軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七十二話 白い雛

卵のひびは、細かった。

灰色の殻の上を、髪の毛ほどの線が斜めに走っている。昨夜、石の窓枠に叩きつけても、石壁へぶつけても、セバスチャンが力を込めても、俺が力を込めても割れなかった卵だ。その卵に、今は確かにひびが入っている。

窓の外はまだ朝になりきっていない。

山の空気は白く冷え、石壁も夜の冷たさを抱いたままだった。湯の宿場らしく、遠くでは細い湯の流れる音がする。昨日の温泉の熱はもう身体から抜けかけているのに、部屋の隅にはまだ湿った匂いが残っていた。

レティシアとダリアは、机の前で卵を見ていた。

レティシアはいつものように背筋を伸ばしているが、視線は卵から離れていない。ダリアも少し身を乗り出している。どちらも不用意に触ろうとはしていないあたり、俺より慎重だ。

いや、俺も慎重だ。

たぶん。

「セバスチャン」

ギルが呼ぶと、壁際にいたセバスチャンが目を細めた。

「へい」

「レティシアとダリアを守れ」

セバスチャンは一瞬だけ卵を見て、それから俺を見た。

「卵から出てくるもんから、で?」

「それもある」

ギルは机の上の卵を見た。

何が出るかは分からない。

黒い鳥の卵かもしれない。黒い鳥が親かどうかも結局断定は出来なかったが、少なくともあの卵を抱えて帰ってから、黒い鳥型の魔物が宿場近くへ寄ってきた。なら、無関係と考える方が難しい。

小さな雛なら問題ない。

だが、魔物である。

生まれた瞬間から暴れるかもしれないし、妙な動きをするかもしれない。

それでも、たぶんどうにでもなる。

問題は、むしろ俺の方だった。

「もし危険なら、俺が攻撃魔法を使う」

「でしょうな」

「部屋の中だ。近い。俺の魔力操作なら大丈夫だとは思うが、念のためだ」

セバスチャンの口元が少しだけ歪んだ。

「そっちの心配ですかい」

「当然だろう。卵から出てくるものより、俺の攻撃魔法の方が危ない可能性がある」

「自覚があるだけ上等ですな」

「失礼な」

ギルは少し眉を寄せた。

レティシアが小さく息を吐く。

「若様、室内で攻撃魔法を使う必要がないことを願っております」

「俺も願っている」

「本当にでございますか」

「本当にだ」

信用が薄い。

ダリアは卵から視線を離さないまま、少しだけ身体を引いた。セバスチャンが自然にその前へ半歩出る。大きく構えるわけではない。ただ、何かあればすぐ動ける位置に立っただけだ。

その動きは、さすがだった。

言葉遣いは適当だし、見た目も軽いが、こういう時のセバスチャンは無駄がない。

卵が、かすかに鳴った。

ぴき、と小さな音。

殻のひびが少しだけ伸びた。

レティシアの指が、布の端を軽く握る。ダリアの瞳が細くなる。

ギルは机へ両手をつき、じっと卵を見た。

また音がした。

ぴき。

線が広がる。

だが、本当に少しだ。

そこから、しばらく何も起きない。

部屋の中に沈黙が降りた。

外では風が鳴っている。宿場の朝はまだ完全に動き出していないらしく、人の声もまばらだった。遠くで扉の開く音が一度して、それきり静かになる。

ギルは卵を見つめた。

また、ぴき、と音がする。

ほんの少し。

そして止まる。

……遅くないか?

ギルは眉を寄せた。

ひびは確かに広がっている。だが、あまりにゆっくりだ。昨日の頑丈さを考えると、内側から割ろうとしているだけでも大したものかもしれないが、それにしても時間がかかりすぎる。

また少し。

また止まる。

ギルは机に置いた指で軽く板を叩きそうになり、すぐ止めた。

レティシアに見られると面倒だ。

「……遅くないか?」

思わず言うと、セバスチャンが半眼でこちらを見た。

「まあ、卵が孵る時はけっこう時間がかかるもんなんですぜ」

「そうなのか?」

「普通はそうですな」

「面倒だな」

ギルは卵へ手を伸ばした。

「若様、危険です」

レティシアの声がすぐ飛ぶ。

「ギル様、危ないです」

ダリアも止める。

だが、もう手は卵へ届いていた。

ギルはひびの入った部分へ指をかける。殻は昨日ほど完全ではない。細い裂け目から、わずかに内側の柔らかい膜のようなものが見える。

雛なのか。

魔物なのか。

指先にゆっくりと力を込める。

「若様、聞いてやすか」

「聞いている」

「聞きながら広げてますな」

「早い方がいいだろう」

「孵化ってのは、早けりゃいいってもんでもねぇと思いやすが」

セバスチャンは呆れたように言う。

ギルは少しだけ力を入れた。

殻が、ぱきりと鳴った。

レティシアが息を止める気配がした。

ダリアも一歩下がる。

ギルはさらに少し広げる。

中から、白いものが見えた。

ふわり、としたもの。

綿のような毛。

それがゆっくり動いた。

「……鳥か?」

殻の裂け目を押し開くと、小さな嘴が見えた。

黄色い。

思っていたより丸い。

さらに殻を外すと、中から小さな雛鳥が顔を出した。

白い綿毛に包まれている。

手のひらに乗るほどの大きさ。

黒い鳥のような鋭さはない。長い脚もない。大きな嘴でもない。丸い目がきょろりと動き、濡れた綿毛を震わせながら、雛鳥は殻の中でもぞもぞしている。

ギルはしばらく見下ろした。

予想より小さい。

危険そうには見えない。

むしろ、かなり頼りない。

「なんだ、小さいな」

そう言った瞬間だった。

雛鳥が首を伸ばし、ギルの指をつついた。

こつ。

痛くはない。

防御魔法を薄く張っていたので、そもそも傷つくはずもない。

だが。

こつ。

こつこつ。

さらに続けてつつく。

ギルは眉を寄せた。

「生意気な鳥だな」

雛鳥は返事の代わりに、また指をつついた。

こつ。

力は弱い。

魔物としての危険は、今のところ感じない。少なくとも、机を壊したり、人に飛びかかったりする気配はない。ただ、ギルの指だけを妙に熱心につついている。

ムカつく。

小さいくせに。

白い綿毛はふわふわしていて、黄色い嘴も丸い目も、かわいいと言えばかわいい。だが、ギルの指を攻撃している時点で評価は下がる。

「若様」

レティシアの声が少し柔らかくなった。

「かわいいですね」

「はい、かわいいです」

ダリアも近づいてくる。

二人の目が、さっきまでと違っている。警戒が完全に消えたわけではないのだろうが、雛鳥の小ささを見て緩んだらしい。

ギルは雛鳥を見ながら言った。

「生意気だから危ないぞ」

レティシアが手を伸ばす。

雛鳥は、つつかなかった。

それどころか、レティシアの指へ自分から頭を擦り寄せる。白い綿毛がふわりと揺れ、黄色い嘴が小さく開いた。

ギルは目を細めた。

「……ん?」

ダリアもそっと指を近づけた。

雛鳥はダリアもつつかない。

むしろ、小さな身体を寄せ、掌へ乗ろうとするように足を動かしている。卵の中にいたばかりで、足元はかなり頼りない。

「本当にかわいいですね」

「ええ。まだふらふらしています」

レティシアとダリアは、雛鳥を覗き込んでいる。

雛鳥は二人へ甘えるように身体を寄せた。

ギルが指を近づける。

こつこつこつこつ。

すぐつつかれた。

「やっぱり生意気な鳥だな」

ギルは不満げに言う。

「焼いて食うか?」

「若様」

レティシアの声が少し低くなった。

「ギル様、だめです」

ダリアも即座に言った。

「まだ何もしていません」

「俺の指をつついている」

「傷一つありません」

「気分の問題だ」

ギルがそう言う間にも、雛鳥はレティシアの指に頭を擦りつけている。

気に入らん。

セバスチャンが少し興味を持ったように近づいた。

「ほう」

ごつい指を雛鳥へ差し出す。

ギルは内心で少し期待した。

つつけ。

こいつもつつけ。

だが、雛鳥はセバスチャンの指を見上げ、それから特に警戒もせず、くちばしで軽く触れただけだった。

つつかない。

それどころか、指の横に頬を擦るような動きをした。

ギルは眉を寄せる。

「なんでだ」

セバスチャンはにやりと笑った。

「まあ、動物や魔物も人の本質を見抜くと言いますからなぁ」

そう言って、こちらを見る。

明らかに俺へ言っている。

ギルは胸を張った。

「俺は心優しい真の漢だぞ」

「そうですか」

レティシアの返事は早かった。

早すぎた。

ダリアは口元を押さえている。笑いを堪えているようにも見える。セバスチャンは肩を震わせていた。

酷い。

主への敬意はどこへ行った。

雛鳥はそんな空気を知ってか知らずか、今度はギルの方へ向き直った。

そして、また指をつついた。

こつこつこつ。

「こいつ……」

「若様が割れ目を広げたからではありませんか?」

レティシアが静かに言った。

「助けてやったのだぞ」

「雛にそれが分かるかは分かりません」

確かに。

だが、それでも納得出来ない。

ダリアが雛鳥の背をそっと撫でた。白い綿毛が指先で沈み、すぐ戻る。雛鳥は小さく身体を震わせ、それから気持ちよさそうに目を細めた。

「本当に柔らかいです」

「生まれたばかりだからでしょうか」

レティシアも指先で触れる。

二人とも楽しそうだ。

雛鳥も二人には甘えている。

ギルが触ろうとすると、つつく。

やはり生意気である。

「何を食べるのでしょう?」

レティシアが雛鳥を見ながら言った。

そこでギルは少し真面目に見た。

確かに、食わせるものが要る。

生まれたばかりで放っておくと死ぬのかもしれない。魔物なら勝手に育つ可能性もあるが、見た目だけでは分からない。

セバスチャンが顎を撫でる。

「まあ、鳥の雛はけっこう何でも食いますな。柔らかいもんをやればいいんじゃねぇですかい」

「宿の人にお願いして、何かもらってきます」

ダリアがすぐに言った。

ギルは雛鳥を見る。

「育てるつもりか?」

そう言って手を伸ばす。

雛鳥は即座に指をつついた。

さっきより激しい。

こつこつこつこつ。

「おい」

こつこつこつ。

「やめろ」

こつこつ。

全くやめない。

レティシアとダリアに向ける態度と違いすぎる。

セバスチャンが肩を竦めた。

「まあ、大人しい魔物なら飼う者もおりますな」

「これが大人しいか?」

「若様以外には大人しいですぜ」

「余計悪いだろ」

ギルは雛鳥を睨む。

雛鳥はギルの指をつついたまま、きょろっとした目でこちらを見上げている。悪気があるのか無いのか分からない。

たぶん無いのだろう。

だが腹が立つ。

「やっぱり生意気だ。焼いて食う!」

「やめてくださいませ」

「駄目です」

「せめて様子を見やしょうや」

三方向から止められた。

ギルは不満そうに口を曲げる。

雛鳥はレティシアの掌へ体を寄せ、何事もなかったように白い綿毛を震わせている。ダリアがその背を指先で撫でると、小さく嘴を開いた。

かわいい。

まあ、かわいいのは認める。

ただし、生意気だ。

ギルは腕を組んで、少し考えた。

昨日の黒い鳥は大きかった。

長い脚と黒い羽毛、大きな嘴と鋭い鉤爪。暴れまくった末に首を折ってしまったが、あれがもし大人しくなっていれば、乗れた可能性はある。

この白い雛が同じ種類かは分からない。

色も違う。

小さすぎる。

だが、魔物の成長がどうなるかなど、ギルには分からない。普通の鳥と同じとも限らない。

育てたら大きくなるかもしれない。

乗れたら面白い。

それに。

「まあ、いいか」

ギルは小さく呟いた。

レティシアがこちらを見る。

「若様?」

「育てて乗れるなら面白そうだし」

雛鳥がレティシアの掌で首を傾げる。

ギルは続けた。

「食うにしても、育ててからの方が食いではあるな」

「若様」

レティシアの声が低くなる。

「ギル様」

ダリアも困ったようにこちらを見た。

セバスチャンだけが、少し笑った。

「若様らしいですな」

「褒めてるのか?」

「さて」

ギルは雛鳥を見る。

雛鳥もこちらを見ている。

そして、またギルの指をつついた。

こつ。

こつこつ。

ギルはゆっくり目を細めた。

「やっぱり焼くか」

「若様」

「冗談だ」

「今のは半分本気でした」

「半分だけだ」

レティシアに見抜かれた。

ダリアは雛鳥をそっと抱えるように両手で包んだ。

「まずは食べられるものを探してきます」

「俺の指をつついてるからいいんじゃないか」

「駄目です」

即答された。

雛鳥はダリアの手の中で大人しくしている。

やはり、俺だけ扱いが違う。

ギルは納得いかない顔のまま、窓の外を見た。

山の朝は、少しずつ明るくなっていた。

湯気が低い屋根の向こうで白く流れ、宿場の人の声も増え始めている。

迷宮は崩れた。

黒い鳥は死んだ。

卵からは白い雛が生まれた。

そして、その雛は俺だけをつつく。

なんとも納得しがたい結果だ。

だが、まあ。

退屈ではない。

ギルは椅子へ戻りながら、雛鳥をもう一度見た。

「名前でも考えるか」

そう言った瞬間、レティシアとダリアが少し楽しそうに顔を上げた。

セバスチャンも口元を歪める。

雛鳥だけが、何も知らない顔で小さく鳴いた。