作品タイトル不明
第六十八話 卵と崩れる言い訳
宿場へ戻る道は、来た時よりも騒がしかった。
夜気は冷えているはずなのに、ギルの背中にはじんわりと汗が滲んでいた。走ったせいではない。迷宮の奥で攻撃魔法を放ち、崩れた迷宮に埋まり、瓦礫を吹き飛ばして脱出した。だが、あれは大した運動ではなかった。
問題は、宿場の方から聞こえてくる人の声だった。
遠くで犬が吠えている。宿場の端に立つ建物の窓には明かりがいくつも灯り、表へ出た者たちが互いに声をかけ合っていた。誰かが「山の方だ」と言い、別の誰かが「崖が崩れたんじゃないか」と返す。荷車の車輪がぎしりと鳴り、馬をなだめる男の声も混じっている。
うむ。
思ったより響いていたらしい。
ギルは道の脇に身を寄せ、建物の影を伝いながら宿へ近づいた。手には、両腕で抱えるほどの大きな卵がある。表面はなめらかで、白というより薄く灰を混ぜたような色をしていた。重さはそれなりにあるが、持てないほどではない。むしろ形のせいで抱えにくい。
服には土埃がついていた。袖口のあたりに細かな砂が入り、外套の裾にも泥が跳ねている。帰る途中で軽く払ったが、明かりの下で見られれば、夜中に散歩してきたと言い張るには少し厳しい。
いや、見つからなければいい。
ギルは宿の裏手に回り、開いたままになっていた細い通路へ滑り込んだ。宿の中はざわついている。廊下の向こうから従業員らしい女の声が聞こえ、その後ろで泊まり客が何かを尋ねている。幸い、こちらの通路に人影はなかった。
足音を殺して階段へ向かう。卵を抱えたままなので、段を一つ上がるたび、腕の中の丸い重みがわずかに揺れた。
「……なかなか立派だな」
小さく呟いた声は、階段の隙間に吸われるように消えた。
土産としては悪くない。たぶん。
問題は、これを見たレティシアが喜ぶかどうかだった。
珍しいものだ。大きい。見た目もそれなりに綺麗だ。少なくとも、何も持たずに戻るよりはよほど良い。
そう考えながら部屋の前まで来た時、扉の隙間から漏れる灯りが目に入った。
消えていない。
ギルは一瞬だけ足を止めた。
部屋の中に、誰かがいる。いや、誰かではない。いるに決まっている。レティシアとダリア、そしてセバスチャンだ。全員が寝ている可能性もあるが、灯りが残っている以上、少なくとも一人は起きている。
ここで堂々と入るべきか。
それとも窓から入るべきか。
少しだけ真剣に悩んでから、ギルは扉に手をかけた。窓から入ったところで、見つかった時の言い訳が余計に面倒になる。ならば最初から普通に入る方がよい。
扉を静かに押し開ける。
室内の空気は、外より少し暖かかった。燭台の火が壁に柔らかな影を落とし、卓の上には茶器が置かれている。椅子にはセバスチャンが腰を下ろし、窓際にはダリアが立っていた。
そして、部屋の中央にレティシアがいた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、こちらを見ていた。
涼やかな顔だった。怒鳴るわけでもなく、眉を吊り上げるわけでもない。だが、その目は冷たい。夜の水を張った刃物のように、薄く光っている。
ギルは卵を抱え直し、口元に笑みを作った。
「えーっと……何やら崖崩れでもあったようだな」
言った瞬間、セバスチャンが深く息を吐いた。
それはため息というより、胸の奥に溜めていたものを諦めて外へ逃がす音だった。椅子の背に体を預け、片手で目元を押さえる仕草には、言葉にする気力すら失ったような重みがある。
ダリアは近づいてきた。彼女は卵ではなく、まずギルの袖を見た。それから肩、外套の裾、靴の側面へと視線を落とす。指先で袖口についた土を払われ、細かな砂が床へ落ちた。
「ギル様、こちらにも」
「ああ、すまん」
ダリアは返事をせず、外套の裾についた泥を丁寧に払った。手つきは落ち着いているが、表情は硬い。怒っているというより、何を言えばよいか選んでいるように見えた。
レティシアはまだ黙っている。
うむ。
怒っているな。
ギルはそう判断した。
だが、まだ手はある。こういう時は、話題を変えるに限る。しかも今回はただの話題ではない。きちんと土産があるのだ。
「おっ、そうだ。土産だ」
ギルは腕の中の卵を少し持ち上げた。
レティシアの視線が、ようやくギルの顔から卵へ移った。ほんのわずかに目が開かれる。表情は崩れないが、驚いたのは分かった。
「……なんですか? これは」
「拾った。デカいだろ」
ギルは少し胸を張った。
この大きさなら、さすがのレティシアも多少は気を逸らすはずだ。珍しいものを見れば、怒りも一度横に置かれる。少なくとも、今すぐ説教へ突入するよりはましになる。
レティシアは卓の方を見た。
「どうするのです?」
「ん?」
どうする。
ギルは卵を見下ろした。
どうする、とはどういう意味だろうか。土産なのだから、渡せばいい。飾るなり、割るなり、焼くなり、煮るなり、受け取った側が好きにすればいいのではないか。
しかし、レティシアの目はそういう目ではなかった。
仕方なく、ギルは考えたふりをした。
「ふむ。食べてみるか?」
部屋の空気が止まった。
ダリアの手が、ギルの外套の裾を払う途中で止まる。セバスチャンは目元を押さえていた手を下ろし、信じられないものを見るように卵を見た。レティシアは、少しだけ唇を引き結んだ。
「若様」
「いや、待て。新鮮なんだぞ」
「見たこともない卵を、いきなり食べるおつもりですか?」
「卵だぞ?」
「卵ですね」
レティシアの声は静かだった。
静かすぎて、むしろ怖い。
ギルは卵を抱えたまま、少しだけ視線を逸らした。窓の外では、まだ人の声がしている。宿場の騒ぎは収まっていないようだ。誰かが走る足音が遠くで鳴り、すぐに別の声にかき消された。
その間に、レティシアの視線が卵の表面へ落ちた。
彼女は一歩近づき、手を伸ばす。指先が殻へ触れた。ほんの一瞬、彼女の目つきが変わる。怒りとは違う、確かめるような鋭さだった。
「……魔力反応がありますね」
ダリアが顔を上げた。
セバスチャンも椅子から身を起こす。
ギルは卵を見下ろした。
「面白いだろう」
レティシアの目が、再び冷たくなる。
失言だったかもしれない。
セバスチャンがゆっくりと立ち上がり、卵へ近づいた。彼は卵の表面をじっと見つめ、片眉を上げる。手を触れる前から、何となく嫌な予感がしているような顔だった。
「こりゃ、生きてるんじゃねえですかね」
「生きている?」
ギルは卵を抱えた腕に少しだけ力を込めた。
言われてみれば、熱はほとんど感じないが、抱えていると妙な重みがあった。ただの食材としての重みではなく、奥で何かが眠っているような気配。
ダリアがレティシアの方へ目を向ける。
「拝見してもよろしいでしょうか」
レティシアは頷き、ギルを見る。
その視線に逆らう理由はなかった。ギルは卵を卓の上にそっと置いた。木の卓がわずかに軋む。ダリアは両手で卵を支え、角度を変えながら表面を観察した。燭台の火が殻に映り、薄灰色の曲面に淡い赤が揺れる。
「見たことがありません」
ダリアの声は低かった。
彼女は卵の形を確かめるように、上から下へ視線を滑らせる。殻には細かな斑点があり、ところどころに薄い筋のような模様が走っていた。森や山で拾う鳥の卵よりははるかに大きく、家畜のものとも違う。美しいというより、妙に存在感があった。
レティシアがセバスチャンへ向き直る。
「セバスチャン様、これは魔物の卵ではないでしょうか?」
「まぁ、稀に卵を産む魔物もおりますからな」
セバスチャンは卵の横に立ち、顎に手をやった。
その返事で、三人の視線がギルに集まった。
ギルは少しだけ肩を竦めた。
「巣みたいなのはあったが、親らしきのはいなかったぞ」
「巣、ですか」
レティシアの声がさらに冷えた。
しまった。
ギルはそう思ったが、言ってしまったものは仕方ない。卵は巣のような場所にあった。親はいなかった。それは事実だ。嘘は言っていない。
ダリアは卵から目を離さず、セバスチャンへ尋ねた。
「セバスチャン様、卵を産む魔物とは、どのような魔物でしょうか?」
「たいていは鳥や爬虫類に似た魔物ですなぁ」
セバスチャンは腰を屈め、卵の先端に近い部分を覗き込んだ。手を触れ、指先で殻の曲線を確かめる。押したり叩いたりはしない。無造作なようで、扱いは慎重だった。
「この形なら、鳥系の魔物のように見えやすね」
「鳥か」
ギルは少し明るい声を出した。
鳥ならよい。肉も食える。卵も食える。そう考えれば、未知の危険物というより、大きな食材だ。
「なんだ。それなら食べても問題ないだろう。宿の者に調理してもらうか?」
セバスチャンが口を開きかけ、閉じた。
ダリアは卵を支えたまま、ギルを見た。
レティシアはゆっくりと息を吸った。
「若様」
「はい」
「ここにお座りください」
声は、ひどく丁寧だった。
だからこそ逆らえなかった。
ギルは卵から一歩離れ、示された椅子に腰を下ろした。背筋が自然に伸びる。内心では、あれ、おかしいな、喜ぶ予定だったのだが、と首を傾げていたが、口にも表情にも出さなかった。出せばたぶん、レティシアの視線は余計に冷える。
レティシアは正面に立った。
ダリアは卵の横へ残り、セバスチャンは少し斜め後ろへ退く。逃げ道を塞がれたような配置だった。
「若様。騒ぎは起こさないとの約束でしたね」
「いや、大した騒ぎではないし、俺との関係はばれていないぞ。たぶん」
「何をしました。正直におっしゃってください」
正直に。
ギルは視線を上へ逃がした。天井の梁が見える。宿場の部屋としては悪くない造りだが、今は逃げ場にはならない。窓の外から聞こえるざわめきも、こちらに味方してはくれなかった。
言わなければならないか。
言わない方がよい気もする。
しかし、卵を見られている。服の汚れも見られている。宿場の騒ぎも起きている。ここで下手に隠せば、あとでさらに面倒になる。
ギルは軽く息を吐いた。
「んー、迷宮を見つけたが、大した迷宮ではなかったから潰した」
セバスチャンの顎が、落ちそうになった。
完全には落ちなかったが、口が開いたまま固まった。普段なら軽口の一つでも飛んできそうな場面なのに、言葉が出てこないらしい。ダリアも卵から手を離さないまま、目だけをギルへ向けている。レティシアは、瞬きを一度だけした。
「迷宮を……潰した?」
セバスチャンの声は、少し掠れていた。
「ああ。中で攻撃魔法を何度か放ったら、いきなり潰れた。根性のない迷宮だ」
ギルは少し憤慨していた。
本当に、あの迷宮は根性がなかった。最初はそれなりに広がりもあり、奥のような場所まであった。だからもう少し耐えると思ったのだ。こちらとしても、宿場の近くで大きな騒ぎを起こしたかったわけではない。むしろ控えめに済ませるつもりだった。
だというのに、思ったより早く崩れた。
結果として宿場まで音が響いた。
これは迷宮側にも問題がある。
そう言いたかったが、レティシアの目を見て飲み込んだ。
「セバスチャン様」
レティシアはギルから目を逸らさずに尋ねた。
「迷宮とは、潰れる物なのでしょうか?」
セバスチャンはしばらく黙っていた。
彼の目は卵ではなく、ギルに向いている。そこには呆れもあり、驚きもあり、少しだけ遠いものを見るような疲れも混じっていた。ギルの力を知らないわけではない。だが、それでも目の前の言葉は、すぐには飲み込めないのだろう。
「さて、一度も聞いた事はありませんな」
ようやく出た声は、いつもより低かった。
ギルは首を傾げる。
「そうなのか?」
「若様がやったんでしょうが」
「やったが」
「やったが、じゃねえんですよ」
セバスチャンは額を押さえた。
その横で、ダリアが小さく口を開いた。
「あの」
全員の視線が彼女へ向いた。
ダリアは卵へ目を落としたまま、少し言いにくそうに続けた。
「この卵、生きているんですよね」
「新鮮だろ」
ギルは少し自慢げに言った。
ダリアはギルの言葉を聞かなかったことにしたようだった。顔を上げ、まっすぐこちらを見る。
「いえ、そうではなく、卵が生きているのなら、親も生きているのではないでしょうか?」
沈黙が落ちた。
セバスチャンが黙る。
レティシアも黙る。
ダリアも、それ以上は言わない。
ギルは椅子に座ったまま、卵を見た。
卵は卓の上で静かにしている。殻に映る火が、ゆらゆらと揺れていた。丸い。大きい。持って帰る時も暴れなかった。鳴きもしなかった。まぁ、卵だから当たり前だけど。そして、親もいなかった。
だが、生きている。
生きている卵なら、たしかに産んだものがいる。
「まぁ、そう考えられなくもないな」
ギルは落ち着いた声で言った。
表面上は、かなり落ち着いていたと思う。
ダリアはさらに言葉を重ねた。
「ギル様の魔力はとても強いので、親は逃げたのでは?」
「まぁ、そう考えられなくもないな」
同じように答えながら、ギルの背中に汗が伝った。
なるほど。
親がいた。俺が近づいた。俺の魔力を感じて逃げた。そこまではいい。いや、良くはないかもしれないが、まだ分かる。
問題は、逃げた親が卵を諦めるかどうかだ。
ギルは卵を見る。殻は静かだ。何も言わない。だが、もしこれが鳥系の魔物の卵で、しかも親が生きているなら、あの巣へ戻って卵がないと気づく可能性がある。
レティシアの声が、静かに落ちた。
「つまり、親が卵を取り返しに来ると?」
ダリアは少しだけ眉を寄せた。
「どうでしょうか。逃げたのであれば、逃げたままなのでしょうか?」
セバスチャンが卵の方を見たまま言う。
「逃げたとしても、卵を奪われるとは思わなかったんじゃねえですかね?」
また沈黙が落ちた。
レティシアは何も言わない。
ダリアも何も言わない。
セバスチャンも口を閉じた。
ギルは椅子の上で腕を組んだ。
「ふむ」
表情は崩さない。
ここで慌てると、余計に怒られる。慌てる必要はない。仮に親が来たとしても、倒せばいい。宿場に被害を出さなければ問題はない。いや、宿場に来る時点で少し問題かもしれないが、まだ来ると決まったわけではない。
ギルはゆっくりと息を吸った。
部屋の空気を肌で感じる。燭台の火の揺れ。窓の隙間から入る夜風。廊下を歩く足音。宿場のざわめき。その外側に広がる暗い地面と、山の方へ伸びる空気。
感知を拡げる。
強く拡げすぎと、余計なものまで拾う。
その奥へ、意識を沈めた。
山側。
迷宮があった方。
崩れた土と石の向こう。
そこから離れたところに、重いものがあった。
魔力の反応は、人のものとは違う。まっすぐ整っているわけではなく、濁った水の奥で大きな影が動くように、鈍く厚い。遠い。だが、止まってはいない。こちらへ向かうかどうかまでは、まだ断じにくい。ただ、迷宮のあった場所とは違っている。
ギルは目を開けた。
「ふむ。ちょっと強めの反応があるな」
レティシアが静かに言った。
「若様」
ダリアも続いた。
「ギル様」
セバスチャンは、椅子の背に手を置いたまま、深々と息を吐いた。
「もう若様っていうより、バカ様ですなぁ」
ギルは反論しようとして、卵を見た。
卓の上の卵は、何も知らないように黙っている。燭台の火だけが殻の上を滑り、部屋の中にいる四人の影を小さく揺らしていた。