軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第四話 昼の初陣

城の上の方にいる人間というのは、思っていたより暇なのかもしれない。

――と、もしこの場にギルバート・マバールがいたなら、そんな失礼なことを考えたかもしれない。

だが、彼はここにいない。

重たい扉を閉じた先、厚い絨毯が音を吸い込む部屋の中で、男たちと数人の女たちは、ひどく真剣な顔をして一人の少年の話をしていた。

壁際には火の入った燭台が並び、窓にはまだ夜の名残りが張りついている。机の上には湯気の消えかけた茶器と、開いたままの帳面がいくつか置かれていた。どれも今日の議題とは関係があるようで、しかし誰一人、紙に目を落としてはいない。

「……喜ばしいことではある」

最初に口を開いたのは、白髪の混じる初老の家臣だった。声は慎重で、言葉を一つ一つ選んでいるのが分かる。

「若様が女性に関心を持ち、実際に関係を持たれた。それ自体は、家にとって悪い話ではありません」

その言葉に、何人かが静かに頷いた。

否定する者はいない。

貴族にとって魔力を持つ子を成すことは、ただの私事ではない。家の存続であり、領地を守るための戦力であり、迷宮と魔物に対抗するための責務でもある。男子なら尚更だ。生まれつきどれだけ強い魔力を持っていても、女に興味を示さず、子を作らなければ意味がない。

だから、ギルバートがレティシアと関係を持ったと知れたとき、この部屋の人間の何人かは内心で安堵していた。

問題は、その先だった。

「だが、少々――いや、かなり執着が強い」

別の男が言った。

彼は若くはないが、先ほどの初老の男よりは幾分血気が残っているように見えた。軍務に関わる家臣だ。実際、腕を組んだその指先には細かな古傷がいくつも走っている。

「毎夜のように呼ばれているそうだな」

「呼ばれているどころか、レティシア殿の就寝前の担当が事実上固定されております」

さらりと応じたのは、メイド長だった。年齢を感じさせない背筋の伸びた女である。淡々とした口ぶりだが、その実、こういう話題をここまで平然と口にできるのは彼女くらいのものだろう。

「本人たちに隠しているつもりはないのか?」

「隠しているつもりはおありなのでしょう」

メイド長はわずかに首を傾げた。

「ですが、隠しきれてはおりません」

そこで、数人が苦い顔をした。

ギルが浮かれている。

それは、もうこの部屋にいる者なら全員が薄々感じていたことだ。開発拠点へ向かう足取り、朝食時のわずかな目線、レティシアへ向ける声音の柔らかさ。露骨ではない。露骨ではないが、ずっと観察してきた者たちには分かる。

そして、レティシアの方も。

表では崩れない。崩れないが、ほんのわずかなところに変化はある。頬の熱、間の取り方、若様という呼び方の息づかい。そういう微細な差を拾える人間が、この城には少なくない。

「引き離しますか?」

あまりにも直截な問いに、部屋の空気が少しだけ硬くなった。

「駄目だ」

即座に答えたのは、先ほどの軍務の男だった。

「いくら何でもそれは危険が過ぎる」

「同感です」

別の家臣も口を開く。

「若様は今、非常に健全な方向へ熱を持っておられる。あれを無理に冷ませば、最悪、女性に対して興味そのものを失われる恐れがある」

「あるいは反発されるでしょうね」

メイド長の言葉は静かだった。

「その場合、誰に向かうか分かりません。レティシアを守ろうとされる形での反抗なら、なお厄介です」

厄介どころの話ではない。

部屋の中にいる者たちの何人かは、そこで同じ想像に辿り着いていた。

ギルは若い。まだ正式に家の外で実績を示した段階ではない。だが、魔力量と魔力強度は異常だ。幼少の頃からその片鱗はあったし、今ではそれを隠しきれてもいない。本人が本気で反発した場合、ただ叱って済むとは到底思えなかった。

しかも相手がレティシアだ。

有力騎士家の娘であり、幼少から若様の側に置かれ、忠誠心も高く、能力もある。単なる遊び相手ではない。下手に扱えば、若様本人だけでなく、その周囲まで荒れる可能性がある。

「では、どうする」

低い声で問うたのは、ガルシア・マバールだった。

部屋の空気がさらに一段、引き締まる。

当主が口を開けば、結局はそこへ話が収束する。誰もが分かっているからこそ、先ほどまでそれぞれ勝手に口を挟んでいた者たちも、今は一様に視線を落ち着けた。

ガルシアは椅子の背にもたれたまま、指先で卓を軽く叩いている。表情は読みにくい。怒っているようにも、呆れているようにも見えない。ただ、考えているのだと分かる。

「他の女をあてがってはどうか、という話は出ておりました」

メイド長が口火を切った。

「現に、若様のお好みと思われる者は周囲に相応に配置しております」

それは、昔からの方針でもある。

ギルの好みは本人が隠しているつもりでも、側で見ていればそれなりに察せる。年上で、柔らかい雰囲気があり、胸元が豊かな女。そういう者たちが近くにいれば、いずれ自然とそちらへ手を伸ばすのではないか――そう考えて動いてきた。

だが、結果はどうか。

「若様はレティシア殿以外、ほとんど認識しておられぬように見える」

誰かが苦く言った。

「認識はしておられるでしょう」

メイド長は訂正した。

「ただ、優先順位が極端に低いのです」

「つまり、意味がないと」

「少なくとも今は」

静かな肯定だった。

配置した女たちが悪いわけではない。むしろよく選ばれている。忠誠心もあり、見目も悪くなく、若様の好みに外れない者も多い。それなのに、肝心の若様がレティシアにしか目を向けていない。

熱を冷ますのではなく、別の方向へ向ける。

先ほどから部屋の空気の底に沈んでいた考えが、ようやく形を取り始める。

「女への熱を冷ます必要はない」

軍務の男が、腕を組み直しながら言った。

「むしろ逆だ。若様が女性へ熱を持つのは、貴族家の男として正しい。ならば、その熱を一時、別へ向ければよい」

「別、とは」

問われて、その男は少しだけ笑った。

「戦場です」

その一言で、何人かの顔が変わった。

意外だと思った者もいれば、腑に落ちた者もいる。

「若様は、女との初陣は果たされた」

男は続ける。

「なら、そろそろ昼の初陣も飾る頃合いです。年齢的にも不自然ではない。何より、戦場は男を高揚させる」

それは綺麗な言い方ではない。

だが、この部屋では誰も眉をひそめなかった。むしろ、だからこそ説得力がある。

戦場は、男を変える。

高揚させもするし、冷やしもする。血と火の匂いの中で、自分が何者であるかを嫌でも思い知らされる。そこで得るものが、夜の執着を少しでも別方向へ振るなら、それは十分に意味がある。

「危険では」

「若様の魔力なら、そうそう死にはしません」

誰かの懸念に、別の誰かが返す。

乱暴な言い方だが、これもまた事実に近い。ギルの魔力量と魔力強度は異常だ。経験こそ足りないが、単純な出力だけなら大半の貴族をも上回る可能性が高い。いきなり帝国最前線へ放り込むわけでもない。初陣として手頃な戦場なら、十分に制御可能な範囲だろう。

「問題は、誰につけるかだな」

ガルシアが言うと、部屋の空気が少し変わった。

ここからは実務だ。

若様を戦場へ出す。それ自体は大筋で異論がなくなりつつある。だが、その場で誰が若様を補佐し、必要なら止め、必要なら導くのか。そこが肝心だった。

いくつかの名が挙がった。

上級騎士。砦勤めの副将。領内の巡回を任されている中堅。年齢の近い若い騎士。極端な案として、女騎士の名まで出た。

だが、どれも決め手に欠ける。

「上級騎士はどうだ」

「若様の機嫌を損ねるのを恐れて、必要なことを言えぬでしょう」

「では年の近い者は」

「親しくなりすぎて遊び相手で終わる恐れがあります」

「女騎士という案は」

「若様の熱の向け先を増やすだけかもしれません」

いちいちもっともだった。

結局、若様の規格外の魔力と、今の浮かれ気味の状態の両方を前にすると、中途半端な人材では役に立たないという結論へ寄っていく。

若様が暴走しかけたとき、止められるか。

あるいは、止められなくともついていけるか。

そこが重要だ。

しばらく沈黙が流れたあと、壁際に控えていた老家臣が、遠慮がちに口を開いた。

「セバスチャンは、いかがでしょう」

何人かの顔が一斉にしかめられた。

反応が早かったのは、それだけ名に力がある証拠でもある。

「乱暴すぎる」

即座に反対が出た。

「若様の教育係としては品がない」

「下級騎士だぞ」

「口も悪い。貴族の子に付けるには向かん」

だが、反対の声が出るのと同時に、否定しきれない空気も広がる。

セバスチャン。

下級騎士家の男でありながら、実戦経験だけならマバール家中でも屈指。いや、おそらく最も豊かだ。帝国相手の小競り合い、迷宮から溢れた魔物の討伐、盗賊狩り、越境した平民兵の掃討。綺麗な戦より汚い戦に強い男として知られている。

そして、必勝の騎士。

その言い方がどこまで誇張を含むかはともかく、少なくとも彼が関わった戦で決定的な敗北は記録されていない。

「経験と実績は申し分ない」

軍務の男が静かに言った。

「若様を止められる、という意味では最適かもしれん。少なくとも、中途半端な騎士では逆効果だ」

「だが下級騎士だぞ」

「だからいい」

今度は別の家臣が口を挟む。

「最悪、若様が怒って斬っても、問題が小さい」

その場の何人かが、表情を変えなかった。

誰も綺麗事を言わない。

この部屋では、それが現実だからだ。

上級騎士や名家の嫡男を付けて、若様が反発した場合、こじれ方が面倒になる。だが下級騎士なら、多少乱暴に扱われても家の中で処理できる。

もちろん、本気でそうなることを望んでいるわけではない。だが、最悪の想定をしておくのは当然だ。

「セバスチャン本人は引き受けるか?」

誰かが問う。

「引き受けるでしょう」

軍務の男が即答した。

「面白がってでも引き受けます」

それは、たぶん正しい。

ガルシアはしばらく黙っていた。

誰も口を挟まない。

やがて、卓を軽く指先で叩いていた手が止まる。

「セバスチャンを付ける」

それで決まった。

議題は動き出す。

若様をどう戦場へ出すか。どこを初陣の場とするか。どの程度の兵を付けるか。表向きの理由をどう整えるか。開発拠点の予定はどう調整するか。

話は一気に現実へ流れ込んでいく。

ただ一人、それを知らないギルバート・マバールは、その頃、昨夜の余韻をまだ少し残したまま、気持ち良く目を覚ましていた。

いや、少しではない。

かなり残っていた。

まずいな、と思うくらいには。

目を開ける。

天蓋の薄布が朝の光をやわらかく通している。隣を見れば、レティシアの眠る姿――ではない。もう起きたあとらしく、綺麗に整えられた寝台の端だけが残っている。

起きたのか。

少しだけ残念に思う。

それでも、シーツに残る微かな香りで、昨夜のことは十分に思い出せた。

ひと月。

毎晩のようにレティシアと過ごすようになって、もうそれくらい経つ。

我ながらどうかしていると思う。

だが、やめる気は起きない。

むしろ、夜ごとに馴染んでいく感覚があって、最初の頃の緊張が薄れた分、余計に深く沈んでいる気がする。

寝台から起き上がり、顔を洗い、着替えを受ける。

レティシアはそこにいた。

いつもの顔で。

ほんの少し寝不足気味にも見えるが、それでも姿勢は崩れず、声もいつも通り静かだ。

「おはようございます、若様」

「ああ、おはよう」

声を返すだけで、昨夜のことを思い出しそうになる。

いかん。

朝からこれではまずい。

「朝食は旦那様もご一緒だそうです」

「父上が?」

珍しいな、と思う。

父上は忙しい男だ。朝から家臣と詰めていることも多いし、時には食卓に現れないことも珍しくない。その父が朝食にいるとなれば、何か話があるのだろう。

「失礼いたします」

レティシアは軽く一礼し、俺の上着の襟を指先で整えた。

近い。

その近さに、一瞬だけ気が緩む。

だが今日は朝から父上だ。さすがにここで浮かれている顔を晒すわけにはいかない。俺は小さく息を吐いて、気持ちを切り替えた。

食堂へ入ると、父上は既に席についていた。

朝の光が窓から斜めに差し込み、重たい木の卓の上に置かれた銀器を鈍く光らせている。父上の前には数枚の書類があり、彼は食事よりそちらへ意識を取られているようだった。

機嫌は、あまり良くない。

目に見えて不機嫌というほどではないが、眉間の寄り方と書類を置く手つきで分かる。

「おはようございます、父上」

「うむ」

短い返事。

俺が席につくのとほとんど同時に、父上は手にしていた書類を卓へ置き、低く吐き捨てた。

「まったく、あの善良王めが」

危うく、パンに手を伸ばしかけた指が止まるところだった。

善良王。

今のエルディア王国の王だ。

前世の感覚なら、善良王なんて二つ名はずいぶん立派に聞こえる。民を慈しみ、争いを避け、正しく国を治める王。そういう響きがある。

だが、この世界では違う。

少なくとも、辺境に生きる貴族たちの口から出る「善良王」は、褒め言葉として使われることがほとんどない。

善良。

それはつまり、甘い。

あるいは理想ばかり見ている。

下手をすると、馬鹿に近い。

父上が家の中とはいえ、王をそういう文脈で呼ぶのはなかなか危ないが、幸いこの場にいるのは俺と、ごく限られた使用人だけだ。

それでも、パパン、ちょっと危ないですよ、と内心で呟かずにはいられない。

「何かありましたか、父上」

表向きは穏やかに問う。

父上は鼻を鳴らし、書類を軽く叩いた。

「うむ。善良王はいくさの無い世を築きたいそうだ」

言い方が既に棘だらけである。

俺は一応、面白がるような笑みを作った。

「ほう。これはまた、面白いことをおっしゃられますね」

本音でもあった。

面白い。

前世なら、そういう理想を語る人間はいくらでもいた。むしろそれ自体は珍しくない。平和な世の中。戦争のない未来。言うだけなら誰でも言える。

だが、この世界では。

無理だろ、と即座に思う。

魔力を持つ者がいる。

貴族なら、一人で小さな街を焼き払うくらいのことは、出力次第で現実的に可能だ。もちろん誰も彼もが簡単にやれるわけではないにせよ、原理的にはできる。そういう人間が、利害関係のぶつかる世界で争わないわけがない。

前世の武器は、持つだけなら平等ではなかったが、少なくとも国家が管理する理屈があった。だがこの世界では違う。貴族本人が武器だ。血と魔力が、そのまま戦力になる。

そんな世界で「いくさの無い世」など、理想主義どころか、かなり浮世離れしている。

ずいぶん理想主義な王様だなぁ、と、心の中でだけ感想を転がす。

「まさか王は武装を解除しろと命じているのですか?」

あくまで軽い調子で聞いた。

だが、もし本当にそうなら笑えない。

帝国との最前線にいるマバール家に向かって、武装を解けだの、兵を減らせだの言ってくるなら、冗談抜きで帝国より先に王都へ乗り込みたくなる。

父上はそこまで馬鹿ではない、と言いたげに顔をしかめた。

「さすがにそこまでではない」

ほっとする。

いや、父上はほっとしていないだろうが、俺は少しだけ安堵した。

「まあ、いつかはそうなれば良い、程度の話なのだろう」

言い直すあたり、父上なりに少しは落ち着いたらしい。だが、声の底に苛立ちは残っている。

「まったく、内陸貴族どもは辺境の苦労を分かっておらん」

その言い方に、俺はパンをちぎりながら内心で頷いた。

比較的安全な王国内陸に領地を持つ貴族たちは、時々、少しずれたことを言い出すらしい。魔物の脅威が薄く、帝国の影も遠い場所にいれば、戦など抽象的な話になるのだろう。だが、こっちは違う。

辺境伯という立場は飾りではない。

帝国との境に立ち、迷宮の管理も抱え、魔物が溢れれば対処する。

平和を願うのは結構だが、それを可能にするための泥臭い現実を見ていなければ、ただの寝言だ。

「だが」

父上が、そこでふと俺を見た。

嫌な予感がする。

「ギルバート、お前もそろそろ夜だけでなく、昼の初陣を飾る頃合いだろう」

やっぱり来た。

表情筋が一瞬だけ死にかけたのを、どうにか押し留める。

げっ。

戦場に出ろってことかよ。

もっとレティシアと夜の戦場経験を積みたいのに。

そう思ったのは本音だ。

だが同時に、断れないことも分かっている。

貴族家の男子として、戦を知らぬまま大人ぶることはできない。父上の前で逃げ腰を見せれば、それだけで評価は落ちるだろう。ここで渋るようでは、将来レティシアをどうこうしたいなどと言えるはずもない。

俺は咳払い一つで顔を整えた。

「はい。喜んで、父上の命じる戦場に赴きます」

言ってから、内心で自分を褒めた。

いい返事だ。

我ながら貴族っぽい。

父上は満足げに頷いた。

「うむ」

いや、満足げに頷くな。こっちは結構複雑なんだぞ。

「安心せよ。いきなり帝国の前線に向かえとは言わん」

その一言に、少しだけ肩の力が抜ける。

そりゃそうだよな、とも思う。

いくら俺の魔力が強かろうが、いきなり最前線は流石に雑すぎる。

とはいえ、内心では別の計算もしていた。

思いっきり肉体強化魔法をかけて、思いっきり攻撃魔法をぶっ放せば、案外なんとかなるのではないか。

たぶん、これが俺の悪いところだ。

自分が強いものだから、どうにかなりそうだと思ってしまう。

まだ実戦を知らないくせに。

「下級騎士だが、経験豊かな騎士を補佐役として付ける」

父上の言葉に、俺は素直に頷いた。

「はい、ありがとうございます」

経験豊かな騎士。

それはありがたい。

俺は自分の魔力に自信はあるが、戦場そのものについては素人同然だ。前世でゲームをしたことくらいはある。だが、それが実戦の役に立つとは思っていない。

「名はセバスチャンだ」

父上が続ける。

「今日この後にはやって来るだろう」

セバスチャン。

その名を聞いた瞬間、頭の中にふわりと浮かんだのは、やたらときちんとした紳士っぽい騎士の姿だった。

白手袋。

整えられた口髭。

無駄のない礼。

静かな低音で「若様」と呼ぶ、いかにもセバスチャンって感じの人。

……うん、安直だな。

だが、名前から受ける印象としてはそんなものだろう。

父上への返事をしながら、俺はさりげなく視線を動かした。

少し離れたところで給仕に控えていたレティシアがいる。

目が合う。

ごく小さく目配せする。

レティシアは一瞬だけ視線を揺らし、それから微かに頷いた。すぐさま後ろに控えていた使用人へ、ごく自然に指示を流す。

今日は開発拠点に行けないと伝えてくれるのだろう。

さすがだ。

そう思ったところで、レティシアの顔色が少し悪い気がした。

ほんのわずかだが、青い。

寝不足かな。

いや、そりゃ寝不足にもなるか。ここひと月、まともに休ませてない気がする。

少し反省する。

朝食を終え、中庭へ向かう。

空はよく晴れていて、石畳が朝の日差しを返して眩しい。噴水の水音が耳に心地よく、花壇の縁では季節の花が風に揺れていた。こんな穏やかな場所に立っていると、これから戦場だの初陣だの言われてもいまいち実感が湧かない。

しかし、やがて、その穏やかさをぶち壊すような存在が視界の向こうから近づいてきた。

ひとりの老騎士。

いや。

あれは、本当に騎士か?

思わず足が止まる。

どう見ても、俺の頭の中にいたセバスチャン像とは違う。違うどころではない。真逆だ。

顔に傷が多すぎる。

多すぎて、最初どこが元の顔なのか一瞬分からなかったくらいだ。頬に走る古い裂傷。眉の上の縫合痕。鼻筋にも浅い傷が残っている。しかも、片耳がない。耳のあるべき場所がごっそり削げて、古びた皮膚が縮れていた。

鎧は着ている。

だが、礼装の騎士というより、どう見ても実戦帰りだ。革も金具も使い込まれ、磨いてはあるのだろうが、飾り気がない。体格は六十近い年齢にしては妙に厚く、肩も腕もまだ太い。歩くたび、石畳の上に落ちる足音が鈍く重い。

騎士というより、ヤクザだ。

いや、ヤクザより凶悪かもしれない。

前世であんな顔の人間が夜道の向こうから歩いてきたら、俺は迷わず道を変える。

いやいや。

違うだろ。

まさか、あれじゃないよな?

だってセバスチャンだぞ。

セバスチャンって、もっとこう、きちんとした紳士っぽいやつだろ。名前の響きからして。

俺の願いも虚しく、その老騎士はまっすぐこちらへ歩いてきた。

数歩手前で止まり、鎧の音を立てながら片膝をつく。

「セバスチャンでございます」

低く、妙によく通る声だった。

「この度は若様の指南役を仰せつかまりました」

うっそーん。

心の中で、あまりにも間の抜けた声が響いた。

表情には出していない。

出していないつもりだ。

だが、かなり危なかったと思う。

セバスチャンは顔を上げる。片耳のないその顔に、礼儀がないわけではない。むしろ、形だけならきっちりしたものだ。だが、その土台があまりにも歴戦すぎて、丁寧さがちっとも優しく見えない。

「若様」

呼ばれる。

「本日より、戦場の歩き方を叩き込ませていただきます」

言い方も怖い。

もっと何か、柔らかな言い回しはなかったのか。

俺はどうにか口を開いた。

「……ああ。よろしく頼む、セバスチャン」

「はっ」

返事だけは、無駄に良い。

中庭に吹き抜ける風が、妙に冷たく感じた。

これは。

思っていたより、だいぶ大変なことになるかもしれない。

そう直感しながら、俺は傷だらけの老騎士を見下ろしていた。