作品タイトル不明
第六十二話 温泉に行こう
翌朝、目が覚めた時、部屋の中には柔らかい朝の光が差し込んでいた。
窓に掛けた布の隙間から細く伸びた光が、寝台の端を淡く照らしている。石壁には夜の冷えがまだ少し残っているが、寝具の内側は十分に温かい。遠くで使用人の足音がした。城はもう動き始めているらしい。
隣では、ダリアが眠っていた。
灰色の髪が枕の上へ乱れ、褐色の頬が寝具に少し埋もれている。普段のダリアは、どこか身構えている。声は落ち着いているし、動きも静かだが、すぐに立てるような隙のなさがある。
だが、今朝は違った。
完全に力が抜けている。
呼吸は穏やかで、苦しそうではない。むしろ、深く満たされて、そのまま身体ごと寝具へ沈んでいるように見えた。細い肩が少しだけ上下し、指先は寝具の上で緩く丸まっている。
ギルはしばらくそれを眺めてから、そっと手を伸ばした。
指先で、ダリアの髪を撫でる。
灰色の髪は、レティシアの髪とは感触が少し違う。寝乱れているせいか、普段より柔らかく指に絡んだ。ダリアは小さく身じろぎしたが、目を覚ますほどではなかった。
うむ。
これはかなり良い朝だ。
ギルは満足しながら、昨日聞いた言葉を思い出していた。
温泉。
地面から湯が湧く場所。
この世界にもそういうものがあるらしい。いや、考えてみればあって当然だ。前世にもあったのだから、こちらの世界にあってもおかしくはない。細かい理屈は知らないが、湯が湧いて、そこへ浸かれるなら、それはもう温泉である。
ただ、問題もある。
レティシアも、ダリアも、セバスチャンも、みんな揃って面倒そうな顔をしていた。領外だの、複雑だの、気軽に行ける場所ではないだの、妙に歯切れが悪い。
完全に勝手に行くと、少し問題になりそうだ。
それくらいは分かる。
俺も子どもではない。
いや、年齢的には子どもに近いかもしれないが、精神的には大人だ。少なくとも前世込みなら大人だ。領外へふらっと出ることが、まったく問題ないとは思っていない。
だが、温泉には行きたい。
かなり行きたい。
ギルはダリアの髪を撫でながら、城内の風呂を思い浮かべた。
マバール城にも風呂はある。
風呂は男湯と女湯に分かれている。さらに貴族用は清潔さも保たれているし、湯の量も悪くない。俺の立場なら不自由なく使える。命じれば、レティシアもダリアも一緒に入ってくれるかもしれない。
たぶん。
いや、入ってくれるだろう。
もちろん、レティシアは少し困った顔をするかもしれない。ダリアも何とも言えない顔をするかもしれない。だが、命じれば拒まれはしないと思う。
しかし、それは違う。
ギルは真剣に考えた。
城の風呂に入るのと、温泉へ行くのは違う。
広い湯。
湯気。
少し遠出をする感じ。
普段と違う場所で、のんびり湯に浸かる時間。
そこに意味があるのだ。
城内の風呂で無理にそれっぽいことをしても、風情がない。風情は大事だ。たぶん大事だ。前世でも、家の風呂と温泉旅館では違ったはずだ。少なくとも俺はそう思う。
やはり温泉は必要だな。
ギルは小さく頷いた。
ダリアの髪をもう一度撫でると、彼女が眠ったまま、ほんの少し眉を緩めたように見えた。起きている時なら、そんな顔はなかなか見せない。
連れて行ったら、ダリアも気に入るかもしれない。
レティシアも、たぶん。
問題は、どうやって行くかだ。
勝手に行く。
これは少し危険だろう。
ギルは寝台の上で少し考え、それから、なるほど、と自分で納得した。
父上から許可を取ればいい。
そうすれば勝手ではない。
許可があれば、レティシアもセバスチャンもそこまで強く止められないはずだ。もちろん、温泉へ行きます、と正面から言えば面倒な顔をされる気がする。だが、別に嘘をつく必要はない。
城外を見て見聞を広げたいと言えばどうだろう。
貴族の三男坊として、かなり真面目な理由だ。
ギルはゆっくり寝台から出た。
ダリアは起きない。
寝具が少しずれたので、肩が冷えないように掛け直してやる。普段ならレティシアがすぐに整えるが、今朝は自分でやってもいいだろう。
寝室を出ると、レティシアがすでに控えていた。
いつも通り、髪も服も整っている。朝の光を受けた姿は凛としていて、何も乱れていないように見える。
さすがレティシアだ。
「おはようございます、若様」
「ああ、おはよう」
「ダリアはまだお休みでしょうか」
「ぐっすりだ」
「そうでございますか」
レティシアはほんの少しだけ目を伏せた。
その顔に、何か言いたげな気配があった。たぶん、昨夜のことを考えているのだろう。いや、考えなくても分かるのかもしれない。俺と過ごした翌朝、レティシアも似たようなことになっているのだから。
ギルは少し誇らしい気分になった。
だが、口には出さなかった。
朝の支度はすぐに整った。
レティシアの手つきはいつも通り無駄がない。襟を直し、袖口を確かめ、上着の皺を指で払う。ギルはその間、温泉のことを考えないようにしようとしたが、やはり考えてしまった。
温泉。
湯気。
レティシア。
ダリア。
うむ。
「若様」
「何だ」
「とても楽しそうなお顔をなさっています」
「そうか?」
「はい」
「朝だからな」
「朝だから、でございますか」
「そうだ」
レティシアは静かにこちらを見た。
疑っている。
かなり疑っている。
だが、まだ何も言っていないので問題ない。
ギルは何食わぬ顔で、自室を出た。
食堂へ向かう廊下は、朝の気配に包まれていた。窓から差す光はまだ柔らかく、石床には使用人たちの足音が小さく響いている。壁際に控える者たちは頭を下げ、ギルが通り過ぎるまで静かに待つ。
食堂に入ると、父上がいた。
ガルシア・マバール。
朝からいつも通りの顔で席についている。目は鋭く、姿勢に隙はない。辺境伯というのは、朝からこんな顔をしていなければならないのだろうか。俺には少し無理かもしれない。
レティシアは給仕と補佐の位置へ自然に下がった。
軽くあいさつして席につき、食事が始まる。
パン、肉、温かい汁物、果物。朝食は整っているが、無駄に華美ではない。父上は静かに食べ、必要な時だけ短く指示を出す。ギルもそれに合わせながら、どこで切り出すかを測った。
そろそろだな。
ギルは少し背筋を伸ばした。
「父上、少しご相談が」
父上の手が止まった。
ほんのわずかだ。
だが、目がこちらへ向いた。
「ん、なんだ?」
声は普通だった。
だが、少し警戒された気がする。
レティシアも後ろで、わずかに気配を変えた。
まあ、警戒するのも分かる。
最近の俺は、父上に相談するとろくでもないことになることが多い。俺としては必要な相談をしているだけなのだが、父上から見ればほんの少し面倒な息子なのかもしれない。
だが今回は違う。
温泉だ。
いや、温泉とは言わないけど。
「今は特にやる事もありませんし、城外を少し見回って見聞を広めようかと考えています」
父上はすぐには答えなかった。
手元の杯を置き、俺を見る。
その視線は、言葉の裏を探るようだった。やはり簡単には通らないか。だが、今の言い方に嘘はない。見聞を広めるのは本当だ。温泉も立派な見聞の一つである。
「ふむ」
父上は短く息を吐いた。
「城外か」
「はい。もちろん国境を越えるなどは致しませんが」
ここは大事だ。
国境は越えない。
温泉が領外とはいえ、国境を越えるわけではない。王国の外へ出るわけではない。帝国へ行くわけでもない。つまり、かなり安全である。
たぶん。
父上は少し考えていた。
食堂の空気が静かになる。使用人たちは動きを止めないが、音は抑えられている。レティシアの視線が背後から刺さっている気がした。
父上はやがて、短く言った。
「あまり騒ぎは起こすな」
来た。
これは許可だ。
少なくとも、俺の中では許可だ。
ギルは爽やかに頷いた。
「もちろんです」
父上は何も言わなかった。
これで止められないなら、許可である。
うむ。
完璧だ。
レティシアの気配は、まったく緩んでいなかった。
朝食が終わると、ギルは機嫌良く自室へ戻った。
廊下を歩く足取りは軽い。レティシアは少し後ろについてくる。口数は少ない。たぶん、さっきの相談の中身を考えているのだろう。
自室へ戻り、居間へ入る。
その奥には寝室がある。扉は閉まっているが、ダリアはまだそちらで休んでいるはずだ。朝の様子を見る限り、すぐに起きて働ける状態ではない。俺も真の漢に着々と近づいているな。
ギルは居間に入るなり、振り返った。
「よし、レティシア、準備しろ」
レティシアの目が細くなった。
「なんの準備でしょうか」
声は静かだ。
だが、完全に警戒している。
ギルは胸を張った。
「温泉へ行くぞ」
沈黙。
部屋の空気が一瞬止まった。
レティシアは、すぐに言った。
「いけません。温泉は領外です」
「何を言っている? 父上は許してくれたぞ」
「許されてはいません」
即答だった。
ギルは少し眉を上げる。
「温泉なら国境は越えないし、騒ぎも起こさない。父上もあまり騒ぎを起こすなとおっしゃった。ほら、許されているぞ」
「それは許可ではございません」
「そうか?」
「そうでございます」
「だが止められていない」
「若様が勝手に解釈なさっているだけでございます」
なかなか厳しい。
だが、ここで引くわけにはいかない。
温泉が遠ざかる。
「お館様に確認致します」
レティシアが一歩動こうとした。
ギルはすぐに手を上げる。
「父上はお忙しいから迷惑だろう」
「必要な確認でございます」
「今朝相談したばかりだぞ。何度も同じことで手を煩わせるのは良くない」
「同じことではございません」
「城外を見て回る話だ。温泉は城外にある」
「若様」
レティシアの声が低くなった。
普段ならここで少し考える。
だが、今日のギルはすでに温泉へ気持ちが向いていた。
「それに、国境は越えない」
「領外です」
「王国の外ではない」
「若様」
「騒ぎも起こさない」
「そのお言葉をそのまま信じきれないから申し上げております」
「ひどいな」
「日頃の積み重ねでございます」
ギルは少し黙った。
強い。
さすがレティシアだ。
だが、こちらにも理屈はある。父上は止めなかった。国境は越えない。騒ぎは起こさない。ならば問題はないはずだ。少なくとも、大問題ではない。
レティシアは奥の寝室側へ視線を向けた。
「それに、ダリアがまだ回復していません」
「ん」
ギルはそこで止まった。
それは確かにそうだ。
今朝のダリアは、かなりぐったりしていた。幸せそうではあったが、すぐに馬へ乗れるかと言われれば微妙だ。いや、無理をさせれば乗れるかもしれないが、それはよくない。
ダリアは大事な女だ。
無理はさせたくない。
「そうだな」
ギルは頷いた。
レティシアが少しだけ安堵したように見えた。
だが、ギルはすぐに次の答えを出した。
「よし、夕方から出発しよう」
「そういう問題ではありません」
「夕方ならいつもは回復しているだろう」
「若様」
「無理そうなら馬車も考える」
「だから、そういう問題ではございません」
レティシアは額を押さえたいのを堪えているような顔をした。
ギルは居間の中を歩きながら、移動を考え始めた。
夕方に出る。
近くの宿か、途中の村で泊まる。
翌日には着くか。
いや、距離が分からない。
そういえば、レティシアはあの辺りは複雑だと言っていただけだな。なら、詳細に知っているとは限らない。
「レティシア、場所は分かるか?」
「わたくしは、だいたいの場所しか知りません」
「そうか」
ギルは頷いた。
では、詳しい者を連れて行けばいい。
答えは簡単だった。
「なら、セバスチャンも連れて行こう。あいつなら知っているだろう」
「くっ……」
レティシアが珍しく言葉に詰まった。
勝った。
いや、勝負ではない。
温泉計画を円滑に進めているだけだ。
セバスチャンなら場所を知っている可能性が高い。知らなくても調べるだろう。筆頭騎士として、領外へ行くなら同行させるのも自然だ。護衛としても問題ない。
うむ。
完璧だ。
「そうだなぁ。夕方に出発して、どこかで適当に泊まって、明日には着くかな?」
「分かりません」
「そうか。なら、セバスチャンに温泉へ行くことを伝えるついでに聞いてこよう」
「若様」
「うん、そうすればセバスチャンも準備が出来るな」
ギルは満足した。
俺って優しいなぁ。
急に連れて行くわけではない。夕方まで準備時間を与えている。行き先についても後で話す。ちゃんと配慮している。
これはなかなか良い主君なのではないか。
「では、準備を頼むぞ」
ギルはそう言って、居間を出ようとした。
レティシアが慌てて一歩踏み出す。
「あ、あの若様!」
だが、ギルはすでに扉の外へ出ていた。
廊下の空気は少し冷たい。
だが、気分は軽い。
温泉。
旅行。
レティシアとダリア。
セバスチャンは……まあ、護衛だ。
ギルは足取り軽く廊下を進んだ。
セバスチャンは訓練場近くにいた。
ちょうど木剣を肩に担ぎ、誰かへ何か言っていたところらしい。遠くでオルドの声が聞こえ、ジノが槍を持って立っているのも見えた。だが、今日はお前たちに用はない。若い男だからな。
「セバスチャン」
「へい、若様」
セバスチャンがこちらを向いた。
その目が、すぐに細くなる。
まだ何も言っていないのに、もう嫌な予感を覚えた顔をしていた。
失礼な。
「少し旅に出るぞ」
「どこへですかい?」
早い。
さすがだ。
だが、ここで言うのは少しもったいない。
ギルはにやりと笑った。
「それは後のお楽しみだ」
セバスチャンの顔がさらに嫌そうになった。
「若様」
「夕方には出発する。準備しとけ」
「いや、どこへ行くか聞いてから準備したいんですがね」
「旅の準備だ」
「だから、どこへ」
「後で分かる」
ギルはそれだけ言い残し、スタスタと歩き出した。
後ろからセバスチャンの視線が刺さる。
だが、止まらない。
ここで捕まると面倒なことになる。セバスチャンは鋭い。温泉と言った瞬間、また領外だ何だと渋い顔をするに決まっている。だから先に、夕方出発だけ伝えておく。
準備は大事だ。
俺は配慮している。良い上司は報連相を大事にする。
廊下を曲がる直前、セバスチャンの低い声が聞こえた気がした。
「……絶対ろくでもねえ」
ギルは聞こえなかったことにした。
自室へ戻る道を歩きながら、口元が緩む。
父上には話した。
レティシアには準備を頼んだ。
セバスチャンにも伝えた。
ダリアは夕方まで休めばいい。
うん。
これで問題無し。
いやぁ、楽しみだなぁ。