いた。
「父上、ただいま戻りました」
「うむ」
ガルシアは短く頷いた。
その声だけで、部屋の空気が少し締まる。
ギルは正面に立つ。セバスチャンは少し後ろに控え、レアを抱えたまま大人しくしていた。レアも空気を読んでいるのか、今は騒がない。
しばらく沈黙があった。
文官の一人が、慎重に口を開く。
「ギルバート様、何か報告する事はありませんか?」
報告。
ギルは軽く頷いた。
「うむ。未発見の迷宮があったので潰しておいた」
会議室が止まった。
本当に空気が止まった気がした。
文官の一人が、ゆっくり瞬きをする。
「未発見の……」
別の者が低く呟く。
「迷宮を……」
さらに誰かが言った。
「潰した?」
ざわり、と空気が揺れた。
ギルは不思議に思った。
そんなに驚くことだろうか。
「まだ小さかったのでな。内部で攻撃魔法を使ったら潰れた。根性のない迷宮だったな」
ざわめきが大きくなる。
「迷宮は破壊可能なのか?」
「聞いた事がありません」
「記録はあるのか?」
「調べさせます」
「自然発生のものか?」
「領外の宿場周辺だったはずでは」
声が重なる。
ギルは少し首を傾げた。
確かに、普通の迷宮とは違っていた。石造りの管理建物もなく、ただの洞窟のような入口だった。中も淡く光る鍾乳洞のような場所で、薪の木やまともな素材もなかった。魔物も弱かった。
だが、感知魔法では反応があったし、内部は普通の洞窟とは違っていた。
迷宮だった。
たぶん。
いや、ほぼ間違いない。
父上が静かに口を開いた。
「ギルバート」
「はい」
「お前一人で迷宮を破壊したのか?」
「はい」
ギルは少し誇らしげに答えた。
別に嘘ではない。
セバスチャンも同行していない。レティシアとダリアは宿にいた。俺が一人で入り、攻撃魔法を使い、崩れた。無事出た。
完璧である。
会議室の視線がさらに重くなる。
「ギルバート様お一人で……」
「本当に可能なのか」
「小型とはいえ、迷宮だぞ」
セバスチャンが後ろで一歩だけ前へ出た。
「確認しましたが、間違いなく迷宮で確かに破壊されておりました」
会議室のざわめきが少し質を変えた。
セバスチャンの言葉は軽くない。
この男は普段こそ適当な喋り方をするが、戦いや現場の確認で世辞を言う性格ではない。実戦経験も多い。少なくとも、ただの洞窟を迷宮と取り違えて誤魔化すような男ではない。
誰かが低く言った。
「セバスチャンが確認したのであれば、洞窟との誤認ではないか」
「だが、破壊など……」
「記録を調べるしかない」
父上はまだ表情を変えない。
その視線が、セバスチャンの腕へ移った。
「それはなんだ?」
レアのことである。
白い雛鳥は、布の中から顔を出していた。丸い瞳で会議室を見回し、黄色い嘴を小さく開く。
ギルは答えた。
「迷宮近くで拾った卵を割ったら出てきました」
また会議室がざわつく。
「迷宮近く?」
「卵?」
「魔物ではないのか?」
「城へ入れてよいのか?」
ギルはレアを見る。
レアは大人しい。
俺の指をつつく以外は、かなり大人しい。少なくとも今は会議室で暴れる様子もない。
「少々生意気な雛鳥ですが、しばらく育ててみようと思います」
「育てる?」
「城内でか?」
「あれを?」
「危険ではないのか?」
ざわつきがまた大きくなる。
ギルは気にしなかった。
「名前はレアとしました」
父上は静かに頷く。
「そうか」
それだけだった。
ギルは少し満足した。
父上も認めた。
つまり問題ない。
ガルシアはざわつく一同を一度見回した。すると、それだけで声が少し落ちる。
「ご苦労だった。しばらく休め」
「はい」
ギルは素直に頷いた。
退出しようとして、ふと思い出す。
「父上」
「なんだ」
「ダリア、あの灰色の髪の娘を専属使用人にしようと思います」
「うむ」
即答だった。
誰も何も言わなかった。
会議室の空気は、まだ迷宮とレアの方に引っ張られている。平民で帝国出身の女を専属使用人にする話は、本来なら少しは引っかかるのかもしれない。だが、未発見迷宮を潰しただの、迷宮近くで拾った卵から生まれた雛鳥を城へ持ち込んだだの、そんな話の直後では軽すぎるのだろう。
ギルは満足して頭を下げた。
「ありがとうございます、父上」
会議室を出る。
扉が閉まると、廊下の空気が少し軽く感じた。
ギルは歩きながら頷いた。
「父上もお喜びだったな」
セバスチャンが横でこちらを見る。
「いや、呆れてたんじゃ?」
「ん?」
ギルは首を傾げた。
父上は怒鳴らなかった。止めもしなかった。レアも認めた。ダリアのことも許可してくれた。
つまり機嫌は良かったのだろう。
たぶん。
廊下の先から、遠く使用人の足音が聞こえる。レティシアとダリアはもう部屋へ戻っているだろう。茶の用意もしてくれているはずだ。
ギルは少し肩を回した。
「まあ、これで全ての問題は解決したな。少しのんびりするか」
セバスチャンがしばらく黙った。
そして、妙に真剣な声で言う。
「……そうしてください」
ギルは少し不思議に思ったが、悪い気分ではなかった。
その頃、会議室では沈黙が落ちていた。
ギルとセバスチャンが出て行った扉を、誰もがしばらく見ていた。白い雛鳥の姿まで消えた後も、すぐには誰も口を開かない。
最初に息を吐いたのは、文官の一人だった。
「ギルバート様は、領外へ出ただけではなかったのか」
「温泉地へ向かわれたとしか聞いておらんぞ」
「それが、未発見の迷宮を破壊して戻られた」
別の文官が、諜報部の長へ視線を向ける。
「諜報部は何をしていた?」
諜報部の長は、静かに眉を寄せた。
「我らは基本的に敵を監視しております。ギルバート様は敵ではありませんので」
「だが、これほどの騒ぎを起こすのだぞ」
「それは、そうですが」
諜報部の長の声には、わずかな苦さがあった。
敵ではない。
確かにギルバートは敵ではない。
だが、領外へ行っただけで未発見迷宮を破壊し、未知の雛鳥を持ち帰る存在を、監視対象から外してよいのか。そう考えた者は一人ではなかったはずだ。
武官の一人が腕を組む。
「本当に迷宮を破壊したのか?」
「小さいとの事だが」
「小さくとも迷宮は迷宮だろう」
「洞窟などと勘違いしておられるのでは?」
「セバスチャンが確認したのであれば、迷宮に間違いはないだろう」
低い声が落ちる。
「あの男は世辞で話を盛るような性格ではない」
それには、何人かが頷いた。
セバスチャンはギル直属の筆頭騎士だが、立場だけで重く扱われるわけではない。実戦経験の多い騎士であり、硬いところのある男だ。軽口は叩くが、報告で媚びるような性格ではない。
そのセバスチャンが、破壊されていたと明言したのだ。
なら、少なくとも「ただの洞窟でした」という逃げ道は無い。
「お一人で破壊出来るものなのか?」
「ギルバート様なら可能かもしれん」
「だから問題なのだ」
会議室の空気が重くなる。
ギルバートなら可能かもしれない。
その言葉は、褒め言葉だけでは済まない。可能なら、どう扱うのか。どこまで自由に動かすのか。迷宮を壊せるほどの攻撃魔法を、自由に使わせてよいのか。
文官たちの顔が険しくなる。
別の者が、さらに言った。
「あの白い雛鳥はなんだ?」
「さぁ?」
「魔物ではないのか?」
「危険ではないのか?」
誰かが疲れた声で呟いた。
「ギルバート様よりは安全だろう」
空気が止まった。
誰もすぐには否定しなかった。
メイド長が少しだけ目を伏せる。文官の一人は口を開きかけて閉じた。武官は腕を組んだまま黙っている。
ガルシア・マバールは、表情を変えなかった。
椅子に座ったまま、指先を肘掛けに置いている。視線は扉ではなく、会議室の中央へ向いていた。
ギルバートは動く。
放っておけば勝手に見つけ、勝手に判断し、勝手に処理してくる。だが、領内や民のことを考えていないわけではない。今回も、魔物被害が出ていた宿場を結果的には助けた。迷宮も被害が広がる前に潰したとも言える。
やり方が極端なだけだ。
いや、極端すぎる。
ガルシアは内心で小さく息を吐いた。
だが、成長している。
以前より判断は速い。自分の周囲を固めることも覚えている。あの灰色の髪の娘を専属使用人にする話を、この場で通したのも偶然ではないのかもしれない。大問題の中に混ぜれば、小さな問題は通りやすい。
そこまで考えてやっているのか。
それとも本当に今思い出しただけか。
ギルバートの場合、どちらもあり得る。
厄介だ。
だが、面白くもある。
もちろん、そんな感情は顔にも声にも出さない。
ガルシアは静かに口を開いた。
「ギルバートはしばらく城内に留め置く」
会議室の全員が姿勢を正す。
「その間に、この件を調べよ。湯の宿場周辺の迷宮跡、魔物被害、周辺領主の動き、持ち帰った雛鳥。分かる範囲で構わん。だが、曖昧なままにはするな」
声は低く、重い。
誰も異論を挟まなかった。
「はっ」
返事が揃う。
会議室の空気が、ようやく動き始めた。
ガルシアは表情を変えずに、扉の方を一度だけ見た。
その先で、ギルバートはきっと自分がすべて解決したと思っている。
少しのんびりするつもりでもいるのだろう。
ならば、しばらくそうさせる。
少なくとも、城の中にいる間は、未発見の迷宮を勝手に潰すことはない。
たぶん。
ガルシアはその考えを最後まで表へ出さず、集まった者たちへ淡々と指示を続けた。