作品タイトル不明
第七十三話 レア
湯の宿場を出る朝、山の空気は思ったより冷えていた。
白い湯気が低い屋根の向こうを流れている。石積みの壁は夜の湿りを抱え、道の端には薄く濡れた土が残っていた。宿場の者たちはまだ完全には動き出していない。遠くで荷を動かす音が一度響き、すぐに湯の流れる音へ紛れた。
ギルは馬の手綱を握りながら、名残惜しく宿場の奥を見た。
温泉は良かった。
実に良かった。
透明な湯も、岩に囲まれた湯場も、山の冷気も、レティシアとダリアが湯に沈んでいる光景も、全部良かった。
だが、ゆっくり出来たかと言えば、まったくそうではない。
自然発生迷宮かもしれない洞窟を調べに行き、壊し、埋まり、卵を持ち帰り、黒い鳥を捕まえ損ねて首を折り、ようやく温泉へ入ったと思えば卵が割れた。混浴は出来た。そこはかなり良い。だが、イチャイチャ出来たかというと足りない。
かなり足りない。
ギルは小さく息を吐いた。
「もう少し滞在しても良かったのだがな」
「若様」
レティシアの声が、馬上から静かに飛んできた。
彼女は移動用の服をきちんと着込み、背筋を崩さずに馬へ跨っている。湯場では柔らかく緩んでいた髪も、今は丁寧に整えられていた。
「これ以上こちらで何か起これば、さすがに目立ちます」
「俺は何も起こすつもりはないぞ」
ギルが言うと、セバスチャンが横で鼻を鳴らした。
「若様がそう言って何も起きなかったことが、どれくらいありやしたかねぇ」
「今回はもう迷宮も潰したし、魔物も出ないだろう」
「卵も割れやしたがね」
セバスチャンの視線が、レティシアの腕の辺りへ向く。
白い雛鳥がそこにいた。
まだ孵化して数時間しか経っていないはずなのに、思ったより元気である。レティシアの腕から肩へよじ登り、服の皺へ足をかけ、ふわふわした白い綿毛を山風に揺らしている。黄色い嘴が時々小さく開き、きょろっとした瞳で周囲を見ていた。
放置する選択肢はなかった。
ただでさえ魔物の卵だった可能性が高い。宿場へ置いていけば、誰かが困る。育つか死ぬかも分からない。死んだら死んだで処理がいる。育ったら育ったで騒ぎになる。
だから連れて帰る。
そこまではいい。
問題は、移動中誰が世話をするかだ。
ギルとセバスチャンは、何かあればすぐ動かなければならない。馬上で周囲を見る必要もあるし、魔物や騒ぎがあれば対応する。ダリアは有能だが平民で魔力を持たない。もちろん、普通の世話なら出来るだろうが、いきなり雛鳥が暴れたりした時の対処は限られる。
そうなると、結局レティシアになる。
騎士家の娘で魔力持ち。
ギルの近くにいても自然。
雛鳥の扱いも妙に丁寧。
理屈としては分かる。
分かるのだが。
ギルは白い雛鳥を見た。
雛鳥はレティシアの胸元近くまで登り、布へ嘴を軽く触れた。
レティシアが片手でそっと支える。
「これ、いけませんよ。大人しくなさい」
声が優しい。
かなり優しい。
雛鳥は分かっているのかいないのか、丸い目でレティシアを見上げ、それからまた肩の方へ歩き出した。
ギルは眉を寄せた。
あの雛鳥、俺のレティシアに慣れすぎじゃないか。
まだ生まれて半日も経っていないぞ。
「そんな生意気な雛鳥が言葉など理解せんだろう?」
ギルが言うと、セバスチャンが笑った。
「生意気かどうかは関係ねえんじゃないですか?」
「関係あるだろう。俺の指だけつつくのだぞ」
「まあ、そこは何か感じるもんがあるんでしょうなぁ」
セバスチャンがにやりとする。
ギルは聞こえないふりをした。
馬がゆっくり歩き出す。
宿場を出る道は、石と土が混じった山道だった。湯気の匂いは背後へ流れ、代わりに湿った草と冷たい土の匂いが濃くなる。山の斜面には低い木々が張り付き、枝先から朝露が落ちていた。
ダリアは少し後ろで馬を進めていた。
姿勢は安定している。ここへ来る道でも馬には乗っていたし、今ではかなり慣れているように見える。灰色の髪が風に揺れ、褐色の頬に朝の光が薄く当たっていた。
そのダリアが、ふとレティシアの腕の上で動き回る雛鳥を見た。
「あっ、名前はどうしますか?」
ギルはすぐ答えた。
「白いからシロでいいだろう」
ダリアが瞬きをする。
「ですが、親鳥は黒かったんですよね」
「それならクロだな」
「若様」
レティシアの声が少しだけ呆れた。
「何だ。分かりやすいだろう」
「分かりやすいことは分かりやすいですが」
レティシアは雛鳥を片手で押さえながら、困ったように目を伏せた。
セバスチャンが馬上で肩を揺らす。
「デカくなったらどんな色になるか分からんでしょう」
「それはそうだな」
ギルは雛鳥を見た。
今は白い。
だが、昨日の黒い鳥は黒かった。あれが親かどうかは断定出来ないが、関係がある可能性は高い。白いまま育つのか、黒くなるのか、別の色になるのか、今の段階では分からない。
レティシアも雛鳥の背を撫でながら頷く。
「そうですね。色で名付けると、後で合わなくなるかもしれません」
「なら、色で名付けるのはやめた方がいいですね」
ダリアの言葉はもっともだった。
ギルは少し考えた。
山道は緩やかに下っていく。馬の蹄が湿った土を踏み、時々小石が転がった。背後の宿場は少しずつ遠ざかっている。ここから城まで、またそれなりに長い道のりになる。
名前。
名前か。
「なら、温泉で拾ったから温泉」
「若様」
「成長に期待してモモ肉」
「ギル様」
「分かりやすくバカドリ」
三人が黙った。
雛鳥だけが、レティシアの肩の上で小さく鳴いた。
ギルは首を傾げる。
「何だ」
少し後ろで、三人が馬の距離を近づけた。
こそこそと声が聞こえる。
「まさか本気じゃねえでしょう」
「いえ、若様はあまり名をつけることが得意ではありませんから」
「いくらなんでも、あれはふざけておられるのでは?」
「若様は考えすぎると途中で飽きてしまうので」
けっこうひどい。
しかも普通に聞こえている。
「聞こえてるぞ」
三人の声が止まった。
ギルは前を向いたまま言う。
「分かりやすい名前の方がいいだろうが」
「若様、モモ肉は名前ではありません」
「温泉も名前とは言いにくいですね」
「バカドリはそのまますぎやすな」
「では、そっちで名をつけてやれ」
ギルは手綱を軽く握り直した。
もう知らん。
名前一つに面倒な。
そう思いつつ、雛鳥がレティシアの肩へ擦り寄っているのを見ると、少しだけ気になる。
俺の案の何が悪い。
分かりやすいし、用途も込めている。
モモ肉など成長への期待も含んでいるではないか。
ダリアが少し考える。
「グランディアとかどうですか?」
ギルは横目で見た。
意外と大きく出たな。
セバスチャンがすぐ顔をしかめる。
「そりゃ長すぎるでしょう。名前は短く呼びやすい方がいいですからな。リードはどうです」
「良い名と思いますが、少し男らしすぎるのでは?」
レティシアが雛鳥を見ながら言った。
白い雛鳥は、そんな話など関係ないとばかりにレティシアの指を軽くつついている。ギルの時と違って、攻撃ではなく甘えているだけに見えた。
むかつく。
「そういえば、この子は男の子なんでしょうか?」
ダリアが首を傾げた。
「さて? どうでしょうな」
セバスチャンも分からないらしい。
ギルも当然分からない。
鳥の雛の性別など、前世でもろくに分からなかった。まして魔物である。
レティシアは雛鳥の頭を指先で撫でた。
「女の子ではありませんか? なんとなくですけど」
「根拠は?」
ギルが聞くと、レティシアは少し困ったように目を伏せる。
「ありません。ただ、そのように見えます」
「ふむ」
ギルは雛鳥を見た。
確かに、なんとなくではあるが、レティシアに甘える姿は女の子っぽい気もする。
いや、俺にはつついてくるので可愛げはないが。
セバスチャンが顎を撫でる。
「では、リア、リナ、リタ、あたりですかね」
「意外とまともだな」
「意外とは余計でさぁ」
セバスチャンが笑う。
ダリアは少し目を細めて、雛鳥を見た。
「それなら、ティアも良くありません?」
「ティアですか」
レティシアが小さく繰り返す。
悪くはない。
ギルは少し離れたところから、雛鳥を見た。
レティシアの手の中で白い綿毛が揺れている。
あの雛鳥は、最初からレティシアに妙に懐いている。
ギルにはつつく。
ダリアには甘える。
セバスチャンにもつつかない。
だが、一番落ち着いて見えるのはレティシアの手の上だ。
なら。
「レアでどうだ」
三人の視線がこちらへ向いた。
レティシアが少しだけ目を開く。
「レアですか」
「レティシアに一番懐いているみたいだしな」
ギルは何でもないように言った。
だが、少しだけ胸の奥がむず痒かった。
レティシアの名からそのまま取るのは、少し照れくさい。だが、呼びやすいし雛鳥にも合う気がする。
ダリアが雛鳥を見る。
「いいかもしれないですね」
「ふむ。なかなか良い名ですな」
セバスチャンも頷く。
レティシアは雛鳥を両手で支え、顔を近づけた。
「レア」
白い雛鳥が、ぴっと小さく鳴いた。
そして、レティシアの指へ頭を擦り寄せる。
偶然かもしれない。
だが、反応したようにも見えた。
レティシアの表情が柔らかくなる。
「レア」
もう一度呼ぶ。
雛鳥は今度も小さく鳴いた。
ダリアが少し嬉しそうに息を漏らす。
「気に入ったみたいです」
「では、若様。レアといたしますね」
レティシアがこちらを見る。
ギルは頷いた。
「うむ」
レア。
悪くない。
白い雛鳥は、レティシアの手の中で落ち着いている。ふわふわの綿毛が風に揺れ、黄色い嘴が小さく動いた。
ギルはその姿を見ながら、内心でこっそり考えた。
新鮮なら鶏肉でもレアで食えるよな。
もちろん口には出さない。
言えばまた怒られる。
ギルは何食わぬ顔で前を向いた。
山道は続いている。
湯の宿場はもう背後の霧と湯気の向こうに隠れかけていた。冷たい朝の空気の中、馬の足音だけがゆっくりと道に響いている。
レティシアの腕の中で、白い雛鳥がもう一度鳴いた。
「レア」
レティシアが呼ぶと、雛鳥は嬉しそうに頭を擦り寄せた。
ギルは横目でそれを見て、少しだけ眉を寄せる。
やはり、俺のレティシアに懐きすぎではないか。
そう思ったが、口にはしなかった。
代わりに、手綱を握る指へ少しだけ力を込める。
帰ったら、今度こそゆっくりしたい。
温泉は良かった。
だが、次は騒ぎなしで行きたい。
いや、無理かもしれない。
そんな気がした。
ギルは空を見上げる。
山の朝は、ゆっくり明るくなっていく。
その光の中で、レアの白い綿毛が小さく輝いていた。