作品タイトル不明
第五十九話 変な貴族
すぐ隣から静かな寝息が聞こえていた。
ダリアは薄く目を開け、隣を見た。
燭台の火はかなり落とされている。部屋の中は暗く、窓の外には夜の気配だけが広がっていた。遠くで兵の足音が一度だけ聞こえ、それもすぐに消える。
その静けさの中で、ギルは眠っていた。
寝顔は思ったより幼い。
起きている時は、もっと目つきが鋭い。笑っていても、ふとした瞬間に怖さが滲む。帝国で初めて会った時など、本気で巨大な虎を目の前にしたようだった。
だが、今は違う。
無防備に寝ている。
寝息も静かだ。
ダリアは枕へ頬を埋めたまま、少しだけ目を細めた。
閨の技術については、一応教育を受けている。
密偵として必要になる可能性があるからだ。
男の好み。視線の誘導。触れ方。反応。嫌悪感を隠す方法。酔ったふり。怯えたふり。嬉しそうに笑う方法。
必要だから覚えた。
好きで覚えた訳ではない。
実際に使う機会も、そこまで多くはなかった。そもそも平民の女が高位貴族へ近づける機会など限られている。近づけたとしても、そこには護衛も使用人もいる。下手な真似をすれば消される。
だから知識として知っている部分の方が多かった。
それでも。
それでも、ギルはかなりすごかった。
思い出した瞬間、顔が熱くなる。
ダリアは小さく息を吐いた。
正直、少し悔しい。
ある程度は余裕を持てると思っていた。全部ではなくても、少しくらいは主導権を握れると思っていた。少なくとも、あそこまで翻弄されるとは考えていなかった。
なのに実際は、途中から頭がかなりぼんやりしていた。
悔しい。
だが、同時に少し面白くもある。
変な貴族だ。
ダリアは眠っているギルを見る。
本当に変だと思う。
貴族と平民の間には、絶対的な力の差がある。
それは常識だった。
生まれた時から違う。
魔力を持つ者と、持たない者。強者と弱者。支配する側とされる側。綺麗事ではなく、現実として存在する差だ。
ダリアは平民として生きてきた。
魔力を持たない者として育った。
だから分かる。
貴族の機嫌一つで平民の人生など簡単に変わる。
特に高位貴族は別格だ。
帝都で見た上級貴族たちは、平民をほとんど景色の一部として扱っていた。使用人も兵も、便利な道具に近い。もちろん、露骨に虐げる者ばかりではない。むしろ穏やかな者の方が多かった。
だが、それでも根本には線がある。
人と馬の違いに近い。
大事にすることはある。気に入ることもある。だが、同じ場所には立っていない。
それが普通だった。
なのに、ギルは違った。
初めて会った時から、かなり優しかった。
もちろん怖かった。
怖くない訳がない。
アバルディアの密偵として動いていた時点で、いつ死んでもおかしくない立場だった。しかも相手は王国の辺境伯家の三男。高い魔力を持つ貴族。帝国へ潜入し、騎士や貴族を容赦なく殺して回っていた危険人物。
必死に平静を装っていたが、最初は本当に怖かった。
近くに立たれるだけで息が詰まりそうだった。
その目で見つめられるたび、自分の奥まで見透かされている気がした。
なのにギルは、自分へかなり気を遣っていた。
言葉を荒げない。
無理に触れない。
平民相手なのに、妙に会話をしようとする。
その時点でかなり変だった。
そして帝都で、もっと怖くなった。
魔法。
あれはもう、暴力そのものだった。
帝都へ撃ち込まれた攻撃魔法。騎士たちを薙ぎ払う姿。迷いのなさ。敵を殺すことへの躊躇の薄さ。
平民から見れば、まさに怪物だった。
あの時のギルは、本当に恐ろしかった。
感知魔法で敵を探し、肉体強化魔法で駆け、攻撃魔法で焼き払う。騎士たちが何人いても止まらない。しかも本人は、それをかなり冷静にやっていた。
なのに。
その同じ男が、自分には優しかった。
仲間の騎士だけではない。
平民で、しかも敵かもしれない自分にも。
その違和感が、ダリアの中でどんどん大きくなっていった。
情け容赦のないギル。
自分へ妙に優しいギル。
その二つが、どうしても噛み合わない。
不気味だった。
本気で。
この人は何を考えているのだろうと思った。
役目が終わりかけた頃には、別の不安もあった。
自分は知りすぎた。
アバルディア家の動き。
帝都で起きたこと。
王国側の存在。
ギルのこと。
ここまで知ってしまった平民を、アバルディア家が自由にするとは思えなかった。
殺されることは、たぶんない。
そこまでする必要は薄い。
だが、もしかしたら。
その可能性はずっと頭の片隅にあった。
少なくとも、自由に動ける立場ではなくなるだろうと思っていた。
監視。
軟禁。
どこかの家へ預けられる。
あるいは地方送り。
その程度で済めば、むしろありがたいくらいだった。
だから、別れる時に攫われた時は、本当に驚いた。
あれはかなり酷かったと思う。
いきなり担ぎ上げられた。
周囲を威嚇していた。
しかも本人はかなり当然の顔をしていた。
気に入ったから連れ帰る。
そんな理由で。
平民でしかない自分を。
敵かもしれない自分を。
最初は腹も立った。
何なんだこの人はと思った。
だが、途中で気づいた。
ああ。
この人、自分を助けようとしている。
そう思った。
もちろん全部が善意ではない。
気に入ったのも本当だろう。
それくらいは分かる。
これでも、それなりにはモテていたのだ。
男の視線くらい読める。
だが、それだけではない。
ギルは、本当に自分を連れ帰る気だった。
自分の庇護下へ置くつもりだった。
その事実に気づいた瞬間、腹立たしさが少しだけ崩れた。
変な服まで与えられた。
あれは今思い返しても変な服だった。
着心地は良い。
布もかなり上等だ。
だがあの色は無い。
なのに、なぜかギルは嬉しそうだった。
そして城へ着いたら、あっという間に専属使用人にされた。
意味が分からなかった。
平民が。
しかも帝国側の人間が。
あんな簡単に。
もちろんレティシアの存在が大きかったのだろう。彼女が認めなければ、あそこまでスムーズには進まなかったはずだ。
レティシア。
ダリアは小さく目を伏せた。
彼女もかなり変わっている。
初めて見た時は、冷たい女だと思った。
綺麗で、静かで、隙がない。
騎士家の娘らしい厳しさもあった。
だが、ギルの側にいる時だけ少し違う。
柔らかい。
甘い。
もちろん顔にも態度にもほとんど出さない。だが、近くにいれば分かる。
彼女は完全にギルへ甘えていた。
そしてギルも、レティシアへ甘えていた。
今日、生産拠点からの帰り道で、それを強く感じた。
ギルは職人たちと笑っていた。
平民相手に。
地面へ歪んだ絵を描きながら、木箱の説明をしていた。途中からかなり適当になっていたし、名前の付け方も滅茶苦茶だった。
なのに、職人たちは笑っていた。
困惑しながら。
呆れながら。
でも、ちゃんとギルを見ていた。
そこにいるのは、貴族と平民だった。
絶対的な差は存在している。
だが、ギルはそこへあまり重さを置いていないように見えた。
もちろん本当に差を理解していない訳ではない。
そんなはずはない。
彼は辺境伯家の三男だ。
騎士を率い、敵を殺し、帝国へ潜入するような男だ。
力の差を知らない訳がない。
でも、それをかなり雑に飛び越える。
気に入るか。
気に入らないか。
面白いか。
面白くないか。
彼にとっては、そちらの方が大事なのだ。
少なくとも、かなり。
なんて傲慢で。
なんて大雑把なのだろう。
そして。
なんて可愛い人なのだろう。
ダリアはそっと寝返りを打った。
隣で眠るギルは、静かだった。
起きている時は、時々妙に年下らしい顔をする。勢いで変なことを言い、レティシアに叱られ、職人たちを困らせる。
だが、戦う時は本当に怖い。
だから余計に、今の寝顔が不思議だった。
巨大な猛獣が、自分へ腹を見せて寝ているような気分になる。
少し手を伸ばせば、触れられる。
触れても大丈夫だと思ってしまう。
普通なら、そんなことはあり得ない。
今日、城へ戻ってから、レティシアへ正直に話した。
ギルに興味がある。
そう言った。
言葉にした瞬間、自分でも驚いた。
だが、レティシアは怒らなかった。
微笑んでくれた。
あの人も、かなりおかしい。
普通なら怒るはずだ。
警戒するはずだ。
なのに、あの人は少し困ったように笑っていた。
たぶん、最初から気づいていたのだろう。
ダリアは小さく息を吐く。
まさか自分が、王国貴族で、しかも年下の男へ惹かれるとは思わなかった。
年下に弱かったのかもしれない。
いや、普通の年下ならこんな風にはならないか。
普通の年下は、帝都へ攻撃魔法を撃ち込まない。
普通の年下は、敵国の密偵を攫わない。
普通の年下は、職人街で地面に絵を描きながら木箱の説明をしない。
普通じゃない。
本当に。
ダリアは少しだけ口元を緩めた。
その時、ギルが小さく寝息を漏らす。
完全に熟睡している。
さっきまであんなことをしていた男とは思えないくらい平和な顔だった。
少し腹が立った。
「もう……」
ダリアは小さく呟く。
「あんな事までして」
言いながら、自分の顔がまた熱くなる。
ダリアは少しだけ迷い、それからそっと手を伸ばした。
指先で、ギルの頬を軽くつねる。
柔らかい。
ギルはむにゃ、と小さく呻いただけで起きなかった。
ダリアは慌てて手を離す。
少しだけ心臓が跳ねた。
もし今起きたら。
もし頬をつねったことがバレたら。
普通の貴族なら、平民の女がそんな真似をすれば間違いなく激怒するだろう。
もしかしたら殺されるかもしれない。
それくらい、立場は違う。
だが。
彼なら大丈夫だ。
少しくらい怒られるかもしれない。
ものすごい反撃を喰らうかもしれない。
でも、それでも。
彼なら大丈夫なのだ。
ダリアは静かに目を閉じた。
寝台は温かい。
隣には静かな寝息がある。
この城へ来てから。
いや、もしかしたら数年ぶりに。
ダリアは安心して眠った。