作品タイトル不明
第六十三話 温泉へ向かう道
夕方の空は、まだ少し明るかった。
西へ傾いた日が城壁の上を赤く染め、石造りの門の影を長く伸ばしている。昼の熱は落ち始めていたが、馬の背に跨ると、鞍の革にはまだわずかな温もりが残っていた。城門の周囲では兵たちが出入りの確認をしている。荷車を引く者、交代で戻る兵、外へ出る使いの者たちが、それぞれ決められた動きで門を通っていた。
その中で、俺はかなり機嫌が良かった。
温泉へ行く。
昨日知ったばかりの温泉へ、今から向かう。
城を出る理由は、見聞を広めるためである。父上にも相談した。国境は越えない。騒ぎも起こさない予定だ。つまり問題はない。少なくとも、俺の中にはない。
馬の首筋を軽く撫でると、馬が小さく鼻を鳴らした。
後ろにはレティシアがいる。
騎士家の娘だけあって、馬の上でも姿勢が崩れない。普段は俺の服を整えたり茶を淹れたりしている姿ばかり目にするが、こうして外へ出る支度を整えて馬に乗っていると、改めて騎士家の血を感じる。長い髪は邪魔にならないようまとめられ、服も移動に合わせていつもより動きやすいものになっていた。
やはり美しい。
少し見上げる角度になるのが、なんとも悔しいが、それは今後の成長でどうにかなるはずだ。たぶん。父上も兄上たちも体格はいいので期待してもいいだろう。
ダリアも馬に乗っていた。
朝はまだ寝台で完全に力が抜けていたが、夕方には動けるくらいには戻っていたらしい。ただ、いつもより少しだけ動きが緩い。背筋は伸びているが、ふとした瞬間に肩から力が抜ける。無理をしているほどではないが、完全に普段通りとも言い切れない。
それでも、彼女は何も言わずについてきている。
灰色の髪が夕方の光を受けて、少し淡く見えた。褐色の肌には、城内より外の空気の方が似合う気がする。帝国でも馬に乗っていたし、馬には慣れているのだろう。
そして、セバスチャン。
相変わらず、あのクソじじいは馬上でも悪そうな顔をしている。六十ほどの老騎士とは思えないほど背筋は強く、手綱の扱いにも無駄がない。夕方出発だと伝えておいたからか、準備はきちんと整っていた。そこはさすが経験豊富な騎士である。
まあ、顔はかなり疑っていたが。
城門を抜ける時、兵が深く頭を下げた。
「若様、お気をつけて」
「ああ」
ギルは軽く頷いた。
門の外へ出ると、空気が少し変わる。
城の中の石と人の気配が薄れ、代わりに土と草の匂いが強くなる。城壁を背にして進むと、馬の蹄が乾いた道を叩き、夕方の風が頬を撫でた。遠くには畑が広がり、その先に低い林が見える。平民たちは作業を終える頃なのか、畑の端で荷をまとめている姿があった。
実に旅立ちっぽい。
温泉へ向かうには、ふさわしい夕方だ。
しばらくは黙って進んだ。
城から離れすぎないうちは、余計な話をしない方がいい。誰が聞いているか分からない。温泉へ行くこと自体が悪いわけではないが、領外という言葉にレティシアやセバスチャンが反応していた以上、大声で話す必要もない。
だが、少し進んだところで、セバスチャンが馬を寄せてきた。
「若様」
「何だ」
「どこに行くんですかい?」
ギルは少しだけ目を細めた。
そういえば、セバスチャンにはまだ言っていなかった気もする。
その瞬間、後ろからレティシアの声がした。
「若様、セバスチャン様に行き先を教えていないのですか?」
その声には、呆れがかなり混じっていた。
さらにダリアまで、少し遠慮がちに口を挟む。
「あの、私もまだちゃんとは聞いていないんですけど」
「ん?」
ギルは振り返った。
レティシアと目が合う。
「レティシア、言わなかったのか?」
レティシアは一瞬だけ視線を逸らした。
「準備に忙しくて、つい」
「そうか」
なら仕方ない。
準備は大事だ。夕方出発で支度するのは大変だっただろう。レティシアはよくやってくれた。行き先を伝え忘れたくらい、些細なことである。
ギルは城壁が遠ざかったのを確認し、胸を張った。
「温泉に行くぞ。嬉しいだろ」
馬の足音だけが、しばらく続いた。
セバスチャンが黙っている。
レティシアも黙っている。
ダリアも黙っている。
なぜだ。
もっとこう、喜びの声とか、期待に満ちた反応とか、そういうものがあってもいいのではないか。
やがて、セバスチャンが深く息を吐いた。
「……はぁ」
「何だ、そのため息は」
「いえ、まあ、予想通りと言やあ予想通りなんですがね」
ダリアも小さく息を吐いた。
「薄々は、そうではないかと思っていました」
「なら驚かなくていいだろう」
「驚きはしていません」
「では何だ」
「少し疲れただけです」
失礼な。
まだ出発したばかりだぞ。
セバスチャンが手綱を緩め、横目でこちらを見る。
「若様、お館様のお許しは?」
「大丈夫だ。ちゃんと許しをもらっている」
ギルは自信満々に答えた。
父上は言った。
あまり騒ぎは起こすな、と。
つまり、騒ぎを起こさなければどこへ行ってよいということだ。止められていない。止められていないなら許可である。全く問題無い。
だが、セバスチャンはまったく信用していない顔をしていた。
「本当ですかい?」
そう言いながら、あいつはレティシアを見る。
ダリアまでレティシアを見る。
なぜ俺ではなくレティシアを見るのか。
主君は俺だぞ。
レティシアは少しだけ困ったように目を伏せた。
「まあ、一応は、城外で見聞を広めることは許されていました」
「ほらな」
ギルは得意げに頷いた。
しかし、セバスチャンはまだ終わらなかった。
「領外の温泉に行くことは?」
「さて、どうだったかな?」
ギルは空を見た。
夕方の空は赤い。
良い色だ。
実に旅情がある。
「ギル様」
「何だ」
「言ってませんね」
ダリアが静かに言った。
その声は強く責めるものではないが、かなり確信があった。
「大丈夫なんですか、ギル様」
「大丈夫だ。父上は騒ぎを起こさなければ自由にしろと言っていた」
「言ってませんよ」
レティシアが即座に否定した。
「では、国境を越えなければ自由にしろだったか?」
「違います」
「細かいな」
「細かくございません」
レティシアの声が少し硬くなった。
ダリアも控えめに頷く。
「細かくはないと思います」
セバスチャンは馬上で肩を落とした。
「なんだか、あっしが怒られそうですな」
「そうか。助かる」
「助かる、じゃありませんぜ」
「俺は父上から許しを得た。そこは間違いない」
「かなり怪しい許しでさぁ」
「気にするな」
「気にしますって」
ギルは笑って流した。
細かいことを気にしていると、温泉に行けなくなる。せっかく城を出たのだ。今から戻るなど、そんな悲しいことはあってはならない。
それに、俺は騒ぎを起こすつもりはない。
温泉へ行って、湯に浸かって、のんびりして、レティシアとダリアと楽しく過ごすだけだ。何が問題なのか。領外というだけで、別に敵地へ行くわけではない。国境も越えない。
たぶん。
ギルは気分よく馬を進めた。
夕方の道は、城下から離れるにつれて静かになる。畑の端に立っていた平民がこちらに気づき、慌てて頭を下げた。荷車を引く男が道の端へ寄る。こちらが貴族の一行だと分かったのだろう。セバスチャンの顔が怖いせいもあるかもしれない。
風が気持ちいい。
温泉。
湯気。
湯に浸かるレティシア。
身体を洗うダリア。
うむ。
実に良い。
自然と先頭へ出ていた。
後ろで何か小声がした気がするが、今は前の道を見る。道は緩やかに分かれていた。片方は少し広い。もう片方は林の方へ向かっている。どちらもそれなりに踏まれているが、どちらが温泉へ向かう道なのかは分からない。
どっちだ?これ。
ギルは馬を止めた。
振り返る。
「セバス、どっちに向かえばいいんだ!」
後ろの三人がこちらを見た。
セバスチャンが目を細める。
「若様、道も分からず先頭になってたんですかい」
「当たり前だ。俺は昨日、温泉があることを知ったばかりだぞ。道など知らん」
ギルは胸を張った。
セバスチャンが馬上で深く息を吐く。
「胸張って言うことじゃありませんぜ……」
「だからお前を連れてきたんだろう」
「そういうことは、出発前に言ってほしかったんですがね」
「夕方出発とは伝えた」
「行き先を言わなきゃ意味が薄いでしょうが」
「細かいな」
「細かくありませんぜ」
セバスチャンはそう言いながらも、馬を進めて俺の近くへ来た。さすがである。文句を言いながらも、ちゃんと役に立つ。筆頭騎士とはこうでなくてはならない。
後ろで、レティシアたちが少し遅れている。
レティシアはダリアと並ぶように馬を進めていた。二人の声は小さいが、風向きのせいか、ところどころ聞こえてくる。
「レティシア様、止めなくてよろしいのでしょうか?」
ダリアの声だった。
「止められません」
レティシアは前を見たまま答える。
「止めれば、一人で行きかねません」
「……否定できません」
「若様は、興味を持つと本当に動いてしまいますので」
そこまで言うか。
俺は聞こえないふりをした。
セバスチャンは横でにやにやしている。
腹立たしい。
「騒ぎを起こさなければ大丈夫だと期待しているのですが……」
レティシアの声が少し小さくなった。
それに対して、ダリアが間を置かずに言う。
「無理だと思います」
「無理ですな」
セバスチャンまで即座に乗った。
「おい、聞こえてるぞ」
「聞こえるように言いやした」
「性格が悪いな」
「若様ほどじゃありませんぜ」
「俺は性格が良いと評判だ」
「ご冗談を」
まったく、失礼な連中である。
だが、全員ついてきている。
レティシアも、ダリアも、セバスチャンも、文句を言いながら馬を進めている。止めようと思えば、もっと強く止められたはずだ。父上に確認へ戻ることもできた。門を出る前に騒ぐこともできた。
それをしなかった。
つまり、少しは温泉に期待しているのだ。
たぶん。
ギルは満足した。
セバスチャンは分かれ道の前で周囲を見た。道の轍、草の倒れ方、遠くに見える林の位置、夕方の光で黒く沈んでいく丘。その辺りを軽く確かめてから、左手側の少し狭い道を顎で示す。
「こっちですな」
「分かるのか」
「だいたいは。あの温泉の方へ向かうなら、先に宿場道へ出た方が早いでしょう」
「さすがだな」
「もっと早く言ってくれりゃあ、もう少しまともに段取りしましたがね」
「今からでも十分だろう」
「そういうところですぜ、若様」
セバスチャンは呆れたように言いながら、先頭へ出た。
ギルはその隣につける。
少し後ろで、レティシアとダリアが並んでいた。
夕方の光が二人の横顔を照らしている。レティシアはいつも通り整っているが、目元に少し諦めがある。ダリアはまだ少し身体の力が抜けているように見えるが、馬の上ではきちんと姿勢を保っていた。
風が吹く。
草が揺れる。
遠くで鳥が鳴いた。
レティシアが、小さく言った。
「ほんの少し、ほんの少しだけですが、若様と温泉へ行くことは楽しみではあります」
その声は本当に小さかった。
だが、ギルには聞こえた。
聞こえたが、振り返らない。
ここで振り返ると、レティシアはきっと口を閉ざす。だから聞こえなかったふりをするのが正解だ。
ダリアも静かに頷いたようだった。
「はい、ほんの少しだけ楽しみです」
ギルは前を向いたまま、口元が緩むのを止められなかった。
そうだろう。
温泉は楽しみだろう。
俺と行くのだから、なおさらだ。
セバスチャンが横からこちらを見る。
「若様、何にやけてるんですかい」
「にやけてない」
「にやけてやしたぜ」
「気のせいだ」
「へいへい」
夕暮れの道を、馬が進む。
城はもう背後で小さくなっていた。
前には、まだ見ぬ温泉への道が伸びている。
領外。
面倒。
複雑。
そんな言葉が少しだけ頭をよぎったが、すぐに湯気の想像に押し流された。
温泉。
湯気。
レティシアとダリア。
うむ。
やはり来てよかった。
ギルは上機嫌のまま、セバスチャンの示す道を進んだ。