軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第五十話 迷宮の森

石造りの建物の奥で、迷宮の入口は静かに口を開けていた。

外から見た時には、ただの大きな管理施設の一部に見えた。兵が立ち、壁は分厚く、床には何度も人と荷が行き来した跡が残っている。だが、その奥へ進むと空気が変わった。地上の光が背中側へ遠ざかり、石壁に反響する足音が少し低くなる。

ギルは一歩踏み込んだところで、思わず天井を見上げた。

石の建物の中から、下へ向かう道が続いている。

階段ではない。

緩やかな坂だ。

壁は途中から人の手で整えられた石ではなく、自然な洞窟の肌へ変わっていた。岩肌は濡れているわけではないが、冷たく、薄暗い。足元は思ったより歩きやすかった。何度も人が通っているのだろう。土と石が踏み固められ、ところどころに馬車の轍のような浅い跡まである。

「……もっと足場が悪いと思ってたな」

ギルが呟くと、前を歩くセバスチャンが少しだけ振り返った。

「入口近くは整ってやすぜ。荷を出し入れする場所ですからな」

「なるほど」

迷宮と聞くと、どうしても前世の感覚で、いきなり罠だらけの石造りの通路や、不自然な地下遺跡のようなものを想像してしまう。だが、目の前にあるのはもっと生々しいものだった。洞窟。道。何度も踏まれた足元。冷たい空気。暗がりの奥へ続くゆるい傾斜。

前世でゲームをしていた頃なら、ここで少し興奮していただろう。

いや、今もしているかもしれない。

ギルはそれを顔に出さないようにしながら、周囲へ視線を走らせた。

セバスチャンが先頭に近い位置を歩き、その少し後ろにギル。オルド、クレイン、トール、もう一人の直属騎士が周囲を固めている。全員、無駄口は少ない。警戒しているのだろうが、今のところ切迫した気配はない。

壁の向こうから風が来た。

地下のはずなのに、風だ。

土と葉の匂いが混ざっていた。

ギルは眉を動かした。

「外の匂いがするな」

「この先を見りゃ分かりやすいですぜ」

セバスチャンはそう言って、口元を少し歪めた。

道はまだ緩やかに下っていく。

歩くほどに、前方がわずかに明るくなってきた。最初は目の錯覚かと思ったが、違う。洞窟の奥から、ぼんやりとした光が漏れている。太陽の光ではない。少なくとも、ギルが知る朝や昼の光とは少し質が違う。だが、暗闇ではない。

足元の岩肌が消え、土が増える。

冷たい洞窟の空気に、湿った草の匂いが混ざる。

そして、道の先が開けた。

「……おお」

ギルは思わず声を漏らした。

地下のはずだった。

石造りの管理建物から下り、洞窟の道を進んできた。それなのに、目の前には森が広がっていた。

高い天井があるのか、それとも天井と呼ぶべきものがどこか遠くへ溶けているのか、すぐには分からない。上の方は薄く明るく、そこから淡い光が森全体へ降りている。空ではない。だが、完全な岩の蓋でもないように見える。枝葉がその光を受け、地面には細かな影が落ちていた。

木々は密集しすぎていない。

けれど、マバール領の森とは雰囲気が違う。

幹の色が少し淡く、枝の張り方もどこか低い。葉は厚めで、ところどころ青黒く見える。下草は湿っていて、踏むと柔らかく沈みそうだった。空気は重いが、腐った匂いはしない。むしろ冷えた草木の匂いが強い。

北方の森っぽい。

ギルはそう思った。

いや、よく分からんけど。

前世でも植物に詳しかったわけではないし、この世界の植生を体系的に知っているわけでもない。ただ、城の書庫で見た地誌の挿絵や、マバール領内の森と比べると、どこか寒い土地の森のような気配があった。

地下なのに、北方の森っぽい。

意味が分からない。

だが、迷宮だ。

そういうものなのだろう。

ギルは喉の奥で小さく笑った。

驚きはある。

感動もある。

けれど、完全に呆然とするほどではなかった。

迷宮については、城の書庫でそれなりに調べている。地下に空間が広がること、内部環境が地上と異なること、森や水場を持つ迷宮が存在すること。文字としては読んでいた。

やっぱり調べるだろう。

迷宮だぞ。

前世のゲームや物語で散々見た言葉が、今は本当に目の前にある。貴族として必要だから調べた、というのももちろんある。だが、それだけではない。単純に興味があった。

地下に森。

魔物。

素材。

魔石。

これで興味を持つなという方が難しい。

「若様」

セバスチャンの声で、ギルは視線を戻した。

「見惚れるのはいいですが、足元も見てくだせえ」

「分かってる」

「本当ですかい」

「たぶんな」

「そこは言い切ってほしいもんですな」

セバスチャンが呆れたように笑う。

ギルは一歩踏み出した。

土は柔らかすぎない。入口近くはやはり踏み固められている。探索者や荷運びが日常的に通るためだろう。森の入り口でありながら、人の道があった。

少し進むと、木を叩く音が聞こえた。

乾いた音。

斧が幹へ食い込む音だ。

ギルがそちらを見ると、数人の男が木を切っていた。服装はばらばらで、鎧らしいものを着ている者もいれば、厚手の上着だけの者もいる。迷宮にいるのだから彼らも探索者なのだろう。体に汚れはあるが、ひどく消耗している様子はない。

木のそばには、すでに切り出された枝や幹が積まれていた。

「迷宮の中で木こりの真似か?」

ギルが言うと、セバスチャンが頷いた。

「あれは薪の木ですな」

「薪の木」

「見るのは初めてですかい」

「ああ。話には聞いてたが、実物は初めてだ」

ギルは切られている木を見る。

ぱっと見ただけでは、普通の木と大きく違うようには見えない。幹は太すぎず、枝もそれなりに伸びている。だが、切り口が妙に瑞々しい。斧で打たれるたびに、薄い香りが空気へ広がった。

「薪の木って一種類の木じゃないんだったか」

「そうですな。似た性質の木をまとめてそう呼んでやす」

「朝切っても夕方には伸びてる、ってやつか」

「ええ。まあ、全部が全部同じ速さじゃありやせんが、外の木とは比べもんにならねえほど早い」

セバスチャンの声を聞きながら、ギルは切られた木の根元を見た。

古い切り株がある。

その横から若い幹が伸びている。

さらに別の根元には、切られた跡がいくつも重なっていた。一本の木というより、何度も刈られ、また伸びた跡だ。

なるほど。

これは確かに薪の木だ。

「切って持ち出せば最低限の金にはなるんでさ」

「いい素材や魔石を見つけられなくても、探索者として食えるってことか」

「まあ、食うだけなら、ですな。大儲けとはいきやせん」

「それでも十分だろ」

ギルは切り出された木の束を見た。

地上で燃料にする木を取り続ければ、森は傷む。もちろん、マバール家の領地管理がある以上、好き勝手に伐採させるわけではないだろう。だが、迷宮内から再生の早い木を持ち出せるなら、地上の森への負担は減る。

迷宮は危険なだけではない。

資源だ。

しかも、思ったより生活に近い資源だった。

魔石や珍しい素材ばかりではない。薪。肉。皮。骨。そういうものが、迷宮の周囲に人を集め、店を作らせ、管理施設を置かせる。

ギルが見ていると、木を切っていた男の一人がこちらに気づいた。

最初は警戒した顔だった。

だが、セバスチャンとギルの装備、それに周囲の直属騎士たちを見て、すぐに顔色が変わる。相手が身分の高い者だと察したのだろう。斧を持つ手を下げ、慌てて頭を下げた。

「邪魔したか?」

ギルが声をかけると、男はさらに背を丸めた。

「い、いえ、とんでもございません」

「薪の木を切っているんだろ」

「はい。今日は入口近くで済ませるつもりで」

男の後ろにいた若い探索者たちも、作業を止めてこちらを見ていた。目が落ち着かない。貴族と話す機会など、そう多くはないのだろう。

ギルは彼らを見て、少しだけ声を軽くした。

「この辺りは安全なのか?」

「入口近くは、まあ。魔物が出るのは、だいたいこの先の小川を越えた辺りからです」

「小川?」

「はい。森の中を流れてます。そこを越えると、フォレストディアやホーンラビットが出やすくなります」

フォレストディア。

ホーンラビット。

なるほど、分かりやすい名前だ。

ディアと鹿を区別しやすいし、ラビットも普通のウサギではないとすぐ分かる。こういう命名はありがたい。

「奥に行くと?」

ギルが尋ねると、男は少し困った顔をした。

「俺たちはそこまで深くは行きません。聞いた話だと、さらに進めばサーベルタイガーが出るとか」

「聞いた話か」

「はい。俺たちは薪の木と、たまに小物を狙うくらいで」

新人寄りなのだろう。

それを恥じているようにも見えたが、悪い判断ではない。自分たちの力量を超えて奥へ行き、戻ってこないよりずっといい。

ギルは頷いた。

「助かった。邪魔したな」

「い、いえ」

男たちはもう一度頭を下げた。

ギルたちが離れると、背後で斧の音が再開する。少しだけ硬く、さっきより力が入っているように聞こえた。

セバスチャンが横で笑う。

「緊張させちまいましたな」

「俺のせいか?」

「若様のせいですな」

「何でだよ」

「どう見ても貴族ですからな」

「隠してないしな」

ギルは肩をすくめた。

薪の木を切る探索者たち。

小川の向こうから出る魔物。

奥にはより危険な肉食の魔物。

書庫の文字で知る迷宮と、実際に見て聞く迷宮はかなり違う。

地下に森があり、そこに木が伸び、探索者がそれを切り、魔物が棲み、人間が資源を持ち出す。

前世のゲームで言うダンジョンより、ずっと生臭い。

それがよかった。

ギルは少しだけ胸が高鳴るのを感じながら、森の奥へ視線を向けた。

進むほど、人の気配は薄くなっていく。

入口近くの踏み固められた道はまだ続いているが、周囲の下草は深くなり、木々の間隔も少し詰まってきた。頭上の淡い光は変わらない。風もある。だが、地上の森とは違い、鳥の声が少なかった。

代わりに、葉擦れの音が大きく聞こえる。

遠くで水音がした。

「小川か」

「でしょうな」

セバスチャンは歩きながら答えた。

「若様、迷宮内では派手に攻撃魔法を使わねえ方がいい場面もありやす」

「素材が傷むからか」

「ええ。素材集めを目的とする場合、攻撃魔法はそれほど使いやせん。皮も肉も骨もツノも、売るなら形が残ってる方がいい」

ギルは自分の攻撃魔法を思い浮かべた。

焼く。

貫く。

薙ぐ。

叩き潰す。

どれも魔物を倒すには向いているが、素材を残すには向かない場合がある。特にギルの魔力強度で雑に使えば、魔物の体ごと駄目にしかねない。

「倒せばいいってものでもないわけか」

「そういうこってす」

セバスチャンは森の奥へ視線を向けたまま続ける。

「迷宮内では攻撃魔法より、肉体強化魔法や防御魔法、感知魔法の方が大事ですな」

「攻撃より?」

「ええ。まず見つける。避ける。受ける。動く。迷宮じゃそっちが生死を分けやすい」

ギルは少し黙った。

確かに、迷宮は広い戦場ではない。

木があり、草があり、視界が遮られる。今いる場所はまだ開けている方だが、奥へ行けばもっと狭くなるだろう。そこで攻撃魔法を派手に使えば、素材が傷むだけではなく、余計なものを巻き込む可能性もある。

魔物を探すなら感知魔法。

接近や回避なら肉体強化魔法。

不意の攻撃を防ぐなら防御魔法。

攻撃魔法は最後の手段、あるいは素材を気にしない場面の手段。

そう考えると、迷宮はギルが得意な火力だけで押す場所ではない。

「魔力持ちじゃない探索者もいるのは、その辺りも理由か」

「そうですな。魔力がなくても、腕が良けりゃ素材を傷めず仕留められやすい。もちろん、魔物相手ですから危険は危険ですがね」

「なるほど」

ギルは前方の木々を見た。

普通の森のように見える。

だが、ここは迷宮だ。

地上の鹿やウサギとは違う魔物がいる。

しかも、名前だけなら草食獣に近そうなフォレストディアやホーンラビットまで、人を襲う。

セバスチャンが言った。

「フォレストディアもホーンラビットも、見た目に騙されねえ方がいいですぜ。あいつらは人間を見ると襲ってくることがある」

「鹿やウサギっぽくても?」

「ここじゃ人間の方が異物ですからな。草を食ってるように見えても、肉を食う魔物は珍しくありやせん」

「嫌な森だな」

「迷宮ですからな」

セバスチャンは当たり前のように言った。

ギルは小さく息を吐く。

この世界では、魔物は現実だ。

名前が可愛いから危険ではない、などということはない。ホーンラビットなど、前世感覚なら低級モンスターの代表みたいな名前だが、この世界では普通に人を殺すのだろう。

「魔物は魔力があるから、感知魔法で分かるんだよな」

「基本はそうですな」

「基本は?」

「弱い魔物は魔力も弱い。慣れてねえと見落とすことがありやす。草や木に紛れて動かねえ奴もいる。まあ、この程度の迷宮なら大丈夫ですが、油断は禁物ですな」

「油断してないぞ」

「さっき森を見て目ぇ輝かせてた人が言っても説得力が薄いですぜ」

「うるさい」

ギルは顔をしかめた。

だが、セバスチャンの言うことは正しい。

感知魔法は魔力を拾う。

物理的な姿が見えるわけではない。

弱い反応を見落とせば、草むらから飛び出された時には遅いかもしれない。まして素材を傷めないよう攻撃魔法を控えるなら、近づかれる前に気づくことが重要になる。

ギルは感知魔法を広げた。

魔力を薄く伸ばし、自分を中心に周囲へ広げる。

地上の森と違い、迷宮の中には独特のざわめきがあった。木々そのものからも、ごく薄い反応が散っているように感じる。強くはない。だが、何もない空間とは違う。そこへ、自分たちの魔力反応がはっきり浮かぶ。セバスチャン、オルド、クレイン、トール、もう一人の直属騎士。それぞれの強さや揺れ方が違う。

遠くに、小さな点があった。

微弱。

動きは遅い。

魔物か、別の何かか。

ギルは眉を寄せた。

「小さい反応がある」

セバスチャンの足が止まる。

「方角は?」

「前方左。少し奥。弱い」

「なら近づきすぎねえように見てみましょう」

全員の動きが変わった。

大声は出さない。

足音も少し抑えられる。

ギルは感知魔法を維持したまま、視線を前方左へ向けた。草の揺れ。木の影。枝の間。目で見てもすぐには分からない。

だが、反応はある。

ゆっくり動いている。

やがて、下草の奥で何かが跳ねた。

小さい。

ウサギに似ている。

ただし、額から短い角が生えていた。

ホーンラビットだろう。

名前通りで助かる。

ギルがそう思った瞬間、その小さな魔物がこちらへ顔を向けた。

丸い目。

揺れる耳。

前世の感覚なら可愛いと思うかもしれない。

だが、その目は怯えていなかった。

逃げない。

むしろ、後ろ脚に力が入った。

「来ますぜ」

セバスチャンの声が低くなる。

ホーンラビットが跳んだ。

速い。

普通のウサギの跳ね方ではない。地面を蹴った瞬間、身体が矢のように伸びる。角が先端になり、まっすぐギルの腹へ向かってきた。

ギルは反射的に攻撃魔法を使いかけた。

だが、すぐに止める。

素材が傷む。

いや、ホーンラビット一匹の素材がどれほどの価値かは分からないが、練習だ。迷宮では攻撃魔法以外が大事だと言われたばかりだ。

横からセバスチャンが動いた。

肉体強化魔法で踏み込んだのだろう。動きが鋭い。剣ではなく、短く持った刃で角の軌道を逸らし、そのまま首筋を切った。

ホーンラビットは地面を転がり、数度跳ねるように痙攣して止まった。

血の匂いが草の湿りに混ざる。

「……速いな」

「油断すると腹に穴が空きますぜ」

「ウサギなのに」

「ホーンラビットですからな」

セバスチャンが当然のように言う。

ギルは倒れた魔物を見た。

小さい。

だが、角は硬そうで、身体の筋肉も地上のウサギとは違って見える。跳ねるための後ろ脚が太い。可愛い動物ではない。小型の突撃する魔物だ。

「これも食えるのか?」

「食えますが、今日の目当てはもう少し大きい方がいいですな」

「フォレストディアか」

「ええ。肉も取れますし、皮も使えます」

セバスチャンはそう言って、ホーンラビットを手早く処理するようオルドへ目配せした。オルドは無言で頷き、魔物を拾う。動きに迷いはないが、雑ではない。素材を傷めないようにしているのが見て分かった。

さらに進む。

小川の音が近くなった。

森の中を細い水が流れている。水は澄んでいて、底の石が見えた。地下にある森の中の小川。意味だけ考えるとかなり奇妙だが、目の前の水は普通に冷たそうだった。

ギルは小川の手前で立ち止まった。

向こう側の森は、少しだけ暗い。

木の間隔は大きく変わらないのに、下草が濃く、視界が悪い。探索者が言っていた通り、この辺りから魔物が出やすくなるのだろう。

「ここからが本番か」

「入口近くよりは、ですな」

「ここはまだ浅いんだろ」

「ええ。古い迷宮なら、こんなもんじゃ済みやせん」

セバスチャンは小川の向こうを見たまま続ける。

「ここはまだそれほど古い迷宮じゃありやせん。内部もそこまで広がってねえし、魔物も手に負えねえほどじゃない」

「古い迷宮は違うのか」

「中が成長しますからな。広くなり、深くなり、魔物も強くなる。そういう場所は、もっと厳しく管理されやす」

「迷宮が成長する、か」

ギルは森の奥を見た。

確かに、ただの地下空間ではない。

木が生え、薪の木が再生し、魔物が湧く。そこに成長という言葉が使われても、あまり不自然ではなかった。

生き物みたいだな。

そう思ったが、口には出さない。

迷宮が本当に生き物かどうかなど、今のギルには分からない。書庫で読んだ知識にも断定はなかった。分からないことを、分かったように言う必要はない。

小川を越える。

水音が背後へ回ると、森の空気がさらに湿った。

ギルは感知魔法を維持した。

薄く広げた魔力の中に、弱い反応がいくつか浮かぶ。遠いもの。動かないもの。ゆっくり移動するもの。全てが魔物とは限らない。だが、先ほどのホーンラビットより大きい反応が、前方右手にあった。

「前方右。さっきより大きい」

ギルが言うと、セバスチャンが頷いた。

「姿を見ましょう」

一行は少し速度を落とした。

下草の間を進む。

やがて、木々の向こうに茶色い背が見えた。

鹿に似ている。

だが、地上の鹿より肩が厚く、首が太い。角は枝分かれしているが、先端が妙に鋭い。口元に草を咥えているのに、目はこちらを見ていた。逃げる気配はない。

フォレストディア。

たぶんそうだ。

名前の通り、森のディア。

普通の鹿ではなく、迷宮の魔物。

「一頭か」

「見える範囲では」

セバスチャンが低く答える。

ギルは感知魔法を少し広げた。

近くに似た反応はない。

少なくとも、すぐ近くに群れはいない。

フォレストディアが頭を上げた。

口元の草が落ちる。

前脚が地面を掻いた。

逃げない。

来る。

ギルがそう思った瞬間、フォレストディアは突進してきた。

地上の鹿が逃げる時の軽さではない。

重い。

角を低く構え、首の筋肉を膨らませるようにして、まっすぐこちらへ走る。下草が裂け、湿った土が跳ねた。

セバスチャンが横へずれた。

トールが肉体強化魔法で前に出る。

真正面から受けるのではなく、角の軌道をずらすように盾を入れた。防御魔法も薄く張ったのか、ぶつかった瞬間に鈍い音が響き、トールの足が少し土へ沈む。

フォレストディアの体勢が崩れた。

そこへオルドが横から入る。

剣が首筋へ走った。

一撃で完全には倒れない。

フォレストディアが暴れ、角を振る。クレインが後ろ脚の動きを止めるように斬り、セバスチャンが最後に急所へ刃を入れた。

大きな身体が地面へ倒れる。

草が潰れ、土が跳ね、血の匂いが広がった。

ギルはその一連の動きを見ていた。

攻撃魔法なら、一瞬だったかもしれない。

焼き払うように撃てば倒せる。

貫くように撃っても倒せる。

だが、それでは肉も皮も傷む。今のように動きをずらし、脚を止め、急所へ刃を入れる方が、素材は残る。

迷宮での戦い方。

ギルは少しだけ理解した気がした。

「若様、今のくらいなら攻撃魔法は要りやせん」

「分かる。見てるとよく分かる」

「危なくなったら別ですぜ。素材より命ですからな」

「そこは分かってる」

ギルは倒れたフォレストディアへ近づいた。

近くで見ると、やはり鹿とは違う。

目つきが鋭い。

歯も草食獣のそれだけではないように見えた。口元には硬そうな歯があり、顎も強い。角はただの飾りではなく、武器だった。

「こいつ、人を食うのか?」

「腹が減ってりゃ食うでしょうな」

「鹿っぽいのに」

「フォレストディアですからな」

またそれか。

ギルは少し笑った。

だが、納得もしている。

地上の鹿ではない。

名前が似ていても、魔物だ。

オルドたちが解体の準備を始める。

ギルは邪魔にならない位置へ下がり、手際を観察した。血を抜き、皮を傷めないよう刃を入れ、肉を分けていく。森の中でやるには慣れが必要な作業だ。匂いも出る。時間をかけすぎれば、他の魔物を寄せるかもしれない。

セバスチャンは周囲を見ていた。

ギルも感知魔法を広げたままにする。

血の匂いが漂う中、小さな反応が遠くで動くのを感じた。

近づいては来ない。

いや、迷っているのかもしれない。

魔物の考えなど分からない。

「血の匂いで寄るか?」

「寄る奴もいますぜ」

「面倒だな」

「迷宮ですからな」

「便利な言葉だな、それ」

ギルが言うと、セバスチャンは笑った。

フォレストディアの処理が終わる頃には、ギルの腹も少し減っていた。

迷宮内の森は、時間の感覚が少し狂う。上から降る光は変わりにくく、外の太陽の傾きが分からない。地上なら影の長さでなんとなく分かることも、ここでは曖昧だった。

それでも身体は時間を覚えている。

朝から歩き、緊張し、魔物を見て、感知魔法を使い続けている。貴族の身体が頑丈とはいえ、腹は減る。

少し開けた場所で休むことになった。

周囲の反応を確認し、セバスチャンが場所を選ぶ。木々の間がやや広く、小川からも遠すぎない。視界はそこそこ通り、背後を完全に取られにくい。

火を起こす。

フォレストディアの肉が切られ、串に刺された。

脂が落ちる。

じゅっと音がして、匂いが広がった。

ギルは思わず喉を鳴らした。

「美味そうだな」

「実際、悪くありやせんぜ」

「迷宮の魔物なのに」

「食えるやつは食えますからな」

セバスチャンが肉を返す。

焼けた表面が濃い色になり、脂が光った。塩が振られ、香ばしい匂いがさらに強くなる。保存食の硬い干し肉とは全然違う。

ギルは渡された肉を受け取った。

熱い。

指先で少し持ち替え、かぶりつく。

肉汁が口の中へ広がった。

「……美味いな」

思ったより、ずっと美味い。

脂が乗っている。

臭みは少しあるが、嫌なほどではない。むしろ野性味としてちょうどいい。噛むと弾力があり、肉の味が濃かった。地上の鹿肉と比べられるほど鹿を食べ慣れているわけではないが、これは普通にごちそうだ。

「これなら人気出るだろ」

「だから素材になるんでさ。肉も皮も角も売れる。魔石が取れりゃなお良し」

「なるほどなぁ」

ギルはもう一口食べた。

迷宮は危険だ。

ホーンラビットですら腹に穴を空けにくる。フォレストディアも鹿の顔をして人へ突っ込む。奥にはサーベルタイガーのような肉食の魔物がいるらしい。古い迷宮ならもっと広く、強力な魔物もいる。

だが、ここには資源がある。

薪の木。

肉。

皮。

角。

骨。

魔石。

探索者が集まり、商人が集まり、兵が管理する理由が、少しだけ腹に落ちた気がした。

ギルは串の肉を噛みながら、森の奥を見た。

淡い光が葉の上で揺れている。

地下の森。

迷宮。

危ない。

面倒。

だが、面白い。

前世の記憶にあるどんなゲームよりも、ずっと生々しく、ずっと現実的で、そして今の自分の家に関わる場所だった。

「若様」

セバスチャンが声をかける。

「何だ」

「楽しくなってきた顔してやすぜ」

「そうか?」

「ええ」

「まあ、少しな」

ギルは肉を飲み込んだ。

「迷宮、思ったより面白い」

「油断は禁物ですぜ」

「分かってる」

「本当ですかい」

「たぶんな」

「そこは言い切ってほしいもんですな」

セバスチャンが呆れたように笑う。

ギルも少し笑った。

手の中のフォレストディアの肉は、まだ温かい。

森の奥には、まだ見ていない魔物がいる。

ギルはもう一度、感知魔法を薄く広げた。

自分たちの周囲に、淡い反応がいくつか浮かぶ。

近くは静かだ。

遠くで、小さな魔力が動いている。

迷宮の森は、何も言わずにそこに広がっていた。