作品タイトル不明
第七十話 ようやく温泉
湯気が、白く揺れていた。
岩を積み上げて作られた湯場の天井近くへ、薄く煙るように溜まっている。壁は湿って黒ずみ、隅では細い湯が静かに流れ続けていた。鼻を抜ける匂いは独特だ。硫黄に近いが、それだけではない。熱を帯びた石と湿った空気が混ざり合い、山奥の空気そのものが溶け込んでいるようだった。
湯面がゆっくり揺れる。
その中央辺りで、レティシアの身体が肩まで沈んでいた。
長い髪は湯気を含んで少し重そうに見える。白い肌には薄く湯の雫が残り、首筋から鎖骨へ滑っていた。湯へ浸かっているせいで身体の輪郭は曖昧だが、それでも十分わかる。
いや、むしろ分かりやすすぎた。
「うむ、浮いてるな」
ギルが呟くと、隣のダリアも湯へ肩を沈めたまま視線を向けた。
「はい、浮いてますね、ギル様」
「見ないでくださいませ……」
レティシアが額へ手を当てる。
だが、耳が少し赤い。
湯気のせいだけではない気がする。
ギルは腕を組みながら深く頷いた。
「何を言う。レティシアの全ては俺のものだ。つまり、レティシアの胸も俺のものだ」
「わたくしの胸はわたくしの胸です」
「あれ?」
おかしい。
理屈としては完璧だったはずだ。
ギルが首を傾げると、ダリアが小さく肩を震わせた。
笑ったらしい。
湯の中なので口元までは見えないが、目が少し細くなっている。
レティシアは深く息を吐き、濡れた髪を耳へ流した。
「若様は時々、本当に意味が分かりません」
「俺にも分からなくなってきた」
「そこで一緒に困らないでくださいませ」
湯が揺れる。
外では風が吹いたのか、どこかで木の葉が擦れる音がした。
宿場へ着いてから色々あった。
自然発生迷宮かもしれない洞窟。
崩れた山。
卵。
黒い鳥。
首が折れた時の感触まで、まだ妙に残っている。
だが、今は湯が温かかった。
肩の力が抜ける。
石へ背を預けると、じわりと熱が広がった。
……やはり温泉は素晴らしい。
前世でも温泉は好きだったが、あの頃は仕事帰りだの休日だの、疲れ切った状態で入ることが多かった。しかも人が多い。騒がしい。狭い。子供が飛び込む。妙に大声で話すおっさんがいる。
だが今は違う。
静かだ。
しかも混浴。
さらにレティシアとダリア付き。
控えめに言って最高である。
ギルはゆっくりと湯を掬った。
透明な湯が指の間を流れる。
乳白色ではないのも良い。やはり湯は透明の方が風情がある。身体の線もよく見えるし。
うむ。
素晴らしい。
「若様、顔に出ています」
「何がだ?」
「ろくでもないことです」
「失礼な」
レティシアは呆れたように言うが、怒っている感じは薄かった。
以前なら、もっと距離を取っていた気がする。
ダリアもそうだ。
最初の頃は、常にどこか身構えていた。身体の動きにも隙がなく、会話でも距離を測っていた。帝国側で生きてきた以上、それは当然だろう。
だが今は違う。
湯へ肩まで浸かり、自然に会話へ混ざっている。
ギルは横目でダリアを見た。
灰色の髪は濡れて背へ張り付き、褐色の肌へ細い水滴が流れている。身体つきはレティシアほど大きくない。胸も小さい。
だが、均整はかなり綺麗だった。
腰も細いし、脚も長い。
戦える身体だ。
無駄がない。
しかも顔も整っている。
うむ。
やはり素晴らしい女である。
最近は壁もだいぶ無くなってきた。
レティシアとも普通に話すようになったし、宿場へ来てからは二人で動いている時間も長い。部屋の空気もかなり柔らかくなっている。
ギルは湯へ顎まで沈めながら考えた。
……そろそろ正式に決めてもいい気がするな。
「レティシア」
「はい」
レティシアが視線を向ける。
湯気の向こうで、金色の瞳が静かに揺れていた。
「ダリアを専属使用人にしようと思うが、どうだ?」
一瞬だけ、湯の音がはっきり聞こえた。
ダリアが小さく目を見開く。
レティシアは驚いた様子を見せなかった。
むしろ、少し考えるように視線を伏せ、それから静かに頷いた。
「はい。ダリアなら問題ありません」
「ほら」
「若様へ言ったわけではありません」
「そうなのか?」
「そうです」
レティシアは呆れたように息を吐き、それからダリアへ視線を向けた。
「実際、かなり助けられています。覚えも早いですし、気も回ります」
「……ありがとうございます」
ダリアが少し視線を落とした。
湯へ沈んだ指先が、わずかに揺れている。
「ですが」
ダリアはゆっくり口を開いた。
「私は帝国出身ですし、平民です」
「うむ」
「……その」
少し言葉を探すように黙る。
だが、ギルには何を悩んでいるのか、いまいち分からなかった。
「出身は帝国でも今は俺の側だ。問題無いな」
「ですが私は平民です」
「構わん」
即答だった。
ダリアが瞬きをする。
レティシアは、やっぱりこうなるかという顔をしていた。
ギルは腕を組んだ。
「そもそも、ダリアは優秀だ」
「……」
「頭も回るし、気も利く。レティシアとも上手くやれてる。俺の側へ置く女としてかなり良い」
湯気の向こうで、ダリアが少し困った顔をした。
褒められているのは分かるが、言い方に困っているらしい。
だがギルは気にしない。
「それに、もう今さら他の男へ渡す気もない」
「若様」
レティシアが少し低い声を出した。
だが完全に否定している感じではない。
ギルは続けた。
「囲うなら徹底的に囲う。当然だろう」
「当然ではありません」
「そうなのか?」
「そうです」
レティシアが即答する。
だが、ダリアは少し黙った後、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます、ギル様」
声は静かだった。
だが、拒絶する響きは無かった。
ギルは満足げに頷いた。
うむ。
良い。
やはり俺は良い判断をする。
湯へ身体を沈めながら満足していると、レティシアが立ち上がった。
湯が肩から流れ落ちる。
「そろそろ上がりますか?」
「もう少し入っていたい」
「のぼせます」
「むぅ……」
だが、確かに少し頭が熱い。
名残惜しいが仕方ない。
ギルが立ち上がると、レティシアとダリアも湯から出た。
濡れた石床へ足を乗せる。
外気が肌へ触れ、湯との温度差で鳥肌が立った。
だが、それも気持ち良い。
湯場の隅では、水滴が静かに落ちている。
レティシアは布で髪をまとめながら、ふとダリアへ視線を向けた。
「背中、流しましょうか?」
「あ、はい」
自然な流れだった。
ダリアも特に遠慮せず、腰を下ろす。
ギルはその様子を見ながら椅子へ座った。
湯気の向こうで、レティシアが布へ湯を含ませる。
濡れた布が褐色の背を滑った。
肩から背中へ。
細い水滴が流れ落ちる。
「少しくすぐったいです」
「動かないでくださいませ」
「はい」
ダリアが小さく笑った。
その顔を見ながら、ギルはぼんやり考える。
レティシアはいずれ問題なく魔力を持つ子を産むだろう。
騎士家系だし、魔力持ちとしての素質も高い。
ではダリアはどうだろう。
平民でも魔力を持つ子を産むことはある。
だが確率は低い。
まあ、それでも別に構わないのだが。
魔力持ちだろうが違おうが、ダリアはかなり良い女だ。
それに、本人が望むなら産むまで付き合うぐらいは普通にやる気がする。
……うむ。
なんだかんだ俺って真面目だな。
「若様」
レティシアの声がした。
「ギル様」
ダリアも続く。
二人がこちらを見ていた。
「次は若様です」
「ギル様のお背中、流します」
ギルは静かに頷いた。
「任せよう」
うむ。
素晴らしい。
座り直すと、背中へ温かい湯が流れた。
レティシアの手つきは相変わらず丁寧だ。肩へ触れる力加減も絶妙で、無駄がない。布が背中を滑るたび、湯の熱がじわりと広がっていく。
反対側では、ダリアが腕を洗っていた。
こちらは少し慎重だ。
まだ遠慮が残っているらしい。
だが、指先は意外と柔らかかった。
「こうして若様のお体を洗うのも久しぶりですね」
レティシアが静かに言った。
「そうなのですか?」
ダリアが尋ねる。
「はい。若様はかなり早くお一人で入られるようになったので」
「ああ……」
ダリアが納得したように頷いた。
ギルは少し目を閉じた。
本来、貴族の男子が一人で風呂へ入るのは珍しいらしい。
前世知識の感覚では最初かなり驚いたものだ。幼い頃から年頃の女に世話をされる。着替えも風呂も当然のように使用人が入る。
当時は妙に気恥ずかしくて、一人で入るようにした。
だが。
今思う。
勿体なかったのでは?
いや、かなり勿体なかったのでは?
レティシアみたいな女に毎日身体を洗われる生活を捨てていたのか、昔の俺。
何をやっていたんだ。
「若様、また顔に出ています」
「失礼な」
「たぶん当たっています」
ダリアまで言い出した。
ギルは少し不満そうに眉を寄せたが、否定しきれなかった。
その後もしばらく、三人はゆっくり湯場で過ごした。
外の空気は冷えていたが、身体の芯はずっと温かい。
宿へ戻る頃には、山の夜気がかなり濃くなっていた。
大部屋へ戻ると、机の上には茶器が置かれていた。
湯気が薄く立っている。
レティシアが先に準備していたらしい。
ギルは寝台近くへ腰を下ろした。
身体が妙に軽い。
温泉は良い。
これは定期的に来るべきだ。
レティシアが茶を淹れる。
湯気と一緒に、少し香ばしい匂いが広がった。
ダリアは部屋の隅へ置いてあった布を持ち上げる。
その先には、灰色の卵があった。
淡い斑点の入った殻。
静かな魔力反応。
まだ微弱に残っている。
ダリアは濡れ布を絞り、卵の表面をそっと拭き始めた。
ギルは茶を飲みながら、その様子を眺める。
「うーん……」
「どうされました?」
レティシアが茶器を置きながら尋ねる。
ギルは卵を見た。
「持って帰ってきたが、こうなるとちょっと面倒だな」
「食べるおつもりでしたものね」
「うむ」
ギルは真面目に頷いた。
「やっぱり食べるか?」
「やめてくださいませ」
即座に返ってきた。
ダリアも卵を拭く手を止める。
「生きている可能性がありますし」
「そうなんだよなぁ」
ギルは頬杖をついた。
孵すのも少し面白そうではある。
だが、そもそも本当に生きているのか。
親らしき黒い鳥は死んだ。
卵だけ残った。
こういう場合、どうなるのだろう。
ダリアの指先が、卵の表面をゆっくり撫でる。
濡れた布越しに、灰色の殻が鈍く光った。
その様子を見ながら、ギルは静かに息を吐いた。
……まあ、しばらく様子を見るか。