作品タイトル不明
第五十一話 迷宮の夜
迷宮の森は、いつまで経っても薄明るかった。
空ではないものが頭上にある。枝葉の向こうに広がるそれは、昼の空ほど青くもなく、夜の闇ほど深くもない。白く濁った光が高い場所から滲み、葉の裏を淡く照らし、足元の草へ柔らかい影を落としている。
ギルは火のそばに座り、串に刺した肉を眺めていた。
迷宮内での野営。
言葉にすると少し心が躍るが、実際にはそこまで気楽なものではない。周囲には木々があり、下草が揺れ、遠くでは水の流れる音が聞こえる。見た目だけなら森での休息に近い。だが、ここは地下で、迷宮で、草むらの奥からホーンラビットが腹を狙って飛んでくる場所だった。
火は小さめに抑えられている。
薪の木を割ったものが、ぱちりと音を立てた。地上の薪とは少し匂いが違う。青臭さが薄く、乾いた木の匂いが強い。迷宮の中で切られ、地上へも持ち出される木。朝に切っても夕方には伸びると聞いたあの木が、今は目の前で火になっていた。
ギルは頭上の淡い光を見上げた。
この薄明るさも、薪の木の伸び方に関係しているのかもな。
光が消えない。
夜にならない。
普通の植物にどれほど光が必要なのか、ギルは詳しくない。前世の知識でも、植物には光が必要だった気がする、くらいのものだ。だが、ずっと薄明るい森なら、地上の森とは違う成長をしてもおかしくない気がする。
まあ、分からんけど。
ギルは視線を火へ戻した。
串の肉から脂が落ち、炎が小さく揺れた。フォレストディアの肉ではない。あの後さらに奥へ進み、何体かの魔物を仕留めた。
ホーンラビット。
フォレストディア。
巨大な蛇に似たロングスネーク。
大きな猪に似たアイアンボア。
猿に似たロングアームモンキーらしき魔物も見かけたが、そいつは木の枝を伝ってすぐ逃げた。こちらを見た一瞬の目つきが妙に鋭く、ただの獣とは少し違って見えた。
もしかすると、知能が高いのかもしれない。
襲ってこない魔物がいる。
逃げる魔物もいる。
それだけでも、迷宮の中は思っていたより複雑だった。
「若様、焼けましたぜ」
セバスチャンが串を一本取って差し出してくる。
ギルは受け取った。
肉は少し硬そうだった。表面に塩が振られ、脂が光っている。鼻を近づけると、昼に食べたフォレストディアよりも強い匂いがした。
「これは?」
「アイアンボアですな」
「猪っぽいやつか」
「ええ。突っ込まれりゃ厄介ですが、肉は悪くありやせん」
ギルはかぶりついた。
熱い。
噛むと硬い繊維が歯に当たり、遅れて脂が滲む。フォレストディアほど上品ではないが、肉の味は濃かった。獣臭さはある。だが、保存食の塩辛い干し肉よりずっといい。
「美味いな」
「でしょう」
「迷宮の魔物、普通に食えるやつ多いな」
「全部じゃありやせんぜ」
「分かってる。変な虫みたいなのは食いたくない」
「食えと言われても止めやす」
セバスチャンが笑った。
近くでオルドが周囲を見張っている。クレインは少し離れた位置で荷を整理し、トールは剣の手入れをしていた。もう一人の直属騎士は、食事を取りながらも森の奥へ視線を向けている。
迷宮内では、気を抜きすぎない。
誰も大声で笑わない。
火を囲んでいるのに、どこか兵の野営より静かだった。地上の野営なら空が暗くなり、火の周囲だけが明るくなる。だが、ここでは周囲がずっと薄明るい。夜の境目が曖昧で、眠る時間だと身体へ言い聞かせる必要がある。
ギルは肉を噛みながら、今日の戦いを思い返した。
攻撃魔法はほとんど使っていない。
使おうと思えば使えた。ホーンラビット程度なら一瞬で焼ける。フォレストディアも、アイアンボアも、ロングスネークも、攻撃魔法で貫けば倒せる。危険が迫れば、それが一番早い場面もあるだろう。
だが、素材が残らない。
それに、森の中で雑に攻撃魔法を使えば、木を焼き、地面を抉り、仲間の動きを邪魔する可能性もある。ギルの攻撃魔法は強すぎる。戦場なら頼もしい火力も、迷宮では扱いに気を遣う刃物のようだった。
セバスチャンの言った通りだ。
迷宮では攻撃魔法より、感知魔法、防御魔法、肉体強化魔法の方が重要になる場面が多い。
見つける。
避ける。
受ける。
動く。
そして、必要なだけ倒す。
それが素材を残し、生きて戻る戦い方なのだろう。
ギルは自分の手を見た。
魔力はある。
魔力容量も魔力強度も、普通の貴族どころではない。攻撃魔法なら、目の前の森をかなり派手に削れるだろう。だが、迷宮でそれをやると、探索者というより災害だ。
そう考えると、少しだけ父上の考えが見えた気がした。
アル兄さん。
アルディス・マバール。
真面目で、努力家で、魔力は貴族としては弱い。もちろん騎士などと比べればずっと強い。だが、貴族として見ればかなり弱い。平民出身の側室を母に持つ以上、それはどうしようもない部分なのだろう。
ギルは火を見つめた。
迷宮で必要なのは、単純な魔力の強さだけではない。
魔力をどう使うか。
どこで抑えるか。
どこで張るか。
どこで見つけるか。
どこで踏み込むか。
以前、父上は言っていた。
アルの強さは、弱さを認め、受け入れたところだと。
ギルはその言葉を思い出す。
肉体強化魔法ならどうだろう。
魔力が強い方が、より強く肉体強化魔法を使える。それは間違いない。だが、強化するのはあくまで肉体だ。肉体には限界がある。腕も脚も骨も筋肉も、無限に強くなるわけではない。
なら、限界まで強化するだけの魔力があればいい。
その程度の魔力なら、アル兄さんにも十分ある。
問題は、今ある魔力をどれだけ正確に、無駄なく、必要なところへ回せるかだ。
真面目で努力家なアル兄さんなら、そこを徹底するだろう。自分がギルやダル兄さんほどの魔力を持っていないことを理解し、その上で迷宮の管理に必要な知識を積み、探索者を動かし、素材の流れを見て、危険を抑える。
父上は、それを見ていたのかもしれない。
だからアル兄さんに迷宮を任せた。
ギルは肉をもう一口噛んだ。
俺の魔力は、アル兄さんよりはるかに強い。
だが、迷宮向きかと言われると怪しい。
迷宮では、火力より器用さが要る。
もちろんギルも器用に魔法を扱える。だが、最大の売りである攻撃魔法の威力は、ここでは少し過剰だった。
何だろうな。
強すぎて使いづらいって、贅沢な悩みだな。
ギルは内心で苦笑した。
「若様」
セバスチャンの声で、ギルは顔を上げた。
「何だ」
「考え込んでやしたな」
「迷宮のことをな」
「ほう」
「アル兄さんが迷宮担当なの、少し分かった気がする」
セバスチャンの目がわずかに細くなった。
「アルディス様ですかい」
「ああ。迷宮は魔力の強さだけじゃない。使い方と管理だ。アル兄さんと相性がいい気がする」
セバスチャンは火の向こうで黙った。
その表情から何を考えているかまでは分からない。ただ、いつものにやにや笑いは少し薄くなっていた。
「お館様は、そういうとこも見ておられたんでしょうな」
「だろうな」
「若様がそう言うと、アルディス様も喜ぶでしょうぜ」
「本人には言わないぞ」
「何でですかい」
「なんか生意気だし、恥ずかしいだろ」
セバスチャンが肩を揺らした。
「若様らしい」
「うるさい」
ギルは串の肉を食べ終えた。
周囲では、直属騎士たちが交代で休み始めている。完全に眠る者はいない。体を休める者、見張る者、感知魔法を使う者。迷宮内の野営には、地上の野営とは違う緊張があった。
ギルも感知魔法を薄く広げる。
自分を中心に、周囲へ魔力を展開する。
森の中には淡い反応が多い。木々の薄いざわめき、自分たちのはっきりした反応、遠くで動く弱い点。迷宮に入った直後より、その違いが少し分かるようになってきた。
全てが敵ではない。
全てが魔物とも限らない。
だが、動く反応には注意が必要だ。
遠くで何かが鳴いた。
鳥の声ではない。
獣の声でも少し違う。
細く、短く、木々の間を滑るように響いた。
ギルは顔を上げる。
「今のは?」
「ロングアームモンキーかもしれやせんな」
「昼に見かけた猿っぽいやつか」
「たぶんですがね。奴らは近づいてこねえ時もありますが、荷を狙うこともありやす」
「面倒だな」
「迷宮ですからな」
「便利な言葉だな、それ」
セバスチャンが笑う。
ギルは外套を引き寄せ、木の根元へ背を預けた。
眠れるだろうか。
薄明るい。
空気は湿っている。
地面は硬すぎないが、寝台とは違う。
それでも、身体には疲れがある。迷宮内を歩き、魔物と遭遇し、感知魔法を使い続けた。貴族の身体は頑丈だが、休みが不要なわけではない。
目を閉じる。
火の音。
葉擦れ。
遠くの水音。
誰かが小さく動く気配。
迷宮の森は、眠っている間もこちらを見ているようだった。
次に目を開けた時、明るさはほとんど変わっていなかった。
ギルはしばらく空を見上げた。
空ではない。
頭上の薄い光は、昨夜と同じように森を照らしている。朝なのか、まだ夜なのか、身体の感覚だけでは少し曖昧だった。だが、周囲は動き始めている。セバスチャンが荷を確認し、オルドたちが火の始末をしていた。
「朝か?」
「朝でさぁ」
セバスチャンが当然のように答える。
「明るさ変わらないな」
「迷宮ですからな」
「またそれか」
ギルは立ち上がり、軽く体を伸ばした。
身体は普通に動く。
寝台ではなかったが、思ったより休めていた。地上の野営より時間感覚が掴みにくいのは少し気持ち悪いが、慣れればどうにかなるのだろう。
朝食は簡単だった。
硬いパン。
干し肉。
少しの水。
昨日の焼きたての肉を思い出すと、かなり味気ない。
ギルは干し肉を噛み、眉を寄せた。
「塩辛いな」
「保存食ですからな」
「昨日の肉が恋しい」
「獲物が取れりゃまた食えますぜ」
「それはそれで危険なんだよなぁ」
言いながら、ギルはパンをかじる。
硬い。
水で流し込みながら食べる。
保存食の重要性は分かる。分かるが、毎日これでは気分が沈む。やはり保存食開発は必要だ。せめてもう少し食べやすく、塩だけに頼らないものが欲しい。
レティシアなら、これをどう料理するだろうか。
そう考えて、ギルは少しだけ口元を緩めた。
「若様」
「何だ」
「その顔は、迷宮とは関係ねえことを考えてやすな」
「うるさい」
「図星ですかい」
「うるさい」
セバスチャンが笑う。
朝食を終えると、一行はさらに奥へ向かった。
昨日より木々の間隔が狭い。
下草も深い。
足元の土は湿っていて、踏むとわずかに沈む。ときどき太い根が道を横切り、歩幅を調整しなければならなかった。入口付近の踏み固められた道とは違う。探索者たちも、ここまで来る数は少ないのだろう。
ギルは感知魔法を広げた。
薄く。
広く。
ただし、広げすぎて全てがぼやけないようにする。
魔力反応が点として浮かぶ。
自分たちの反応。
近くの小さな反応。
遠くの揺れる反応。
昨日より少し分かる。
迷宮の中では、感知魔法に雑音のようなものがある。木々の薄い魔力なのか、迷宮そのものの気配なのか、ギルには分からない。だが、その中で動く反応は違う。強弱、速さ、揺れ方。完全ではないが、見分ける手がかりはある。
しばらく進むと、ホーンラビットが二匹出た。
昨日と同じように、草むらから跳んでくる。
一匹はトールが弾き、クレインが仕留める。
もう一匹はギルの足元へ向かってきた。
ギルは肉体強化魔法で軽く足を引き、剣の柄で角の横を叩いた。小さな身体が横へ逸れる。そこへオルドの刃が入った。
「今の、俺が斬ってもよかったな」
「斬る気でしたかい」
「練習にはなるだろ」
「次にしましょうや」
セバスチャンが笑った。
さらに奥でロングスネークが出た。
太い蛇だった。
木の根元に絡みつくようにしていたため、最初は根と見分けがつきにくい。だが、感知魔法では弱く動く反応があり、近づく前に気づけた。
胴はギルの太腿ほどもあり、長さはかなりある。口を開いた瞬間、細い牙が見えた。
ロングスネークは地面を滑るように動き、トールの足へ巻きつこうとした。
防御魔法が薄く張られる。
肉体強化魔法で踏みとどまる。
セバスチャンが頭を押さえ、クレインが胴の動きを止め、オルドが首元へ刃を入れた。
攻撃魔法は使わない。
使えば楽だっただろう。
だが、ロングスネークの皮も肉も素材になる。潰せば損だ。
ギルはその流れを見ながら、迷宮での戦い方をまた一つ腹に落とした。
大きな力で壊すのではない。
必要な場所だけを潰す。
素材を残して倒す。
それは、戦場で敵を殲滅する感覚とはかなり違う。
昼に近い時間のはずだが、やはり明るさは変わらない。
ギルは保存食を少し口に入れ、水を飲んだ。
塩気が強い。
舌に残る。
その時、感知魔法の端に、これまでより大きな反応が触れた。
ギルは顔を上げる。
「大きい反応がある」
セバスチャンの表情が変わった。
「方角は?」
「前方。少し右寄り。動いてる」
「距離は?」
「近くはない。けど、こっちに来てる……いや、横切るのか?」
ギルは感知魔法を絞る。
大きな反応は滑るように動いていた。
ロングスネークとは違う。
アイアンボアのように重く直線的でもない。
もっとしなやかで、速い。
木々の間を縫うように、こちらへ近づいている。
「全員、警戒」
セバスチャンの声が低くなる。
直属騎士たちが散った。
足元の下草が揺れる。
風ではない。
右手の茂みが沈み、戻る。
ギルはそちらを見た。
次の瞬間、草陰から巨大な影が飛び出した。
サーベルタイガー。
長い牙。
厚い肩。
地上の虎をそのまま巨大にし、牙を剣のように伸ばしたような魔物だった。
速い。
重い。
そして、迷いがない。
狙いはギルだった。
「若様!」
セバスチャンの声が飛ぶ。
オルドたちも動こうとする。
だが、ギルは軽く片手を上げた。
落ち着け。
そう示したつもりだった。
サーベルタイガーが跳びかかる。
巨大な牙が、ギルの肩口へ迫った。
防御魔法を張る。
ただし、いつものように周囲へ球状に広げるのではない。身体の表面へ薄く貼り付かせるように、必要な場所へ重ねる。牙が届く位置。爪が当たる位置。肩、腕、胸、首筋。
同時に肉体強化魔法を通す。
足裏が土を掴む。
膝が沈み、腰で受ける。
牙が防御魔法に当たった。
硬い音がした。
サーベルタイガーの重さが体へ乗る。
だが、潰されない。
爪が外套を裂き、防御魔法の上を滑った。牙は首へ届かず、鼻先がギルの目の前で止まる。獣臭い息がかかった。黄色い目がこちらを睨む。
大きい。
確かに大きい。
だが、受け止められないほどではなかった。
ギルは思わず少し笑いそうになる。
何だこれ。
でかい猫にじゃれつかれてるみたいだな。
もちろん、普通ならじゃれるどころではない。牙が刺されば肩ごと持っていかれるだろうし、爪が入れば腹も裂かれる。だが、ギルの防御魔法と肉体強化魔法の前では、今のところただ重いだけだった。
サーベルタイガーが唸る。
さらに力を込めてくる。
ギルの足元の土が沈んだ。
周囲の気配が緊張している。
セバスチャンは飛び込む直前の姿勢で止まっていた。オルドも、クレインも、トールも動きたくて仕方ない顔をしている。
ああ、心配されてるな。
ギルは少し反省した。
楽しい。
ちょっと楽しい。
だが、遊んでいるように見えるのはよくない。
攻撃魔法で貫くか。
そう思い、すぐに止めた。
素材。
サーベルタイガーの毛皮、牙、骨、肉、魔石。どれがどれほどの価値かは分からないが、これだけ大きな魔物ならそれなりに高いはずだ。攻撃魔法で雑に貫けば、倒せても素材が傷む。
なら、剣だ。
ギルは左腕でサーベルタイガーの頭を押さえた。
肉体強化魔法をさらに強める。
重い。
だが、動かせる。
サーベルタイガーの前脚が地面を掻き、爪が土を飛ばす。牙が防御魔法を削るように押し込まれるが、届かない。
右手で剣を抜く。
長く振り回す余裕はない。
だから近い位置から押し込む。
刃をサーベルタイガーの胸元へ当てた。
厚い毛。
その下の皮。
筋肉。
刃が一瞬止まる。
ギルは眉を寄せた。
ちょっときもいかも。
攻撃魔法と違う。
肉に刃が入る感触が、手に生々しく返ってくる。戦場で斬ったことはある。魔物を間近で刺すのも初めてではない。だが、この距離で、体重を預けるように剣を押し込む感覚は、やはり少し気持ち悪い。
それでも止めない。
根元まで突き刺す。
サーベルタイガーの唸りが潰れた。
体が大きく震える。
牙が防御魔法から離れ、前脚がギルの肩を掻いた。爪は通らない。巨体が痙攣し、重さが一気に崩れてくる。
ギルは押し返すようにして、サーベルタイガーを地面へ倒した。
重い音が森に響く。
草が潰れ、土が跳ね、血の匂いが広がった。
サーベルタイガーはまだ数度脚を動かしたが、やがて動かなくなった。
ギルは剣を引き抜いた。
刃に血が絡む。
少し嫌な手応えが残っていた。
周囲は静かだった。
セバスチャンがゆっくり近づいてくる。
顔には呆れと、少しの安堵が混じっているように見えた。
「これでいいか?」
ギルが尋ねると、セバスチャンは一度サーベルタイガーを見て、それからギルを見た。
「ええ、お見事です」
「呆れてないか?」
「少しだけでさぁ」
「少しか」
「かなり」
「正直だな」
セバスチャンは肩をすくめた。
「若様、受け止める前に一言くださいや。心臓に悪い」
「いや、いけると思って」
「いけるとは思いやしたがね」
「ならいいだろ」
「そういう問題じゃありやせん」
オルドたちも近づいてきた。
誰も怪我はない。
サーベルタイガーは完全に息絶えている。
ギルは自分の外套を見た。爪で少し裂けている。だが、身体には傷一つない。防御魔法はしっかり働いていた。
「防御魔法を身体に沿わせて張ったんですかい」
セバスチャンが言う。
「ああ。球状だと邪魔になるかと思ってな」
「器用なことをしますな」
「こういう使い方、駄目なのか?」
「駄目じゃありやせん。普通はそこまで綺麗に張れねえだけで」
「そうなのか」
「若様の普通は普通じゃありやせんからな」
ギルは少しだけ眉を寄せた。
褒めているのか呆れているのか分からない。
たぶん両方だ。
サーベルタイガーの牙は長く、近くで見るとさらに迫力があった。毛皮も厚い。これを攻撃魔法で焼いていたら、かなり惜しいことになっていただろう。
「高く売れるか?」
ギルが尋ねると、セバスチャンは笑った。
「そりゃもう。牙も毛皮もいい値がつくでしょうな」
「なら剣で正解だったな」
「そこは正解です」
「そこは?」
「受け止めるところは相談したかったですな」
「戦闘中に相談は難しいだろ」
「せめて避けるふりくらいしてくだせえ」
「ふりか」
「周りが焦ります」
ギルは周囲を見た。
オルドは無言だが、目元が少し硬い。クレインは息を吐き、トールは盾を下ろしている。もう一人の直属騎士も、剣の柄から手を離すのが少し遅かった。
確かに心配させたらしい。
「悪かった」
ギルが言うと、セバスチャンが目を細めた。
「珍しい」
「うるさい」
「明日は雪ですかな」
「地下だぞ」
「迷宮なら降るかもしれやせんぜ」
「それはちょっと見たいな」
「見たいんですかい」
セバスチャンが呆れたように笑った。
サーベルタイガーの解体が始まる。
大きいだけあって手間がかかる。牙を傷めないようにし、毛皮へ刃を入れる位置を確認し、血を抜く。ギルは少し離れて感知魔法を広げた。血の匂いに引かれて何かが来るかもしれない。
遠くに小さな反応がある。
近づいては来ない。
いや、一度近づきかけて、離れた。
サーベルタイガーの気配を嫌がったのか、それとも人間の魔力を警戒したのか。
ギルには分からない。
ただ、今は静かだった。
サーベルタイガーの牙が外された。
光を受けて白く鈍く光る。
ギルはそれを見て、少し満足した。
迷宮は、やはり面白い。
火力だけではない。
強さだけでもない。
見ること。
感じること。
受けること。
動くこと。
必要な時に、必要な分だけ力を使うこと。
そういう場所だ。
アル兄さんが担当する理由も、さらに少し分かった気がする。
ギルは剣についた血を拭いながら、森の奥を見た。
淡い光が葉を透かし、下草が静かに揺れている。
迷宮の森はまだ続いている。
危険で、面倒で、素材の宝庫で、少し楽しい。
「若様」
セバスチャンが牙を見ながら言った。
「何だ」
「その顔、また奥に行きたがってやすな」
「少しだけだ」
「少しだけで済めばいいんですがね」
「大丈夫だ。油断はしない」
「本当ですかい」
「たぶん」
「そこは言い切ってほしいもんですな」
昨日と同じようなやり取りになって、ギルは少し笑った。
サーベルタイガーの巨体からは、まだ血の匂いが立っている。
その匂いの向こうで、遠くの魔力反応が一つ、木々の間をゆっくり動いた。
ギルは感知魔法を維持したまま、森の奥を見続けた。