作品タイトル不明
第七十一話 割れない卵
温泉から戻った後も、身体の奥には熱が残っていた。
石壁へ背を預けると、ひんやりした冷たさがじわりと伝わってくる。だが、芯の方はまだ温かい。湯へ長く浸かっていたせいだろう。窓の外では山風が低く鳴り、夜気が細い隙間から入り込んでいた。
部屋の空気には、まだ温泉の匂いが薄く残っている。
湿った石の匂い。
熱を帯びた湯の匂い。
硫黄に近い独特の香り。
その中で、机の上に置かれた灰色の卵だけが妙に存在感を放っていた。
燭台の火が揺れるたび、殻の表面に入った淡い斑点が鈍く光る。
ギルは椅子へ腰を下ろし、深く息を吐いた。
「やはり温泉は素晴らしいな……」
身体が軽い。
前世でも風呂は好きだったが、温泉は別格だった。しかも今は静かだ。子供が騒いで飛び込むこともない。大声で喋り続けるおっさんもいない。
山奥。
静かな湯。
透明な温泉。
そしてレティシアとダリア付き。
完璧である。
レティシアは部屋の端で濡れた髪を布で押さえていた。
湯場から戻った後なので、着ているのは普段より少し楽な服だ。だが、きちんとしている。胸元も閉じられ、裾も長い。薄手ではあるが、肌を見せるような服ではなかった。
ダリアも似ている。
こちらは灰色の髪を後ろへ流し、肩へ布を掛けていた。普段より柔らかい格好だが、それでも外へ出られない服ではない。
ギルはその二人を見ながら、ぼんやり考えた。
この世界の風呂上がりは、少し面倒だ。
いや、ローブ自体は便利である。
水を吸う。
そのまま身体を拭ける。
湯冷めもしにくい。
貴族用の物など、生地もかなり良い。
だが。
あれはほぼ全身用の拭き布だ。
風呂から上がって、その場で水気を取るための物であり、そのまま歩き回るような格好ではない。
ギルは腕を組んだ。
城でもそうだ。
風呂へ入った後は、結局すぐ服へ着替える。
ローブ姿で廊下を歩き回る者は少ない。
特に女は嫌がる。
使用人同士ですれ違う場合もあるし、男の騎士が通ることもある。貴族と鉢合わせる場合もある。
つまり、俺とかだが。
ギルは少し考え、それから目を細めた。
なら。
もっと簡単な服があれば便利なのでは?
羽織るだけでいい。
軽い。
だがローブほど恥ずかしくない。
前世でいう浴衣っぽいもの。
そこまで考えたところで、ギルは少し眉を寄せた。
いや。
待て。
この世界の女たちが浴衣を着るか?
そもそも「風呂上がりに薄着で歩く」という感覚自体がかなり恥ずかしい扱いだ。特に使用人の女など、男性使用人や騎士とすれ違う可能性自体を嫌がるだろう。
うーむ。
文化として存在していない理由も分かる。
ギルは顎へ手を当てた。
だが。
レティシアとダリアが着る姿はちょっと見たい。
かなり見たい。
生産拠点へ戻ったら試作だけさせてみるか。
需要は知らん。
そんなことを考えていると、扉が開いた。
「戻りやした」
セバスチャンだった。
冷えた外気と一緒に入ってくる。肩には土埃が付いていた。髪にも細かな砂が残っている。
温泉へ入った後の顔ではない。
ギルは椅子へ座ったまま首を傾げた。
「何をしてたんだ? 温泉には入ってないようだが」
「若様が潰した迷宮や周囲を見てきたんですよ」
「ああ」
ギルは納得した。
なるほど。
セバスは見た目と喋り方の割に妙なところで細かいからな。
まあ、だから信頼しているのだが。
本人には言わんけど。
レティシアが髪を整える手を止めた。
「どうでしたか?」
「完全に潰れてやしたな」
セバスチャンが部屋の奥へ入ってくる。
「洞窟自体が崩れ切ってやす。しかも途中、内側から瓦礫を吹き飛ばしたみてぇな跡までありやした」
そこで、セバスチャンがこちらを見た。
「ありゃ若様でしょう」
冷たい目だった。
レティシアも静かに視線を向ける。
ダリアもだ。
三人とも似たような顔をしている。
ギルは少し考えた。
「……ん?」
なぜそんな反応なのか、本気で分からない。
埋まったのは事実だ。
だが、防御魔法を張っていたので怪我は無い。攻撃魔法で簡単に脱出した。つまり、何の問題もない。
セバスチャンは小さく息を吐いた。
「若様」
「なんだ」
「普通は埋まった時点で終わりなんですよ」
「だが終わってないぞ?」
「若様だからですな」
なんか理不尽に怒られている気がする。
ギルが少し不満そうにしていると、セバスチャンは話を変えるように机の上へ視線を向けた。
「それで、卵はどうなんで?」
ダリアがそちらを見る。
「変わりありません」
「ん?」
ギルは卵を見る。
「なんだ、食いたいのか?」
「食いたくありませんな」
即答だった。
しかもかなり嫌そうだ。
「こんな不気味なもん」
「不気味はないだろ」
ギルは卵を見る。
「卵は卵だぞ。差別はいかん」
誰も同意しなかった。
レティシアが机へ近づく。
「ですが、どうしましょうか。この卵」
「食べる以外で、ですね」
ダリアも続ける。
「このまま置いておくのも危険では」
「なら熱い湯へ入れてみるか?」
ギルは気軽に言った。
「ゆで卵になるぞ」
三人とも完全に無視した。
反応すらない。
セバスチャンが腕を組む。
「割るのが一番でしょうな」
「そうですね」
レティシアも頷いた。
「仕方ありませんね」
ダリアまで賛成する。
ギルは眉を寄せた。
「いや、だから割るなら食った方が――」
また無視された。
酷くないか?
ギルがむう、と少し睨む中、セバスチャンは卵を持ち上げた。
石窓枠の角へ近づく。
「では」
次の瞬間。
ガンッ、と重い音が響いた。
かなり強い。
普通の卵なら粉々だろう。
だが。
「……割れませんな」
卵は無事だった。
セバスチャンが少し眉を動かす。
「ほう」
もう一度。
今度はさらに強く叩きつけた。
鈍い音。
しかし、やはり割れない。
卵は平然としている。
レティシアが近づいて覗き込んだ。
「尖った部分で突いた方がいいかもしれません」
「卵なら横の方が脆いはずです」
ダリアも言う。
そこからしばらく、三人が色々試し始めた。
角へ当てる。
向きを変える。
押す。
叩く。
だが、割れない。
ギルは椅子へ座ったまま、その様子をぼんやり眺めていた。
「なかなか頑丈な卵だなぁ」
少し楽しそうですらある。
しかも、さっき無視されたのでちょっと拗ねている。
三人はしばらく格闘していたが、やがて動きを止めた。
そして。
「若様」
「ギル様」
卵がこちらへ差し出された。
ギルは少し口元を緩める。
仕方ないなぁ、という顔をしながら受け取った。
だが、頼られるのは普通に嬉しい。
「まあ、仕方ないな」
ギルは立ち上がる。
卵を片手で持ち、石壁へ近づいた。
そして。
ゴッ。
かなり強めに叩きつける。
割れない。
「……生意気な卵だ」
ギルは少しムッとした。
もう一回。
今度はさらに強く。
しかし、やはり割れない。
ギルの眉がぴくりと動く。
「攻撃魔法で吹き飛ばすか」
「やめてくださいませ」
レティシアが即座に言った。
「宿ごと吹き飛びやす」
セバスチャンも即反応。
「周囲も巻き込みます」
ダリアまで真顔だ。
ギルは少し不満そうに卵を見る。
「そこまでではないと思うが」
「若様基準を信用しておりません」
レティシアの返答が早い。
セバスチャンも無言で頷いていた。
なんか扱いが酷い。
ギルは卵を持ったまま考え、それから小さく肩を竦めた。
「……では、後で人気のない場所へ持って行くか」
「その方が安全ですな」
「そうしてくださいませ」
「お願いします」
三人とも賛成した。
その後、部屋の空気は少し落ち着いた。
外では風が鳴っている。
宿場の喧騒も、昼よりかなり静かだった。迷宮崩落の騒ぎはまだ残っているはずだが、もう遅い時間だ。表の通りを歩く者の声も少ない。
レティシアは寝具を整え始めていた。
ダリアも茶器を片づけている。
その姿を見ながら、ギルはゆっくり息を吐いた。
正直。
かなり味わいたい。
温泉上がりの二人は危険だ。
肌は熱を持っているし、髪は少し湿っているし、空気も柔らかい。
しかも今日は色々あった。
迷宮。
黒い鳥。
卵。
温泉。
疲れている時ほど、こういう時間は欲しくなる。
だが。
ギルは冷静に考えた。
やると、たぶん明日の午前中くらいまで二人がふにゃふにゃになる。
特にレティシアは見た目より弱い時がある。
ダリアも今はかなり慣れてきたが、それでもギル基準で考えると負担は大きい。
しかも今は宿場だ。
領外。
外部。
周囲では迷宮騒ぎまで起きている。
うむ。
我慢すべきだろう。
ギルは静かに頷いた。
俺って偉いな。
本当に。
普通なら我慢出来んぞ。
ギルが妙な達成感を覚えていると、レティシアがこちらを見た。
「若様」
「なんだ」
「顔が少し嫌です」
「失礼だな」
「たぶん若様は今、自分を褒めています」
「……」
ギルは黙った。
ダリアが小さく吹き出す。
「当たっているんですね」
「いや、別に?」
「今の間で分かります」
最近、二人とも慣れてきてないか?
ギルは少しだけ不満だった。
だが、嫌ではない。
むしろ妙に落ち着く。
結局、そのまま三人で休むことになった。
燭台の火を落とす。
窓の外では風。
遠くで湯の流れる音。
山の冷気。
柔らかい寝具。
隣から伝わる体温。
ギルは目を閉じながら、ぼんやり思った。
やはり温泉は最高だ。
翌朝。
薄い光で目が覚めた。
窓の外はまだ白み始めた程度で、部屋の中には朝の冷えが少し残っている。
ギルは寝台の上でぼんやり天井を見た。
隣は空いている。
少しだけ身体を起こす。
すると、部屋の奥でレティシアとダリアが机を見ていた。
二人とも静かだ。
その空気で、ギルは少し目を細める。
「若様」
「ギル様」
呼ばれて立ち上がる。
まだ眠気が少し残る頭のまま近づいた。
机の上。
卵。
その表面へ。
細いひびが入っていた。
ギルは少し目を見開く。
灰色の殻の中央近く。
本当に細い線だ。
だが、間違いなく昨日までは無かった。
「ほう……」
自然に声が漏れた。
危険だ、とか。
まずい、とか。
そういう感想より先に、少し楽しみだった。
何が出るのか。
黒い鳥か。
別の何かか。
ギルは机へ手を付き、ひびの入った卵をじっと見つめた。
部屋の中は静かだった。
窓の外では、山の朝風が低く鳴っている。