軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第五話 走れない兵は死んだ兵

朝の空気は、妙に澄んでいた。

まだ日が高くなる前の時間帯。城壁の上を撫でる風は冷たく、石畳に落ちる影も短い。こんな時間に外へ出るのは久しぶりな気がする。

中庭の外、城の外周に近い場所で、ギルは腕を組みながら目の前の老騎士を見ていた。

セバスチャン。

昨日見た印象は、今朝になってもまったく変わっていない。

むしろ、明るいところで見ると余計にひどい。顔の傷の一本一本がはっきりと見え、削げた耳の跡が生々しい。鎧も昨日と同じだが、よく見れば細かな補修の跡がいくつもある。使い捨てではなく、長く戦場を潜り抜けてきた道具だと分かる。

正直に言って、あまり近くにいたくないタイプだ。

だが、今日はこいつに教わる日だ。

ギルは小さく息を吐いた。

戦場に出る前の訓練。

そう聞いたとき、少しだけ安心した自分がいた。

いきなり実戦に放り込まれるわけではない。多少は段階を踏むらしい。あの見た目に反して、案外常識的なのかもしれない。

そう思いかけていた。

「若様」

セバスチャンが口を開く。

「本日より、訓練を開始いたします」

「ああ」

短く返す。

ここまでは、まあ普通だ。

組み手とか、剣の振り方とか、そういうものをやるのだろう。魔力を使った戦い方もいずれ教わるはずだ。いきなり本番ではないのだから、その前段階としての基礎訓練――そういうものを想像していた。

だから、次の一言で思考が止まった。

「魔力の使用は一切禁じます」

風が一瞬、止まった気がした。

「……は?」

思わず声が出る。

今、何て言った?

「魔力の使用は一切禁じます」

聞き間違いではないらしい。

同じ言葉を、同じ調子で繰り返された。

ギルは目を瞬かせた。

理解が追いつかない。

いや、言葉の意味自体は分かる。魔力を使うな、ということだろう。だが、それが何を意味しているのかが分からない。

ここは魔力のある世界だ。

魔力があるからこそ貴族は貴族であり、魔力が強いからこそ価値がある。戦いにおいても同じだ。魔力を使った攻撃、魔力での強化、それが戦場の基本だと、少なくともギルはそう認識していた。

それを、使うな?

何の意味があるんだ。

言葉には出さない。

出さないが、顔には出ていたのかもしれない。

セバスチャンはわずかに口の端を上げた。

「若様」

「……何だ」

「戦場では、いつでも自由に魔力が使えるわけではありません」

淡々とした口調だった。

「魔力を使えば、敵の感知魔法に必ず引っかかります」

その言葉に、ギルはわずかに眉を寄せた。

……まあ、それはそうか。

言われてみれば当然だ。

魔力はただの力ではない。流れがあり、痕跡が残る。強い魔力を放てば、それだけ周囲に影響を与える。感知系の魔法があれば、目立つのは当たり前だ。

前世の銃声みたいなものかもしれない。

撃てば位置がバレる。

それと同じ理屈だと考えれば、納得はできる。

「しかも」

セバスチャンは続ける。

「若様の魔力は、非常識なほど多く、強い」

ぴくり、とこめかみが動いた。

非常識って、失礼ちゃうかこのオッサン。

内心で毒づく。

いや、事実かもしれないが、言い方というものがあるだろう。

「目立ちます」

追い打ち。

ぐうの音も出ない。

「ですので」

セバスチャンは一歩、間合いを詰める。

「若様はまず、魔力を抑えることを学ばなくては、戦場では役に立たないでしょう」

腹が立つ。

かなり立つ。

役に立たない、とはっきり言われた。

それも、昨日会ったばかりのこの傷だらけのオッサンに。

だが。

その腹立ちとは別のところで、冷静な思考も動いていた。

どう見ても、この男は俺より遥かに実戦経験がある。

見れば分かる。

傷の数が物語っている。

俺は戦場を知らない。迷宮にすらまともに入ったことがない。前世の知識はあるが、それはこの世界の実戦とは別物だ。

この世界には、この世界のルールがある。

それを無視して、自分の浅い知識で判断するのは危険だ。

――それは、この世界に来てから何度も学んできたことだ。

パンケーキ一つ作るにしても、思った通りにはいかない。素材も違えば、火加減も違う。馬車の改良だってそうだ。理屈だけではうまくいかない。試して、失敗して、直して、ようやく形になる。

戦場なら、なおさらだ。

ここで意地を張っても意味がない。

ギルは小さく息を吐いた。

「……分かった」

素直に言う。

「それで、俺は何をすればいい?」

セバスチャンは一瞬だけ目を細めた。

その反応の意味は分からない。

だが、次の言葉はあっさりしていた。

「まずは、鎧を着て走ります」

「……はい?」

間抜けな声が出た。

走る?

鎧を着て?

何で?

「走れない兵は、死んだも同じです」

即答だった。

ギルは言葉を失った。

意味が分からない。

いや、分かる。

分かるが、納得できない。

訓練ってそういうものなのか?

剣とか槍とか、そういうのじゃないのか?

鎧を着せられる。

思った以上に重い。

普段、装飾として着る軽いものとは違う。実戦用だ。金属と革が組み合わさり、体にぴったりと沿うように作られているが、その分、重量がずしりと乗る。

肩が引かれる。

腰が重い。

足首にまで負担が来る。

これで動くのか。

「では」

セバスチャンは軽く足を鳴らした。

「参りましょう」

そのまま、走り出した。

待て。

準備運動とかないのか。

そう思った瞬間には、もう背中が遠ざかり始めている。

「……ちょ、待て!」

慌てて追う。

走る。

鎧が重い。

普段なら、ここで自然と肉体強化魔法を使う。

足の筋肉に魔力を流し、負担を軽減する。

だが、使えない。

使うなと言われている。

使ったらどうなるか。

たぶん、このオッサンは見逃さない。

そして、その後が面倒くさいことになる気がする。

仕方なく、素の体で走る。

きつい。

いきなり分かる。

呼吸がすぐに荒くなる。

足が重い。

鎧が擦れる音が耳障りだ。

セバスチャンは前を走っている。

速くはない。

むしろ、かなり遅い。

俺に合わせているのかもしれない。

だが、止まらない。

一定のペースで、淡々と走り続ける。

それが逆にきつい。

スピードが上がらない分、負荷がじわじわと蓄積していく。

日が昇る。

影が短くなる。

汗が背中を伝う。

喉が渇く。

足が重くなる。

呼吸が荒くなる。

それでも、前の背中は変わらない。

一定の距離を保ったまま、同じリズムで動き続けている。

どれくらい走ったか分からない。

時間の感覚が曖昧になる。

ただ、きついという感覚だけがはっきりしている。

もういいだろ。

そろそろ止まるだろ。

そう思う。

だが、止まらない。

どこまで行くんだ。

たまらず、口を開いた。

「おい……!」

息が上がっている。

「いつまで走るんだよ!」

セバスチャンは振り返らない。

そのまま答える。

「このまま夜まで走ります」

思考が止まった。

「……は?」

「夜までです」

繰り返された。

本気だ。

本気で言っている。

その理解が追いついた瞬間、口から言葉が飛び出した。

「本気かよ!」

思わず怒鳴る。

「本気です」

即答。

「言ったでしょう。走れない兵は、死んだ兵だと」

「いや、聞いたけど!」

足がもつれそうになるのを踏ん張りながら叫ぶ。

「いきなり夜までってキツくないか!?」

理不尽だろ。

初日だぞ。

段階ってものがあるだろ。

そう言いたい。

だが。

「甘く優しい訓練が、役に立つとでも?」

返ってきた言葉は、それだけだった。

そこで。

何かが、切れた。

「分かってるよ、そんなことは!」

気づけば怒鳴っていた。

「分かってるけど、普通もっと段階ってもんがあるだろうが!」

「なんで初日からこんな地獄なんだよ、このど畜生!」

一瞬の静寂。

次の瞬間、セバスチャンが笑い出した。

腹の底からの、大きな笑い声だった。

「はっはっはっはっ!」

足を止めないまま笑っている。

「若様、そのくらい口が回るならまだ走れますな!」

「うるせぇ!」

叫び返す。

だが、足は止めない。

止めたら終わりだと、本能が告げている。

走る。

走る。

走る。

日が高くなる。

影が消える。

汗が目に入る。

視界が揺れる。

足の感覚が怪しくなる。

それでも、前の背中は変わらない。

一定のペース。

絶妙な配分。

速くないが、遅すぎもしない。

ついていける。

だが、余裕はない。

限界の少し手前を、ずっと走らされている感覚だ。

どれだけ時間が経ったのか分からない。

空が赤くなり始めた頃、ようやくセバスチャンが足を止めた。

その瞬間、ギルの膝が崩れた。

その場に落ちる。

呼吸が荒い。

胸が痛い。

足が動かない。

地面に手をつき、肩で息をする。

「はぁ……はぁ……」

声にならない。

ようやく、顔を上げる。

「……これ……いつまで……やるんだよ……」

絞り出すように言う。

セバスチャンは振り返った。

表情は変わらない。

「そうですな」

少しだけ考える素振り。

「今の倍の速さで、夜まで走り続けられるまでですな」

一瞬、理解できなかった。

倍の速さ。

それはつまり。

倍の距離。

意味を理解した瞬間、声が出た。

「冗談じゃねぇぞ、このクソじじい!」

「倍って何だよ倍って! 殺す気か!」

息も絶え絶えに怒鳴る。

セバスチャンは目を丸くしたあと、すぐに楽しそうに笑った。

「おや、よくお分かりですな」

こいつ、ぶん殴っていいか。

本気でそう思った。

だが、殴る体力もない。

「では」

セバスチャンはあっさりと背を向ける。

「明日の朝、同じ場所で」

そのまま歩き出す。

いや、歩くどころか、普通にスタスタと去っていく。

止める余裕もない。

ギルはその場に取り残された。

しばらく動けなかった。

呼吸が落ち着くまで、どれくらい時間がかかったか分からない。

ようやく立ち上がる。

足が震える。

その場で、自分に治癒魔法をかける。

淡い光が体を包む。

だが。

「……効かねぇ」

小さく呟く。

怪我ではない。

筋肉の疲労だ。

治癒魔法は傷には効くが、疲労にはあまり効かない。

分かっていたが、こうして実感すると腹が立つ。

ふらつきながら歩く。

鎧が重い。

脱ぐ気力もない。

城へ戻るまでの道が、やけに長く感じた。

足を引きずるようにして部屋へ戻る。

扉を開ける。

中に入る。

「若様!」

レティシアの声が飛んできた。

駆け寄ってくる。

「大丈夫ですか!」

顔を覗き込まれる。

近い。

いつもの距離だが、今はそれどころではない。

「ああ……まぁまぁ……大丈夫だ……」

強がる。

本当は全然大丈夫じゃない。

だが、レティシアの前で弱音を吐くのもどうかと思う。

いや、もう吐いてる気もするが。

「お座りください」

レティシアが手を引く。

素直に従う。

椅子に腰を下ろすと、どっと力が抜けた。

レティシアがすぐに動く。

水を用意し、布を浸し、膝をつく。

足に触れる。

冷たい。

気持ちいい。

「……はぁ」

思わず息が漏れる。

張り詰めていたものが、一気にほどける。

レティシアの手が、ゆっくりと足を揉む。

力加減が絶妙だ。

痛いが、気持ちいい。

筋肉の奥に溜まったものが、少しずつ流れていく感覚。

これだ。

これがあるから、まだ耐えられる。

「レティシア」

「はい」

「あのクソじじい知ってるか?」

まだ感情が落ち着いていない。

口調が荒い。

レティシアは少しだけ目を瞬かせた。

「セバスチャン様のことですか」

「ああ」

「はい。騎士たちの間では、それなりに有名ですから」

そうなのか。

知らなかった。

これまで、男の騎士たちにあまり興味がなかったせいだろう。

「有名って、どんなふうに?」

レティシアの手は止まらない。

足を揉みながら、静かに答える。

「騎士の誇りという者もいますし」

一瞬、間。

「騎士の屑という者もいます」

なるほど。

分かりやすい。

「……誇りと屑ね」

思わず笑いそうになる。

なんとなく、納得できる。

あのオッサンは、どっちにもなり得る。

戦場では頼りになるのだろう。

だが、日常で関わりたいかと言われれば、全力で遠慮したい。

「若様」

レティシアが顔を上げる。

「今日はこのまま、お休みください」

真剣な声だった。

心配しているのが分かる。

だが。

「……何言ってるんだ」

ギルは眉をひそめた。

レティシアがぽかんとする。

「え?」

「きっちり英気を養わないとな」

そう言って、立ち上がる。

まだ足は重い。

だが、動けないほどではない。

レティシアの手を取る。

「若様?」

「来い」

そのまま、寝台へ引く。

レティシアが一瞬驚いた顔をする。

だが、すぐに力を抜いた。

受け入れる。

その仕草に、妙に安心する。

どれだけ疲れていても、ここに戻ってくる。

その感覚が、もう当たり前になっていた。

寝台に倒れ込む。

体が重い。

だが、隣にレティシアがいるだけで、少し楽になる気がする。

明日も走る。

あのクソじじいと。

そう考えると、少しだけ憂鬱になる。

だが。

それでも、やるしかない。

レティシアを側に置くためにも。

そのための力を手に入れるためにも。

ギルは目を閉じた。

疲労と、温もりと、わずかな決意を抱えたまま。