軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第六十九話 黒い鳥

宿の大部屋は、外の騒ぎを壁越しに抱え込んでいた。

誰かが廊下を走る音がする。低い声がいくつも重なり、山の方だ、いや崖の方だ、と互いに言い合っている。言葉の端は窓の隙間から入り、燭台の火を揺らす風と一緒に部屋の中を通り抜けていった。

机の上には卵がある。

薄い灰色の殻に、淡い斑点。両腕で抱えるほどの大きさのそれは、土埃のついた布の上に置かれていた。表面は冷えきってはいない。触れれば硬い殻越しに微かな温みが残っていて、近くに意識を寄せると、小さな魔力反応が揺れているのが分かる。

ギルは椅子に座らず、机の横に立ったまま卵を見下ろしていた。

拾ってきた時は、妙なものを見つけた、くらいの感覚だった。だが、こうして灯りの下に置いてみると、妙に存在感がある。殻の斑点も、巣に寄せられていた乾いた草も、山の奥で感じたあの薄暗い空気をまだ少しまとっているように見えた。

「若様」

レティシアの声は静かだった。

いつも通り丁寧で、乱れはない。だが、ギルはその静けさの奥に、あまり触れない方がいい硬さを感じ取った。

「分かっている」

ギルは卵から目を離し、窓の外へ視線を向けた。

山側だ。

さっき、感知魔法を拡げた時にあった強めの反応。小型の魔物とは違う。迷宮の奥で散っていた弱い反応とも違う。卵と同じ種類かどうかは分からない。親かどうかも分からない。ただ、山側にそこそこの魔力反応があり、それが宿場から遠すぎない位置にある。

分かるのは、それだけだ。

だが、それだけでも十分に面倒だった。

「ギル様、あの反応は……こちらへ来ていますか?」

ダリアが卵の横から顔を上げた。

彼女の目は卵を見ている時よりも少し鋭い。平民であるダリア自身には感知魔法を使う事は出来ない。けれど、話の流れとギルの様子から、山側に何かがいることは分かっている。

ギルは目を細め、もう一度感知魔法を拡げた。

魔力が内側で揺れ、感覚が外へ拡がっていく。視界とは違う。音とも匂いとも違う。自分を中心に、周囲へ薄い膜を押し拡げるような感覚。その中で、魔力を持つものだけが点のように浮かぶ。

近くに、レティシア。

少し離れて、セバスチャン。

机の上に、小さな卵の反応。

そして山側に、強めの反応。

「動いてるな」

ギルは短く言った。

「こちらへ?」

「近づいてるようには感じる。こっちを目指しているのか、たまたまこっち側へ動いているのかまでは知らん」

そこは言い切れない。

感知魔法で分かるのは魔力反応だけだ。目も表情も、足跡も、意思も拾えない。卵を探しているかどうかなど、分かるはずがなかった。

セバスチャンが壁際から窓の外へ目をやった。

「若様の魔力に反応した、って線もありやすね」

「まあ、ありそうだな」

迷宮を潰した時も、かなり派手にやった。

山側にいる魔物が魔力を感じ取ったとしても不思議ではない。卵が関係している可能性もある。だが、どちらも推測にすぎない。

ギルは面倒くさそうに頭を掻いた。

「放っておいたら宿場まで来るかもしれん」

外ではまだ騒ぎが続いている。

今は、山の方で何かが起きた、という程度で済んでいる。崖崩れだの地鳴りだの、勝手に騒いで勝手に怖がっているだけなら、まだいい。だが、ここへ魔物が現れれば別だ。

湯場周辺に出る魔物。

山の崩落。

さらに宿場襲撃。

そうなると、無関係とは言いにくい。

ギルは机の端に置いていた赤布を手に取った。

「少し行ってくる」

「若様、あっしも行きやす」

セバスチャンがすぐに言った。

予想通りだった。

ギルは赤布を広げながら首を振る。

「残れ」

「ですがね、若様」

「レティシアとダリアがいる」

セバスチャンの口が止まった。

ギルは窓の外を見たまま続ける。

「宿場は騒がしい。山の方で何か起きたのは、ここの連中にも分かってる。こういう時に面倒な奴がいないとは限らん」

レティシアは魔力持ちだ。自分の身を守る術もある。ダリアも帝国で色々とくぐってきた女だ。何もできないわけではない。

だが、それでもギルが二人を置いて山へ行くなら、セバスチャンは残した方がいい。

それだけは、ギルの中で迷いがなかった。

「セバスは二人の護衛だ。俺は一人の方が早い」

セバスチャンはわずかに眉を寄せたが、すぐに息を吐いた。

「……へい」

「若様」

レティシアが一歩近づく。

ギルは赤布を顔に巻きながら視線だけを向けた。身長差のせいで、少し見上げる形になる。こういう時のレティシアは綺麗だが、目が怖い。

「今度は、宿場まで揺らさないでくださいませ」

「揺らしたくて揺らしたわけじゃない」

「結果として揺れました」

「それはそうだが」

「温泉にも、まだ入っておりません」

その言葉は刺さった。

ギルは少し黙る。

そうだ。

温泉へ来たのに、まだ入っていない。

魔物騒ぎで湯場へ近づくなと言われ、調べるだけのはずが迷宮を壊し、卵を拾い、今度はその卵に関わりそうな反応を追うことになっている。

どう考えても予定と違う。

「……早く片付ける」

「片付け方の問題です」

「善処する」

「若様の善処は、時々とても大きな音がします」

ダリアが小さく視線を伏せた。

笑いを堪えたようにも見えたが、断定はできない。

ギルは少しだけ口を尖らせた。

「今回はなるべく静かにする」

そう言って、窓枠に足を掛ける。

外の冷たい空気が顔に触れた。赤布越しでも、夜の湿り気が分かる。宿場の灯りはまだいくつも残っていて、道の上には人影が動いていた。

ギルはその人影に見つからない角度で身を滑らせる。

壁を蹴り、隣の屋根へ飛ぶ。

肉体強化魔法を内側で強めた。

脚に力が満ちる。

同時に、防御魔法を薄くまとわせる。枝や岩で身体を傷つけないためだ。攻撃に使うわけではない。ただ、これからまた山を直線で進む以上、普通に走れば服も肌も無事では済まない。

ギルは宿場の屋根から、暗い山側へ視線を向けた。

感知魔法を広げたまま、反応の位置を確かめる。

強めの反応は、動いている。

宿場に近づいている。

「まだ問題にはなってないんだよな」

小さく呟いて、ギルは屋根を蹴った。

夜の山へ飛び込む。

道は使わない。

宿場を囲む石垣を越え、草の斜面に着地し、そのまま次の岩へ跳ぶ。足場が崩れそうな場所は踏み抜く前に抜け、太い木の幹を蹴って角度を変える。枝が顔の前へ迫るたび、防御魔法の表面で弾けて折れた。

風が耳元を切る。

湿った葉の匂いが流れる。

足元では小石が跳ね、斜面の土が崩れた。だが、ギルは止まらない。肉体強化魔法で強引に身体を押し出し、感知魔法で反応との距離を測る。

近い。

思ったより動きが速い。

「こっちの魔力を感じたか?」

口にしても答えはない。

魔物の意思など分からない。けれど、反応の動きは明らかに変わっていた。山の奥をうろついていたものが、今は宿場側へ寄っている。

まずい。

宿場にまで魔物が現れれば、騒ぎが大きくなる。だが、湯場の魔物と同じものなら、ここで仕留めれば話は早い。まあ、違っていても、強めの魔力反応を持つ魔物が宿場へ近づくのを放置する理由はないけどな。

ギルはさらに速度を上げた。

斜面を駆け上がり、突き出た大岩へ飛び移る。

着地の瞬間、岩の表面がわずかに砕けた。夜露で濡れた石の匂いが立ち、足元から細かな破片が転がり落ちる。

ギルはその岩の上で身を低くした。

下の木々が途切れている。

岩場と低い草の間に、黒い影があった。

「おお、いた」

声は小さく漏れた。

大きな鳥だった。

いや、鳥と言うには足が太く、首が長く、身体が大きすぎる。羽毛は黒っぽく、夜の中では輪郭が沈んで見える。だが、薄い月明かりが差した瞬間、首筋から背にかけて硬そうな羽の重なりが見えた。

二本の脚は長く、地面を踏む爪は鋭い。

嘴も太い。

あれで突かれたら、普通の人間なら腹に穴が開くだろう。

ギルは岩の上で目を細めた。

「ダチョウ……というより、某ゲームの巨鳥っぽいな」

前世の記憶にある黄色い鳥が頭をよぎる。

もっとも、目の前の魔物は可愛げが少ない。羽毛は黒いし、目つきも鋭い。乗り物というより、普通に人を蹴り殺しそうだった。

それでも。

ギルは少し考えた。

速そうだな。

かなり速そうだ。

この脚なら山道も悪路も走れそうだし、背中に乗れれば面白い。温泉旅行に来て、魔物の卵を拾い、さらに騎乗用の鳥まで手に入るなら、それはそれで悪くない気もする。

「懐くか?」

黒い鳥が首を動かした。

こちらに気づいたのかもしれない。あるいは、ただ何かの気配を感じただけかもしれない。ギルにはそこまでは分からない。

だが、目が合った気はした。

ギルは岩の上から一気に飛び降りた。

地面に降りた瞬間、膝を使って衝撃を逃がす。土が沈み、草が潰れた。黒い鳥が一歩下がる。首を伸ばし、嘴をわずかに開いた。

「よしよし」

ギルは両手を少し広げた。

「落ち着け。俺は敵じゃない」

黒い鳥が地面を蹴った。

速かった。

長い脚が一気に間合いを潰し、鋭い嘴がギルの顔面へ向かって突き出される。普通なら避ける間もない。赤布の奥で、ギルは少しだけ目を丸くした。

防御魔法に、硬い衝撃が走った。

嘴は届かない。

鈍い音とともに弾かれ、黒い鳥の首がわずかに反れる。

「おお」

ギルは感心した。

「なかなか速いな」

黒い鳥は止まらない。

今度は脚が跳ねた。

鉤爪がギルの胴へ向かう。防御魔法の表面を爪が擦り、火花のような細かな光が散った。傷はない。痛みもない。ただ、衝撃だけが身体の外側で潰れる。

「よしよし、元気なのはいいことだ」

ギルは一歩踏み込んだ。

肉体強化魔法で距離を詰め、黒い鳥の首元へ手を伸ばす。鳥は身を捻って逃げようとしたが、ギルの指がそれより先に羽毛を掴んだ。

硬い。

思ったより筋肉が詰まっている。

黒い鳥が暴れた。

翼が広がり、風が叩きつけられる。羽ばたきというより、巨大な布を力任せに振り回したような圧だった。近くの草が倒れ、砂と小石が舞い上がる。

「おっと」

ギルは首元を掴んだまま、もう片方の手で胴の羽毛を押さえた。

「大人しくしろ。乗れるか試したいだけだ」

当然、通じない。

黒い鳥はさらに暴れる。

嘴が何度も防御魔法へ当たり、脚が地面を裂いた。岩に爪が食い込み、欠けた石が跳ねる。ギルの足元にも破片が飛んだが、防御魔法が全てを弾いた。

ギルは力を込め、黒い鳥を地面へ押し倒そうとした。

鳥の身体が傾く。

だが、倒れない。

長い脚が踏ん張り、首がしなり、翼がギルの肩の辺りを叩く。力そのものは大したことがない。ギルからすれば、押さえ込めない相手ではなかった。

ただ、落ち着かない。

「よしよし」

ギルは首を撫でようとした。

黒い鳥が嘴を打ち込んでくる。

「よしよし」

今度は脚が跳ねた。

「よしよし」

翼が赤布をかすめる。

ギルの眉が少しずつ寄った。

落ち着かせようとしているのに、まったく落ち着かない。こちらは殺す気で攻撃していない。防御魔法で受けているだけだし、肉体強化魔法で押さえているだけだ。なのに、黒い鳥は暴れ続ける。

岩場に何度も爪が当たり、耳障りな音が夜に響いた。

宿場からは離れている。

だが、あまり派手にしたくない。

「おい」

ギルの声が低くなる。

「大人しくしろ」

黒い鳥が暴れる。

ギルは首元を掴む手に少し力を込めた。

鳥の動きが一瞬止まる。

だが、次の瞬間にはさらに強く身を捻った。嘴が防御魔法へぶつかり、脚が跳ね、翼がギルの視界を黒く塞いだ。

「だから」

ギルは息を吐いた。

「大人しくしろって言ってるだろうが」

さらに力が入る。

黒い鳥の首が、ギルの手の中で嫌な角度に曲がった。

ボキッ、と乾いた音がした。

暴れていた身体から、急に力が抜ける。

翼が地面へ落ちた。

長い脚が一度だけ痙攣し、それきり動かなくなる。

ギルはその姿勢のまま、しばらく固まった。

夜風が岩場を通り抜ける。

舞い上がっていた砂が落ち、草の葉がゆっくり戻る。黒い羽毛の塊は地面に横たわり、首だけが不自然に曲がっていた。

「……えーっと」

返事はない。

当たり前だ。

ギルは手を離した。

黒い鳥は動かない。

いや、少し痙攣してるかもしれない。

だが、完全に死んでいる。

ギルは少しだけ空を見上げた。

「所詮は鳥の魔物だな。頭が悪い」

落ち着けば乗れたかもしれないのに。

いや、落ち着かないから魔物なのかもしれない。

そう考えたところで、結果は変わらなかった。首が折れている以上、もう乗れない。治癒魔法でどうにかする相手でもない。そもそも魔物を治してまで乗る気力は、今のギルにはなかった。

放っておいて帰るか。

ギルは一度そう考えた。

この大きさなら、山の獣や小さな魔物が勝手に食うかもしれない。だが、宿場で出ていた魔物がこれなら、持ち帰って見せた方が話が早い。

湯場を塞いでいた原因が消えた。

そう分かれば、温泉へ入れる。

そこは重要だった。

「仕方ない」

ギルは黒い鳥の脚を掴み、肩へ担ぎ上げた。

重い。

羽毛に覆われているせいで軽そうに見えたが、実際にはかなりの質量がある。普通の人間なら動かすだけでも苦労するだろう。

だが、肉体強化魔法を使っているギルには、ただ大きくて邪魔な荷物だった。

黒い翼が背中側へ垂れる。

長い首が横へ揺れる。

血はほとんど出ていない。頸が折れただけだから、宿場へ戻るまでに服を汚す心配は少なそうだった。

ギルは感知魔法をもう一度広げた。

さっきの強い反応は消えている。

卵との関係は分からない。親かどうかも確定できない。ただ、この黒い鳥が、あの強めの魔力反応だったことだけは分かる。

ギルは山を下り始めた。

来た時ほど速度は出せない。荷物が大きすぎる。枝に引っかかりそうになり、岩の間を抜けるたびに翼が邪魔をした。

「でかいな、お前」

死体に言っても仕方ない。

それでも、口に出したくなるくらい大きかった。

斜面を蹴り、木の根を越え、大岩から大岩へ移る。防御魔法で枝や石を弾きながら、宿場の灯りへ向かって進む。

人の声が近くなってきた。

騒ぎはまだ収まっていない。

山の方を見上げる者たちが、宿場の端に集まっている。灯りを持つ者、上着を羽織っただけの者、腰に短い刃物を差した者。どれも平民だ。感知魔法には引っかからない。けれど、灯りと声と足音で、そこに人がいることは分かる。

ギルは宿場の手前で一度足を止めた。

赤布を確かめる。

顔は隠れている。

なら、いい。

ギルはそのまま宿場の道へ入った。

最初に気づいた男が、手にしていた灯りを落としそうになった。

「なっ……」

声が途切れる。

周囲の視線が一斉に集まった。

赤布で顔を隠した小柄な人物。

その肩には、黒い巨大な鳥の魔物。

普通に考えれば異様だった。

ギルは構わず歩いた。黒い鳥の脚を片手で掴み、肩に担いだまま、宿の前へ向かう。翼の先が地面を擦り、乾いた音を立てた。

「お、おい……あれ……」

「黒い鳥……」

「湯場の方に出たって……」

ざわめきが広がる。

ギルは宿の前で足を止めた。

宿の主人が戸口から顔を出していた。昼間より顔色が悪い。山の騒ぎで起き出したのだろう。目の下に疲れが浮いている。

ギルは黒い鳥を地面へ下ろした。

重い音が響く。

宿場の者たちが一歩引いた。

「最近、湯場の方に出てた魔物ってこれか?」

声は赤布の奥で少しくぐもった。

宿の主人は黒い鳥を見下ろし、それから周囲の者たちへ視線を走らせた。

「お、おそらく……黒い大鳥だと、見た者が……」

「たぶんこれだな」

ギルは軽く頷いた。

完全な断定ではない。だが、宿場の者たちが聞いていた特徴と合うなら、それで十分だった。

「湯場、もう使っていいだろ」

「え、あ、いや、しかし……」

「これ以外にもいるかもしれんが、少なくともこいつはもう来ない」

宿の主人は言葉に詰まった。

周囲の者たちも黒い鳥を見ている。恐怖と安堵が混ざったような顔だ。ギルからすれば、さっさと湯場を使わせろという話だったが、彼らには彼らなりに受け止める時間がいるらしい。

面倒だった。

「じゃあな」

ギルは背を向ける。

「ま、待ってくれ。あんた、いったい……」

「通りすがりだ」

「通りすがりで、こんな魔物を……?」

「通りすがりだ」

二回言えば十分だった。

ギルはそれ以上答えず、宿の壁側へ回る。正面から戻ると面倒そうだった。人が集まっているし、質問も増える。そういうのは嫌いだ。

窓の下へ移動し、軽く跳ぶ。

二階の窓枠に手を掛け、身体を引き上げた。

窓の内側では、レティシアが待っていた。

ダリアもいる。

セバスチャンは少し後ろで腕を組み、何とも言えない顔をしていた。

ギルは部屋へ入り、赤布を外した。

「終わったぞ」

誰もすぐには褒めなかった。

レティシアは窓の外へ視線を落とし、宿場の前に置かれた黒い鳥を見てから、ゆっくりギルへ向き直る。

「若様」

「なんだ」

「静かに、とは」

「迷宮は崩してない」

「今度は魔物を担いで宿場へ戻られました」

「確認のためだ。湯場に出てたやつかどうか分からんだろ」

レティシアは一瞬だけ目を閉じた。

その仕草は、怒っているというより、諦めを整えているように見えた。

ダリアが窓から外を覗き、黒い鳥を見下ろす。

「あれが、山側の反応ですか?」

「そうだ。たぶんな」

「卵の親だったのでしょうか」

「知らん」

ギルは机の上の卵へ視線を向けた。

灰色の殻は、出て行く前と変わらずそこにある。小さな魔力反応も、まだ微かに揺れている。

「それは分からん。見た目は鳥だったから、関係あるかもしれん。ないかもしれん。感知魔法じゃそこまでは分からない」

ダリアは頷いた。

その顔に浮かんだものが納得なのか不安なのか、ギルにははっきり分からなかった。ただ、彼女の視線は卵から外れない。

セバスチャンが窓の外へ顎を向ける。

「で、若様。あれ、どうやって倒したんで?」

「撫でようとしたら暴れた」

「へい」

「押さえようとした」

「へい」

「首が折れた」

セバスチャンは黙った。

レティシアも黙った。

ダリアも黙った。

部屋の中に、外のざわめきだけが入ってくる。

やがて、セバスチャンが深く息を吐いた。

「若様、魔物は愛玩動物じゃねえんでさ」

「懐くかもしれないだろ」

「首を折ったら懐きやせん」

「それは分かってる」

「分かってねえから折れたんでさ」

ギルは少しむっとした。

「俺は優しくした」

「若様の優しいは、魔物にゃ強すぎたんでしょうよ」

反論しようとして、ギルはやめた。

結果として首は折れている。

そこは否定できない。

レティシアが静かに机へ近づき、卵の布を少し整えた。

「では、湯場の件は少し落ち着くかもしれませんね」

「宿の主人は、黒い大鳥だって話と合ってるみたいな反応だった。たぶん大丈夫だろ」

「たぶん、でございますか」

「断定はできん。俺が見たのはあいつだけだ」

レティシアは小さく頷いた。

そこは責めなかった。

感知魔法で拾えるものには限界がある。山に他の魔力反応が絶対にないと言い切るには、範囲も時間も足りない。宿場の者が見た魔物と完全に同じかどうかも、見比べたわけではない。

だが、強めの反応は消えた。

黒い大鳥も倒した。

湯場を塞いでいた騒ぎが、少しは収まる可能性がある。

ギルはそれで十分だと思った。

「これで温泉に入れるな」

言った瞬間、レティシアの視線が冷たくなった。

「若様」

「なんだ」

「その前に、お身体を拭いてくださいませ」

ギルは自分の服を見下ろした。

土埃。

泥。

草の汁。

黒い羽毛。

迷宮から戻った時よりはましだと思ったが、客観的に見れば十分に汚い。

ダリアが布を取りに動く。

セバスチャンは窓を閉め、外のざわめきを少しだけ遠ざけた。

机の上では、卵が静かに燭台の火を返している。

ギルはそれを見ながら、肩についた黒い羽毛を指で摘まんだ。

「……鳥は、もう少し頭が良ければよかったんだがな」

レティシアは返事をしなかった。

代わりに、濡らした布がギルの頬へ押し当てられる。

冷たかった。

「若様も、もう少し慎重であればよろしゅうございました」

「それは鳥と同列か?」

「今夜に限っては」

ダリアが横で口元を押さえた。

笑ったように見えたが、ギルは見なかったことにした。