作品タイトル不明
第七十五話 大人しくしている
レアは今日も生意気だった。
机の端へ置いた書類の山、そのすぐ横を白い綿毛がぴょこぴょこ歩いている。丸い足が紙の端を踏み、黄色い嘴が興味深そうに封蝋へ近づいた。
ギルは椅子へ座ったまま片眉を上げる。
「それをつついたら本当に焼いて食うぞ」
ぴたり、とレアが止まった。
白い頭がこちらを向く。
それから何事もなかったように方向を変え、机の端を歩き始めた。
書類には触れない。
だが、数歩歩いた後、今度はギルの手へ近づいてくる。
「おい」
つつかれた。
防御魔法を薄く張っているので痛みはない。ないのだが、妙に腹が立つ。
こん、こん、と嘴が指先を叩く。
「お前、絶対わざとだろう」
レアは返事の代わりにもう一度つついた。
白い綿毛は相変わらず柔らかそうだ。雛鳥らしい丸さもある。だが、性格はかなり可愛くない。
ギルは腕を組み、椅子へ深く座り直した。
しばらく城内へ留まれ。
父ガルシアにそう言われてから、数日が過ぎていた。
ギル自身は、かなり大人しく過ごしているつもりだった。
朝は適度に訓練へ出る。
直属騎士たちと軽く打ち合い、セバスチャンに転がされ、汗を流す。昼は部屋で書類を見たり、生産拠点へ指示を出したりする。夜はレティシアとダリアと過ごす。
かなり平和である。
温泉宿での騒ぎや、迷宮崩落や、黒い鳥との戦闘を思えば、今は驚くほど静かだった。
こういうのも悪くない。
むしろかなり良い。
ギルは窓の外を見た。
城の中庭では、使用人たちが動いている。干された布が風に揺れ、遠くでは兵たちの声も聞こえた。昼過ぎの陽射しは柔らかく、石壁へ白く反射している。
その視界の端を、灰色の髪が横切った。
ダリアである。
部屋の隅で棚を整えていた。
以前は「手伝う」程度だったが、専属使用人になってからは動きが自然だ。どの位置へ何を置くべきか、レティシアへ確認しながら覚えている。
そのレティシアは窓際で布を畳んでいた。
金髪が陽を受けて柔らかく光っている。
二人とも動きに無駄がない。
レティシアは元々完璧に近かったが、ダリアもかなり慣れてきた。最近では二人で相談して動いている時間も増えている。
ギルはぼんやりと眺めた。
うむ。
良い空間である。
しかも美しい。
レティシアが棚の方へ歩く。
腰から背へ流れる線が綺麗だった。長い脚も、細い腰も、どれもかなり完成度が高い。
だが。
ギルは視線を少し横へ動かした。
ダリアが床へ屈んでいる。
褐色の脚。
身体に沿う布。
そして丸み。
うむ。
やはり尻はダリアが強い。
レティシアも美しい。かなり美しい。だが、あちらは全体の均整と胸だ。胸に関しては圧勝である。完全勝利と言ってもいい。
だが、尻は違う。
ダリアはあの形が良い。
丸い。
しかも肉厚だ。
あれはかなり強い。
ギルは真剣な顔で考え込んだ。
胸か尻か。
難しい問題である。
ある意味究極の難問と言ってもいいだろう。
「若様」
声が飛んできた。
レティシアがこちらを見ている。
少し目が細い。
ギルは咳払いした。
「なんだ」
「今、また失礼な事を考えておられませんでしたか?」
「二人が美しいので見惚れていただけだ」
半分くらいは本当だった。
レティシアは呆れたように息を吐く。
ダリアは棚へ布を置きながら、少し困った顔をした。
「ギル様は時々、本当に隠されませんよね……」
「良いものを良いと言っているだけだぞ」
「そこではありません」
レティシアが即答する。
だが完全に怒っているわけではない。
最近はこういう空気が増えた。
以前なら、ダリアはもっと緊張していた。レティシアも距離感を慎重に測っていた。今は違う。
自然に同じ部屋へいる。
自然に会話へ混ざる。
自然に俺を呆れる。
こういうのも悪くない。
かなり悪くない。
レアが机の上を歩き回る。
白い綿毛が、書類の山を避けながら移動していた。
そこはちゃんと理解しているらしい。
ギルは顎へ手を当てた。
「やっぱり知能は高いよな、こいつ」
レアがこちらを向く。
「書類をつついたら焼いて食う、と言ったら本当に触らなくなったし」
レアは黙っている。
だが、ギルが指を近づけた瞬間。
こん。
つつかれた。
「俺は相変わらずつつくけどな」
レアはさらに、こん、と嘴を当ててくる。
やはり舐められている気がする。
ダリアが小さく笑った。
「レア、ギル様には厳しいですね」
「生意気だからな」
ギルはレアの頭を指先で押した。
レアは嫌そうに頭を振る。
白い綿毛が揺れた。
レティシアが茶器を机へ置く。
湯気がゆっくり立ち上った。
香ばしい匂いが部屋へ広がる。
ギルは茶を受け取りながら考えた。
レティシア。
ダリア。
二人とも専属使用人になった。
だが、貴族男子として考えれば人数は少ない。
いや、かなり少ない。
お気楽三男坊で終わりたい気持ちはあるが、それでも家格は変わらない。
正妻はほぼ確実に家の都合優先になる。
マバール家へ釣り合う貴族令嬢。
ギルは茶を飲みながら考えた。
この世界では、別に実家の娘そのままである必要はない。
むしろ養女も多い。
最初は前世感覚で妙な感じがした。
だが、今は理解している。
合理的なのだ。
例えば、大きな家が有望な娘を養女へ取る。
そうすると、養家とも繋がる。
元の実家とも繋がる。
つまり、関係先が増える。
しかも、マバール家へ嫁ぐ為の養女だ。
変な女が来る可能性はかなり低い。
教育もされているだろう。
血筋も調整される。
この世界の貴族は、その辺をかなり現実的に考える。
前世感覚だと少し変でも、この世界では普通。
ギルは茶を飲みながら頷いた。
まあ、そこは父上たちが考えるだろう。
俺はレティシアとダリアを愛でていれば良い。
……いや、もちろん他にもちゃんと考えているが。
たぶん。
レティシアが新しい茶を注ぎながら、ふと視線を上げた。
「若様、何か面倒そうなお顔をされていますね」
「ん? 父上はもう王都に着いたかなと思ってな」
レティシアは少し考える。
「まだ、お着きにはなってないでしょう」
「そうだな」
ギルは椅子へ身体を預けた。
父ガルシアは、現在王都エルディアへ向かっている。
定例の王都社交。
辺境伯ともなれば参加しないわけにはいかない。
領都マバールから王都エルディアまでは、馬だけなら二十日前後。
だが実際はもっとかかる。
倍近くなる事も珍しくない。
理由は簡単だ。
貴族が面倒くさい生き物だからである。
ギルは昔、兄たちや城の者から聞いた話を思い出した。
どの領地を通るか。
どこで泊まるか。
誰の歓待を受けるか。
それだけで空気が変わる。
例えば、同格の領主。
一方の館で泊まり、一方で泊まらない。
それだけで、
「マバール家は我らを軽く見ている」
となる場合がある。
だから調整が必要となる。
だが、旅程もある。
本当はこの領地で泊まりたい。
しかし家格が少し低い。
なら、その手前の領地で短めに歓待を受け、次の大きな領地へ移動する。
だが、そうすると別の領地にも寄らなければ角が立つ。
先触れも必要。
護衛も必要。
食事も、泊まる部屋も、迎える側は準備をする。
しかも父ガルシアは辺境伯だ。
王国東端を守る大貴族。
ただ通るだけでも周囲は気を使う。
ギルは少しうんざりした。
「貴族って面倒だな」
「若様も貴族です」
「知ってる」
「本当に分かっておられますか?」
「分かってるぞ」
たぶん。
ギルは茶を飲んだ。
窓の外では風が動いている。
遠くから兵の声も聞こえた。
こうして城内でゆっくりしていると、温泉宿での騒ぎが少し遠く感じる。
迷宮。
崩落。
黒い鳥。
卵。
レア。
数日しか経っていないのに妙だ。
レティシアが机の上を片づけ始める。
ダリアもその横へ並ぶ。
レアは机の端を歩きながら、白い頭を左右へ動かしていた。
レティシアがレアを指先で撫でる。
レアは嬉しそうに目を細めた。
俺の時と態度が違う。
ギルは少し眉を寄せた。
「やっぱり生意気だな」
レアがこちらを見る。
そして。
こん。
また指をつつかれた。
「おい」
レティシアが笑いを堪えるように口元へ手を当てる。
ダリアも肩を震わせていた。
ギルは不満そうにレアを見た。
「お前、本当に俺へだけ態度悪いよな」
レアは気にした様子もなく、再びレティシアの方へ歩いていく。
白い綿毛が陽を受けて揺れた。
レティシアが茶器を片づけながら言う。
「ですが、若様」
「なんだ」
「今はちゃんと大人しくしていてくださいませ」
その声音は穏やかだった。
だが、少しだけ釘を刺している。
ギルは首を傾げる。
「俺はかなり大人しくしてるだろう」
「今のところは」
レティシアが即答する。
ダリアも静かに頷いた。
「かなり、ですね」
「なんだその含みは」
二人とも答えない。
レアだけが机の端からこちらを見ていた。
そして。
こん。
また指をつつかれた。
ギルは深く息を吐いた。
「お前もか」