作品タイトル不明
第六十話 開眼
目が覚めた時、窓の外はまだ薄暗かった。
厚い布の隙間から差し込む朝の光は弱く、部屋の中には夜の気配が少し残っている。空気は静かで、遠くから微かに使用人たちの動く音が聞こえた。城は起き始めている。だが、この部屋だけはまだ夜の続きみたいだった。
ギルは寝台の上でしばらく天井を見つめ、それからゆっくりと隣へ視線を向けた。
ダリアが眠っている。
灰色の髪が枕へ広がり、褐色の肩が寝具から少しだけ覗いていた。呼吸は静かだ。昨夜はかなり疲れていたはずなのに、眠っている姿は思ったより穏やかに見える。
ギルはゆっくりと身を起こした。
寝具が擦れる。
その音だけで、昨夜の記憶が妙に鮮明に蘇った。
……いや。
うむ。
なるほど。
そういうことだったのか。
ギルは寝台から降りると、その場で腕を組んだ。
そして、真顔になった。
正直、俺はもっと出来ると思っていた。
経験は多くない。
だが、レティシアはいつも満足しているように見えていた。いや、実際に満足していたのだと思う。少なくとも嫌がってはいなかった。毎回きちんと受け止めてくれていたし、抱きしめれば嬉しそうにもしていた。
だから俺は、かなり上手い側なのではないかと思っていた。
慢心だった。
完全に。
昨夜、それを思い知らされた。
ギルは窓際まで歩き、薄明るい空を見ながら深く頷いた。
体力だけでは駄目なのだ。
もちろん体力は大事だ。魔力強度も、魔力容量も、この世界では極めて重要である。実際、昨夜も俺の体力はかなり役立った。
だが、それだけでは足りない。
技術だ。
真に必要なのは技術だったのだ。
ギルの脳裏に、昨夜のダリアの動きが浮かぶ。
平民であるダリアは、純粋な体力だけで言えばレティシアよりかなり下だろう。騎士家育ちのレティシアは体幹も強いし、長時間立ち仕事をしても平然としている。姿勢もいい。体も鍛えられている。
それに比べれば、ダリアは細い。
軽い。いや、レティシアも全然軽いのだが。
実際、抱き上げた時の感覚もかなり違った。
なのに。
なのに、だ。
昨夜のダリアは強かった。
いや、強いというのも違う気がする。
巧かった。
あまりにも。
まさか、あの体勢から反撃してくるとは思わなかった。
しかも一度ではない。
押し切っているはずなのに、気づけば流れを奪い返される。こちらが優位だと思った瞬間に、妙なところを突かれる。呼吸の合わせ方、触れ方、力の抜き方、視線、間。
全部だ。
全部、絶妙だった。
ギルは目を細めた。
俺には前世の知識がある。
薄い本も読んだ。
映像知識もある。
だから分かった気になっていた。
だが、それだけでは意味がないのだ。
知識は練習しなければ身につかない。
何度も試し、覚え、感覚として体へ落とし込まなければ、本当の技術にはならない。
つまり俺は――。
「まだ未熟……!」
ギルは低く呟いた。
その声に、寝台の上でダリアの睫毛が小さく震える。
だがギルは気づかない。
彼の頭の中では、すでに新たな決意が燃え上がっていた。
「俺は誓う!」
ギルは朝日に向かって片手を握り締めた。
「今後は体力だけではなく、技術も磨き続ける!」
熱くなる。
胸の奥が。
「それこそが真の漢である!」
妙に爽やかな顔だった。
朝の光を浴びながら、謎の達成感に満ちた顔で立つギルを、目覚めたダリアは寝台の上からぼんやり見上げていた。
なんだかなぁ。
そう思った。
昨夜、散々振り回された側としては、もう少し別の感想にならないものかと思う。
いや、まあ。
途中から妙に真剣だったのは分かっていた。
だが、まさかそこへ辿り着くとは思わなかった。
「……おはようございます」
ダリアが掠れた声で言うと、ギルが勢いよく振り返った。
「おお、ダリア! 起きたか!」
やたら爽やかだ。
なんなのだろう、この人。
「ありがとう。素晴らしかったぞ」
「はあ……ありがとうございます」
ダリアは少し頬を赤くした。
真正面から褒められると、さすがに反応に困る。
しかもギルは本気で感心している顔だった。
「俺は開眼した」
「そう、ですか」
「約束しよう!」
ギルはびしりと指を立てた。
「俺はダリアとレティシア、二人を真に悦ばせる男になる!」
ダリアは数秒黙った。
窓から入る朝の風が、寝台脇の布を小さく揺らしている。
外では爽やかな鳥の声も聞こえる。
静かで平和な朝だった。
なのに会話だけがおかしい。
「……えっと、ギル様」
「何だ!」
「とりあえず、お風呂で身を清めましょうね」
「うむ!」
ギルは力強く頷いた。
「そうだな! そうしよう!」
納得したらしい。
ギルはそのまま妙に堂々とした足取りで部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静かになる。
ダリアは寝台へ沈み込み、天井を見た。
「……開眼って何なんでしょうね」
小さく呟く。
正直、昨夜だけで十分だった気もする。
いや、かなり十分だった。
身体のあちこちに残る心地よい重さを感じながら、ダリアはゆっくり息を吐いた。
その時、控えめに扉が叩かれる。
「ダリア、入りますよ」
レティシアの声だった。
「はい」
扉が開き、レティシアが部屋へ入ってくる。
湯の入った桶と布を抱えていた。朝の支度を終えた後らしく、服装も髪もきちんと整っている。だが、その目には少しだけ心配そうな色があった。
レティシアは寝台へ近づくと、ダリアの顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「はい、かろうじて」
ダリアが苦笑すると、レティシアの眉がほんの少し寄った。
昨夜の物音は、それなりに聞こえていただろう。
この城の壁は厚い。
だが、まったく聞こえないほどではない。
レティシアは寝台脇へ桶を置き、濡らした布をダリアへ渡した。
「若様が少しおかしかったように感じましたが」
「はい」
ダリアは身体を起こしながら頷いた。
「なにやら開眼したそうです」
「開眼……?」
「私たちを真に悦ばせるそうで」
レティシアが黙った。
数秒。
本当に数秒だけだったが、その沈黙には色々詰まっていた。何かが。
「……ダリア」
「はい」
「任せましたよ」
「いえいえ」
ダリアは即座に首を振った。
「昨夜愛していただいたのは私ですから、今夜はレティシアが」
「いえ」
レティシアも負けじと即答する。
「わたくしはこれまで十分愛していただいておりますので、今夜もダリアが」
「そんな、滅相もありません」
ダリアは布で肩を拭きながら言った。
「平民である私が続けて愛していただくなど」
「ズルいですよ、ダリア」
レティシアがじとりとした目になる。
ダリアは少し笑いそうになった。
昨夜までなら、こんな会話をするとは思わなかった。
レティシアは怖い女ではない。
むしろ面倒見がいい。
だが、専属使用人として完成されすぎていて、最初はかなり緊張した。所作も綺麗だし、若様への理解も深い。隣に立つだけで、自分との差を感じるような女だった。
けれど今は、妙に人間らしい顔をしている。
「……えっと」
ダリアは少し視線を逸らした。
「二人で足りますかね?」
レティシアが真顔になった。
冗談を言っている空気ではなかった。
ダリアも割と本気だった。
「その、あの年頃の男の子は何かと好奇心旺盛ですし……」
言いながら、昨夜のギルを思い出す。
途中から完全に研究熱心な顔になっていた。
真剣だった。
あれはたぶん、今後さらに悪化する。
レティシアは静かに息を吐いた。
「……それは今後考えましょう」
「ですよね」
ダリアは頷いた。
レティシアは布を絞りながら、少し遠い目をしていた。
「若様は、変な方向へ真面目になる時がありますから」
「昨夜、かなり実感しました」
「机を指で叩き始めた時は危険です」
「え?」
「何か考え込んでおられます」
ダリアは少し想像した。
寝台の上で真顔になり、何かを研究し始めるギル。
うん。
容易に想像できる。
「……今夜は確認お願いしますね」
ダリアが微笑みながら言うと、レティシアはむう、と頬を膨らませた。
「ダリア」
「何でしょう」
「完全に押し付けようとしてませんか」
「そんなことありませんよ」
「顔が笑っています」
「気のせいです」
ダリアは静かに笑った。
レティシアも、結局少しだけ笑う。
朝の光が部屋へ差し込み、二人の影を柔らかく床へ落としていた。
城はもう完全に動き始めている。
使用人たちの足音。
遠くで響く兵の声。
厨房から流れてくる香り。
いつもの朝だ。
ただ、そのいつもの朝の中に、自分が自然に混ざっていることを、ダリアは少し不思議に感じていた。
帝国へ戻っていたら、どうなっていたのか。
考えても仕方ない。
少なくとも今は、この部屋でレティシアと話している。
そして、開眼したらしいギル様は風呂へ向かっている。
……うん。
やっぱり、なんだかなぁ、と思うのだった。