作品タイトル不明
第六十一話 お気楽生活と温泉の噂
ここしばらく、俺はかなり平和に暮らしていた。
朝から訓練場へ行く日もある。
そういう日は、セバスチャンに木剣で軽く転がされる。オルドは相変わらず踏み込みが荒く、ジノは反対に慎重すぎるくらい距離を測る。クレインとトールも騎士なので普通に身体は動かすが、あの二人は打ち込みの最中でもどこか頭が回っている感じがした。
まあ、それぞれ違っていて悪くない。
セバスチャンだけは相変わらずだ。朝から人の隙を見つけては嫌な笑い方をするし、少しでも動きが鈍るとすぐに口を出す。
「若様、今のは足が死んでやしたぜ」
「死んでない」
「死にかけてやした」
「お前は人の足を勝手に殺すな」
「戦場じゃ足が死んだら本当に死にますからな」
そういうことを平然と言う。
腹は立つが、間違ってはいないのでさらに腹が立つ。
別の日には、生産拠点へ行く。
糸の具合を見たり、炭の焼き具合を確かめたり、職人たちが変な方向へ走っていないか覗きに行ったりする。俺が少し何かを言うと、数日後には妙な試作品が増えていることもあるので、最近は余計なことを言いすぎないようにしていた。
まあ、言う時は言うのだが。
城にいる日は書類を眺める。
父上や文官が絡むと少し面倒だが、帝国で山賊もどきをしていた頃や、迷宮の森で魔物を探していた頃に比べれば、椅子へ座って茶を飲めるだけでかなり楽だった。
そして夜は、レティシアかダリアがそばにいる。
うむ。
これはかなり良いのではないか。
ギルは窓際に立ち、朝の光に照らされた中庭を見下ろしながら、満足げに頷いた。
なかなかお気楽生活出来てるな、俺。
もちろん、完全に何もしないわけではない。父上に呼ばれれば行くし、セバスチャンに引きずられれば訓練もする。生産拠点も放っておけば妙なものを増やしかねないので、時々は見に行く必要がある。
だが、それでも今は平和だった。
急に帝国へ行くこともない。
迷宮の奥へ進むこともない。
朝起きて、今日は何をしようかと考えられる。
素晴らしい。
貴族の三男坊として、かなり理想的な生活なのではないか。
ギルはそう思い、背後を振り返った。
寝台では、レティシアが眠っていた。
いつものレティシアなら、とっくに起きている時間だ。俺の服を整え、茶を淹れ、書類を分け、今日必要なものを静かに揃えている。
だが今朝はまだ寝具の中にいる。
長い髪が枕へ流れ、白い頬が少し赤い。
息は穏やかだ。
苦しそうではない。むしろ、身体から力が抜けきっているように見える。普段は背筋をぴんと伸ばし、隙のない所作で俺の側に立つ女が、寝台の中で柔らかく沈んでいた。
昨夜は、かなり良かった。
いや、かなり頑張った。
ギルは腕を組み、しみじみと頷く。
最近の俺は成長している。
ダリアと過ごした夜に、俺は力だけでは駄目だと悟った。知識だけでも足りない。相手を見て、どうすればもっと気持ち良さそうにするのか。
そういうものを、一つずつ覚えていかなければならない。
そして、成果は出ている。
たぶん。
かなり。
今朝のレティシアがこうして深く眠っているのも、きっとその証拠だ。
俺も真の漢に近づいているな。
ギルは満足した。
無理をさせるつもりはない。レティシアは大事な女だ。休みたいなら休ませればいい。今はダリアもいる。部屋のことも、俺の支度も、かなり回るようになっている。
扉の近くには、ダリアが静かに立っていた。
すでに身支度を終えている。灰色の髪をまとめ、落ち着いた色の服を着て、いつでも動けるよう控えていた。最初の頃にあった硬さはかなり薄れ、部屋の中の物の位置や、俺が朝に何を求めるかもだいぶ覚えている。
ダリアは寝台のレティシアを見た。
それから、ほんの少しだけ苦笑したように見えた。
「レティシアはまだ休ませておけ」
「はい。そのつもりで準備してあります」
「さすがだな」
「ありがとうございます」
落ち着いた返事だった。
だが、声の端に少しだけ含みがある。
たぶん、昨夜のことを察しているのだろう。いや、最近は察するまでもないのかもしれない。昨夜俺と過ごした方が、翌朝少し休む。もう片方が部屋を回す。いつの間にかそんな形になっていた。
嫌がっているわけではない。
レティシアも、ダリアも、むしろ嬉しそうにしている、と思う。
だからこそ、俺ももっと頑張ろうと思う。
いい循環である。
たぶん。
「今日は生産拠点へ行く」
「はい」
「ダリアも一緒に来い」
「かしこまりました」
ダリアはもう一度レティシアを見た。
寝具へ少し頬を埋めたレティシアは、普段の姿からは想像しにくいほど無防備だった。ダリアの口元がわずかに緩む。
仲が良いのは実に良いことだ。
朝食を軽く済ませ、生産拠点へ向かう頃には、城の中もすっかり動き始めていた。
廊下を行き交う使用人たちが頭を下げる。遠くから兵の声が聞こえ、どこかで荷を運ぶ車輪の音も響いていた。窓から入る光は柔らかく、石床へ細長い影を落としている。
こういう朝は悪くない。
命を狙われる心配もない。
迷宮で腹に穴を空けられる心配もない。
父上に急に呼ばれる可能性はあるが、それはまあ仕方ない。
生産拠点に近づくと、空気が変わる。
木の匂い。
油の匂い。
布を叩く音。
職人たちの声。
炭を扱う場所からは、少し焦げたような匂いも流れてくる。
どれも綺麗なものではないが、物が作られている場所の匂いだった。
ギルが姿を見せると、近くの職人が頭を下げた。
「若様」
「ああ、そのままでいい」
手を上げると、職人たちはすぐ作業へ戻った。
最近はこれで済むようになった。最初の頃のように全員が止まられると、かえって困る。動いているところを見なければ分からないことも多い。
奥の作業台では、シルクの布が広げられていた。
窓から差し込む光を受け、布の表面が柔らかく輝いている。白に近い色なのに、角度によって淡く別の色が浮くようにも見えた。普通の布よりずっと滑らかで、指先を少し沈ませるような柔らかさがある。
職人の女が、布の横に下絵を置いていた。
ダリアは自然にその横へ入る。
「こちらの線は、もう少し丸くした方が良いと思います」
「昨日言ってた帝国の流行ってやつかい?」
「はい。直線だけで整えるより、こういう曲線を入れた方が柔らかく見えます」
「なるほどねえ」
職人は布と下絵を見比べながら頷いた。
ダリアの言葉は押しつけがましくない。帝国側で見たものを話し、最後は職人へ任せている。だから聞きやすいのだろう。
「若様、どうです?」
急にこちらへ振られた。
ギルは布を見る。
細かい意匠の良し悪しなど、正直そこまで分からない。だが、ダリアが言うように曲線を入れた方が、布の光り方には合いそうだった。
「ダリアの案で一回やってみろ。試作品だろ」
「へい」
「ただ、糸は無駄にするなよ」
「そこはもちろんです」
職人が笑う。
ギルも頷いた。
うむ。
良い。
実に良い。
ダリアはもう、ただ俺の後ろへ立っているだけの女ではなくなっている。職人たちも普通に相談するし、帝国側で見た品や模様の話は、この場所では十分価値があるらしい。
やはり有能な女を手元に置くのは大事だな。
ギルは満足した。
しばらく作業場を見て回る。
炭の焼き具合は悪くない。木材の乾燥も進んでいる。見慣れない道具が一つ増えていたが、まだ試作中らしいので今日は深く触れないことにした。ここで余計な口を出すと、また妙な方向へ進化する可能性がある。
昼頃になると、職人たちと一緒に軽く昼食を取った。
木皿へ置かれたハンバーガーを手に取り、そのままかぶりつく。
肉汁が少し指へ落ちた。
美味い。
今日は中へ薄くチーズが入っていた。塩気と脂へ濃い味が重なり、前よりさらに重たい。だが作業場で食うにはちょうど良かった。
「若様、味どうです?」
「いいな。前より美味い」
「やっぱり肉だけより、こっちの方が良さそうで」
「食い応えあるな」
ギルはもう一口かぶりついた。
前世の味と同じではない。パンも肉も違う。だが、方向としてはかなり近いものがある。こういう工夫を見ると少し懐かしくなった。
隣ではダリアが、小さめのものを両手で持って食べている。口元を汚さないよう気をつけているが、味は気に入ったらしい。目元がほんの少し柔らかかった。
「ダリア、美味いか?」
「はい。かなり」
「だろう」
ギルはなぜか得意げになった。
自分で作ったわけではない。
だが、ハンバーガーと名付けたのは俺だ。
なら、少しくらい得意になってもいいだろう。
職人たちは食べながら、あれこれ雑談していた。
布の話。
木材の話。
商人の話。
運搬の話。
こういう雑談から、たまに面白い話が出る。
「そういえば、出入りの商人から湯が湧いてる場所があるって聞きましたぜ」
職人の一人が何気なく言った。
ギルの手が止まった。
「湯?」
「ええ。温泉ってやつで。少し距離はありますが」
「温泉」
ギルは小さく呟いた。
温泉。
この世界にもあるのか。
いや、あるだろう。地面から湯が湧く場所くらい、あってもおかしくない。
広い湯。
湯気。
のんびり浸かる時間。
レティシア。
ダリア。
うむ。
「ほう、温泉なんかあるのか?」
「あるらしいです。ただ、若様がふらっと行くような距離じゃありませんぜ」
「ふーん」
ギルは軽く頷いた。
「そうなのか」
表面上は流した。
だが、頭の中ではかなり考えていた。
どこにあるのか。
誰の土地なのか。
入れる場所なのか。
レティシアとダリアを連れて行けるのか。
考えることはいくらでもある。
ダリアが隣で静かにこちらを見ていた。
「何だ?」
「いえ」
「言いたいことがある顔だな」
「ギル様が、とても興味を持たれたように見えましたので」
「好奇心は大事だ」
「はい。大事だと思います」
ダリアはそう言ったが、声に少しだけ警戒が混じっていた。
失礼な。
俺は聞いた瞬間に走り出すほど子どもではない。
ただ、少し興味を持っただけだ。
昼食後、生産拠点を少し見て回り、ギルは城へ戻った。
訓練場の方から木剣の音が聞こえたので、少しだけ足を向ける。セバスチャンたちがまだ身体を動かしていた。
ギルは訓練場の端でセバスチャンを呼んだ。
「セバスチャン」
「へい、若様」
「温泉があると聞いた」
その瞬間、セバスチャンの目が少し細くなった。
「誰から聞きやした」
「生産拠点の職人だ」
「ああ……」
その反応で分かった。
ある。
やはりあるのだ。
「で、どこだ?」
「若様は行けやせんぜ」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔に書いてありやす」
「失礼な」
「実際、気軽に行ける場所じゃありやせん。あそこは領外ですぜ」
「領外」
「へい」
セバスチャンはそれ以上細かく言わなかった。
だが、その短い言葉だけで十分だった。
マバール領の外。
つまり、俺が気分だけで出かける場所ではない。
「ふーん」
ギルは顎へ手を当てた。
「そうか。なるほどな」
「若様」
「何だ」
「今の顔、諦めた顔じゃありませんぜ」
「そうか?」
「そうです」
「気のせいだ」
「気のせいならいいんですがねえ」
セバスチャンはまったく信じていない顔をしていた。
腹立たしい。
だが、鋭い。
確かに俺は諦めていない。領外なら勝手には行けない。だが、勝手でなければどうか。父上の許可があればどうか。正式な用事を作ればどうか。そもそもバレなければ問題無いような気もする。
いや、今すぐではない。
今すぐではないが。
温泉は、かなり良い。
自室へ戻る頃には、夕方の光が廊下へ長く差し込んでいた。
石床へ窓枠の影が落ち、壁の飾りが淡く赤みを帯びている。城の中は少しずつ夜の準備へ移り始めていた。
部屋へ入ると、レティシアが立っていた。
朝とは違い、服も髪もきちんと整えられている。茶器は用意され、机の上には書類が分けて置かれていた。
ただ、歩く時の動きがほんの少しゆっくりだった。
椅子の横を通る時、腰の辺りへ力を逃がすような間がある。痛そうではない。ただ、身体へまだ余韻が残っているのだろう。
「レティシア、大丈夫か?」
「はい。問題ございません」
「無理はするなよ」
「ありがとうございます」
レティシアは静かに答えたが、目が一瞬だけ伏せられた。
やはり昨夜はかなり効いたらしい。
ギルは満足した。
うむ、着実に真の漢に近づいているな。
だが、その表情を見ていたダリアが少しだけ視線を逸らした。
「何だ?」
「いえ」
「今、何か思っただろ」
「ギル様は、本当に楽しそうでいらっしゃるなと」
「楽しいぞ」
ギルは素直に答えた。
レティシアが茶を注ぎながら、ほんの少し困ったような顔をする。
その顔も可愛い。
やはり、もっと頑張ろう。
「本日は生産拠点で何かございましたか?」
レティシアが茶器を置きながら尋ねる。
「ああ。ダリアがまた職人と模様の話をしていた。かなり馴染んでるぞ」
「そうですか」
「あと、温泉の話を聞いた」
その瞬間、レティシアの手が止まった。
ほんの一瞬。
だが、ギルには分かった。
「レティシアも知っているのか?」
「話だけですが……」
「領外になるらしいな」
ギルが先に言うと、レティシアは少しだけ目を伏せた。
「はい。あの辺りは少し複雑ですので」
「セバスチャンにも似たようなことを言われた」
「筆頭騎士がそう仰ったのでしたら、なおさらでございます」
「ふーん」
ギルは茶器を置いた。
温泉はある。
ただし領外。
セバスチャンもレティシアも止める。
つまり少し面倒な場所。
だが、面倒だからといって不可能とは限らない。
「若様」
レティシアの声が少し低くなった。
「今、何をお考えでしょうか」
「温泉についてだ」
「やはり」
レティシアが小さく息を吐く。
ダリアも横で静かにこちらを見ていた。
「ギル様は、面白そうなものを見つけると目が変わりますので」
「好奇心は大事だ」
「はい。大事です」
ダリアは否定しなかった。
しかし、声には明らかに警戒があった。
レティシアも静かに頷く。
「温泉についてお調べになるだけなら構いません」
「うむ」
「ですが、勝手にお出かけになることはなさらないでくださいませ」
「しない」
「本当にでございますか」
「俺はそこまで信用がないのか」
ギルが言うと、レティシアは困ったように微笑んだ。
「信用しております」
「なら」
「だからこそ、先に申し上げております」
ギルは黙った。
上手い言い方だ。
さすがレティシアである。
ギルは窓の外へ視線を向けた。
夕方の光が沈みかけ、空の端が赤く染まっている。部屋の中には茶の香りが漂い、レティシアとダリアが近くにいる。
平和だ。
かなり良い。
そして、その平和の中に温泉という新しい楽しみが生えた。
レティシアとダリアを連れて、広い湯へ浸かる。
うむ。
かなり良いな、とギルは思った。