軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三話 溺れる理性

我ながら、覚えたてのサルみたいだと思う。

朝、目が覚める。

まず最初に考えるのが、今日やるべき仕事ではなく、昨夜のことだ。昨夜のレティシアの顔だとか、声だとか、抱き寄せたときの体温だとか、そういうものが脳裏に浮かぶ。そこでようやく、いやいや待て、今日は開発拠点で職人と詰める話があったはずだ、と我に返る。

昼、拠点へ向かう。

道中で、これは真面目にまずいのではないか、と考える。今、俺のところではいくつもの試作が同時に動いている。食い物関係の改良。馬車まわりの部材。高品質な炭の安定生産。織りの改良。蜘蛛の糸の管理方法。半分くらいは俺の趣味と言われても否定できないが、当たれば領地にとってかなりの利益になるものばかりだ。

夕方、城へ戻る。

今日こそは早めに休んで、頭を切り替えて、夜更かしもせず、まともな睡眠を取ろうと思う。理性的に考えればそれが正しい。レティシアにも仕事がある。俺の身の回りの世話が最優先とはいえ、それだけしていればいい立場でもない。メイド長の下で回っている仕事は多いし、城の中の女たちは意外と忙しい。

それなのに。

就寝前、部屋に戻ると、レティシアがいる。

灯りを落としすぎず、明るすぎず、ちょうどいい具合に調整して、整えたばかりのシーツの皺を指先で伸ばしている。

その背中を見た瞬間。

理性が、だいぶ怪しくなる。

こうなるともう駄目だ。

分かっている。分かっているのに、我慢が利かない。

何だろうな、これ。

本当にサルになった気分だ。いや、サルに失礼かもしれない。もう少し理性があるだろう、あいつらにも。

だが、レティシアも嫌がるどころか、むしろ柔らかく受け入れてくれるし、何なら城の人間全体が、どことなく後押ししているような空気まである。露骨に何か言われるわけじゃない。けれど、夜の湯浴みの段取りが妙に都合よく整っていたり、翌朝にレティシアの予定が少し軽くされていたり、俺が部屋に戻る時間に合わせたようにベッドメイクの担当が固定されていたりする。

ああ、これ、皆わざとだな。

そう気づいたのは、わりと早かった。

そして気づいてしまうと、逆に馬鹿らしくなる。

何を一人で我慢しているんだ、俺は。

そうして結局、毎晩のようにレティシアを寝台へ誘ってしまう。

これは、そんなひと月の話だ。

最初の数日は、正直、落ち着かなかった。

初めて夜を共にした翌日、翌々日、そのまた翌日。俺は自分が浮かれているのを自覚しながらも、どうしても隠しきれなかった。普段なら見落とさないところで職人の話を聞き逃しそうになって、慌てて聞き返したこともあるし、書類を読みながら妙なところで笑いそうになって咳払いで誤魔化したこともある。

レティシアの方は、俺よりよほど落ち着いて見えた。

いや、本当に落ち着いていたのかは分からない。

ただ、少なくとも表では崩れなかった。

朝、俺の身支度を整えるときも、茶を淹れるときも、帳面の整理を手伝うときも、いつものレティシアだった。背筋が伸びていて、声は穏やかで、所作に無駄がない。

けれど、たまに。

ほんの一瞬だけ。

俺の視線とぶつかったあとに耳が赤くなったり、手元の動きがわずかに止まったりする。

その一瞬で十分だった。

ああ、昨夜のことは夢でも何でもなく、本当に起きたことなんだなと、変なところで実感する。

ひどく満たされる。

そして、その満たされた気分のまま一日を過ごしたくなる。

だから困る。

朝食の席で、俺は自分の顔が緩んでいないかを必要以上に気にしていた。

食卓には父上はいない。父上は朝から忙しい男だし、兄たちはそもそも普段から城にいることの方が少ない。長男のダル兄さんは国境寄りの砦を任されていることが多いし、アル兄さんも領内の迷宮のひとつを預かっている。食事の席に座る人間は日によってかなり違うが、それでも使用人たちの目はある。

俺がパンを千切りながら妙な顔をしていれば、さすがに目立つ。

気をつけなければ、と思う。

思うのだが、給仕の列の少し後ろにレティシアがいるのが視界に入るだけで、どうにも落ち着かない。

いや、落ち着け。

パンを噛みながら、自分に言い聞かせる。

昨夜やったばかりだろうが。

せめて今夜は我慢しろ。

だが、夕方になると、その決意は驚くほど頼りなくなる。

開発拠点へ向かう道は、城下の石畳を少し外れた先にある。城に近すぎず、街から遠すぎず、荷を運ぶにも人を集めるにも都合のいい場所だ。木造の建物がいくつか並び、裏には材料置き場と簡単な炉がある。俺が前世知識を思いつくまま口にし、職人たちが顔をしかめたり感心したりしながら形にしようとする、いわば秘密基地みたいな場所だ。

そこでの俺は、さすがに少しまともになる。

木屑と炭の匂い。熱した金具の音。蒸した繭に似た材料から立ち上る湿った匂い。職人の額を流れる汗。そういうものの中にいると、頭のどこかが仕事用に切り替わる。

「若様、この金具の角度ですが」

「少し寝かせた方がいいな。そこだと力が逃げる」

「こちらの焼き加減は」

「炭を変えてみろ。昨日のは火が立ちすぎてた」

口を動かし、手を動かし、試作品を確かめる。

半分は趣味だ。

それは否定できない。

馬車の揺れを少しでも減らしたいとか、焼き菓子の膨らみを安定させたいとか、前世で当たり前にあった便利さをこちらでも味わいたいとか、そういう欲求がかなり混じっている。

だが半分はちゃんと利益だ。

蜘蛛の糸――俺が勝手にシルクと呼んでいるあれだって、最初は面白半分だったが今ではまともに金を生んでいる。品質が安定すれば、もっと大きな商いになる。高品質な炭もそうだ。織りの改良も、馬車の部材も、積み重なれば領地の強みになる。

分かっている。

ここで結果を出せば、俺の立場は強くなる。

単なる三男ではなく、役に立つ三男でいられる。

そしていずれ、もっと大きなことを言うための土台になる。

それなのに。

「若様」

拠点の出入り口で、使用人が頭を下げる。

「そろそろお戻りになられた方が」

空を見れば、夕暮れが近い。

窓のない工房に籠もっていると時間の感覚が鈍るが、戻る時間になると皆の動きが少しだけ揃うのが分かる。片付けの手つきが良くなり、俺に話しかける声も一区切りつける調子になる。

「ああ」

返事をして、手を洗う。

冷たい水が指先の汚れを流していく。煤と細かい粉が水面を黒く染める。

そのとき、頭のどこかで別のことを考えている自分に気づく。

今夜、レティシアは来るだろうか。

いや、来るか。たぶん来る。ここひと月、毎晩のように就寝前の支度をしに来ているのだから。

そこまで考えてしまってから、俺は心の中で頭を抱えた。

おい。

仕事終わりに考えることがそれか。

いや、考えるだろうが。

人間なんだから。

しかし情けない。

本当にサルだ。

夜、部屋に戻る。

湯を使い、着替え、書きかけの帳面に少しだけ目を通して、今日の話を頭の中で整理する。

材料の在庫。次に試す配合。職人の癖。商人に見せるならどこまで仕上げるか。

そこまでは、まだ理性が勝っている。

扉が二度叩かれる。

「入れ」

言った瞬間、声が少しだけ低くなった。

自分で分かる。

入ってきたのは、やはりレティシアだった。

「失礼いたします」

いつもの声。

いつもの角度の礼。

だが、俺にはそれだけで十分すぎた。

レティシアは黙って寝台へ向かい、掛け布の端を整え、枕の位置を直していく。長い指が布の上を滑るたび、灯りの下で白い手首が細く光る。肩から腰へ流れる線は控えめな衣服に包まれていても隠しきれず、前に回り込むたびに胸元のふくらみが柔らかく揺れる。

以前から大きいとは思っていた。

思っていたが、実際に抱いてみると想像以上だった。

レティシアは着痩せするタイプらしい。

衣服の上から見ると上品に収まっているのに、ありのままのレティシアは、何というか、素晴らしい。あれは反則だと思う。俺が毎晩のように理性を失いかけるのは、半分くらいはあのせいだ。

いや、半分で済まないかもしれない。

ともかく、目の前でベッドメイクをしているレティシアを見ていると、胸の奥からじわじわと熱が上がってくる。

駄目だと思う。

今日は仕事も詰まっていたし、レティシアだって昼のあれこれを片付けたあとにここへ来ているのだ。無理をさせるのは良くない。本人が平気な顔をしていても、疲れがないわけがない。少しは休ませるべきだ。

そう考える。

考えるのに。

「レティシア」

気づくと、もう声をかけている。

「はい、若様」

振り向く。

その表情が柔らかくゆるむのを見ると、ああもう駄目だと分かる。

我慢する方が馬鹿らしい。

結局その夜も、俺はレティシアの手を取って寝台へ引き寄せた。

そういう夜が、ひと月ほど続いた。

最初のうちは、ひと晩ごとに妙な緊張があった。

昨夜と同じように触れていいのか。あれでよかったのか。無理をさせていないか。そういう遠慮が残っていたし、レティシアの方も、受け入れながらもどこかぎこちなさを滲ませていた。

だが、回数を重ねるごとに、それは変わっていった。

互いの息の合い方が分かってくる。

どこで力を抜けばいいか。どのタイミングで言葉を挟めば、余計な緊張がほどけるか。触れる手の置き方ひとつとっても、最初の頃とはまるで違った。

面白いくらいだった。

飽きるかもしれないと、少しだけ思っていた。

前世でろくな経験があったわけではないが、何事も回数を重ねれば刺激は薄れる。そういう理屈は知っている。だから最初の高揚が落ち着けば、自分も少しは冷静になるのではないかと、どこかで期待していた。

まったく逆だった。

回を重ねるほど、馴染んでいく。

最初は知らなかったレティシアの表情を知る。声の揺れを知る。こちらの名を呼ぶときの息遣いを知る。抱き寄せたときにどこへ顔を埋めると、彼女がいちばん落ち着くのかを知る。

知れば知るほど、欲しくなる。

もっと、と思う。

ひどく単純な話だ。

だからこそ、俺は自分をサル呼ばわりしていた。

例えば、ある夜。

遅くまで拠点にいた帰りで、頭はそこそこ疲れていた。明日の朝一で商人に見せる織り見本の最終確認まで済ませ、職人連中と散々話して戻ってきたのだ。さすがに今夜は風呂に入ってさっさと寝よう、そう考えていた。

部屋へ戻ると、レティシアがいた。

それだけで終わった。

いや、終わっていない。そこから始まってしまった。

「お帰りなさいませ、若様」

「ああ」

短く答えただけなのに、レティシアが手にしていた寝具の布が、わずかに止まる。その小さな間が、やけに生々しく感じられた。

「今日は遅かったな」

「城内の方で少し」

「無理はするなよ」

「はい」

それだけのやり取りだ。

だが、その「はい」が妙に柔らかい。

もう駄目だ。

駄目だと思った次の瞬間には、背中に手を回していた。

レティシアは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それからすぐに力を抜く。受け入れるように、身体をこちらへ預けてくる。

それがたまらない。

ひと月の間、そんな夜が何度もあった。

毎晩のように、という言い方は、誇張ではない。

本当に毎晩に近かった。

我ながらどうかしている。

だが、レティシアも喜んでくれる。少なくとも、俺にはそう見えた。無理をしているだけかもしれない、と最初の頃は疑った。だが、重ねるごとに、彼女の方から少しだけ距離を詰めてくる瞬間や、こちらを見上げる眼差しの柔らかさを知ってしまうと、それをただの忠義だけで片付けるのは難しくなった。

もちろん、レティシアはあくまでレティシアだ。普段は完璧に近いメイドであり、俺に仕える女であり、有力騎士家の娘でもある。浮ついた様子を外へ見せることはほとんどないし、昼間の彼女から夜の気配を読み取るのは難しい。

だが、俺には分かるようになってきた。

夜に備えて髪を整える手つきが、ほんの少しだけ丁寧な日があることを。

ベッドメイクのあと、こちらへ向き直るまでの間に一度だけ呼吸を整えることを。

俺が手を伸ばしたとき、拒むどころか待っていたように睫毛を伏せることを。

全部、知ってしまった。

だから、ますますのめり込んだ。

日中、俺は時折、兄たちのことを考える。

城にいないのが当たり前の二人だ。

ダル兄さんは国境近くの砦だ。帝国との境界は静かなようでいて、いつ何が起きてもおかしくない。兵の配置、物資の流れ、周辺の村の様子、騎士たちの訓練。長男として、辺境伯家の顔として、あの人はそういう場所にいる。

アル兄さんは領内の迷宮だ。

迷宮、と一口に言っても性質は色々だが、兄が預かっているのは資源も出る代わりに魔物の湧きも無視できない類のものらしい。冒険者の出入りを管理し、素材と資源の流れを見て、いざという時には騎士を率いて対処する。魔力が弱いと言われる兄だが、それでも実績を積んでいるのは、本人がそれを補って余りある努力家だからだ。

二人とも、仕事をしている。

貴族として、家の男として。

それを思うと、自分の立場がよく分かる。

俺はまだ正式な貴族として外へ出たわけではない。

紋章を許され、家の中で一人前の男として認められた。それは大きい。だが、それはあくまで家の中での話だ。前世で言うなら内定みたいなものだろう。内々には認められているが、社会的にどの椅子へ座るかはこれから決まる段階。

だったら、本来はもっと実績を積むべきだ。

父上や兄たちの目に、そして家臣たちの目に、単なる発想の面白い三男ではなく、きちんと役に立つ貴族として映る必要がある。

分かっている。

分かっているのに。

夜になると、その決意は簡単に緩む。

レティシアがいるからだ。

ひどく単純だが、それが事実だ。

ある晩、寝台の上で、レティシアが静かに息を整えているのを見ながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。

灯りはかなり落としてある。

暗いが、何も見えないほどではない。掛け布が肩まで上がり、その向こうから覗く白い肌が、薄闇の中でも妙に目を引く。髪は少し乱れていて、頬にはまだ熱が残っているように見える。

以前から大きいと思っていた胸は、やはりどう見ても素晴らしい。

我ながら情けない感想だが、事実なのだから仕方がない。着痩せする女は危険だ。普段は上品にまとまって見えるのに、実際は反則級の破壊力を隠している。レティシアはその典型だった。

しかも、ただ形がいいだけではない。

抱き寄せたときの収まり方が良すぎる。

本人の性格も相まって、とにかく安心感がある。側に置いておきたくなる。誰にも触れさせたくなくなる。

そこまで考えたところで、俺は自分の中に生まれつつあるものを、はっきりと自覚した。

執着だ。

かなり強い。

最初は、好みの女と関係を持てたことへの単純な喜びも大きかった。前世からの欲望が解放された、という側面もある。だが、もうそれだけではない。

俺はレティシアにのめり込んでいる。

そして、その事実を別に否定したくもない。

むしろ、だったらどうするかを考える段階だ。

レティシアは有力騎士家の娘だ。

ただのメイドではない。もちろん今の彼女は俺に仕えているが、血筋も立場も、そこらの平民女とは違う。だからこそ俺も最初は手を出しづらかったし、今でも軽率に扱う気はない。

じゃあ、将来どうする。

正室。

それは難しいだろう。

辺境伯家の三男とはいえ、俺は貴族の男だ。将来、どの程度の役目を担うかは分からないが、正室にはそれなりの家格が求められる。マバール家ほどの有力家なら尚更だ。有力騎士家の娘であるレティシアは優秀だし、血も悪くない。だが、それでも「騎士家の娘」である事実は消えない。

難しい。

かなり難しい。

だが、側室なら話は違う。

側室にすることは可能なはずだ。

いや、可能かどうかではない。

する。

絶対にする。

そこまで考えた瞬間、自分でも少し驚くほど強い感情が湧いた。

レティシアを誰か他の男に渡す。

無理だ。

想像しただけで、腹の底が冷たくなる。

他家へ嫁ぐ?

他の男に抱かれる?

ありえない。

絶対に許せない。

そのとき、ふと、以前のレティシアの言葉を思い出した。

わたくしの全ては、若様のものです。

紋章を受け入れるとき、はっきりとそう言った。

あれは俺にとって、かなり決定的だったのだろう。

彼女自身がそう言ったのだから、レティシアは俺のものだ。少なくとも、俺の中ではそういう認識になっている。

もし万が一。

ありえない話だと思いたいが、もし仮に。

レティシアの気が変わったとしても、もう関係ない気がした。

ひどく身勝手な考えだとは思う。

思うが、止まらない。

手放す気がない。

手放せる気もしない。

それほどまでに、俺はもう彼女へ馴染みきってしまっていた。

「若様」

ぼんやりしていた俺を、レティシアの声が引き戻す。

「どうした?」

「いえ……少し、考え込んでおられるようでしたので」

「……ああ」

曖昧に返す。

何を考えていたかなんて、素直には言えない。

いや、言えなくはないか。

お前を絶対側室にして離さない方法を考えてた、なんて、さすがに夜の余韻の中でも言いづらい。

レティシアは俺の返事をそれ以上追及しなかった。ただ、少しだけ近くへ寄ってきて、肩へ頭を預ける。

その自然な仕草が、たまらなく嬉しい。

ひと月で、こんなふうになるのか。

いや、もともと長く一緒にいたのだ。土台はあったのかもしれない。幼い頃から見知った顔で、声で、匂いで、気配だった。それが少し形を変えただけだと考えれば、むしろ自然なのかもしれない。

それでも、俺には十分すぎる変化だった。

夜更けの静けさの中で、俺はレティシアの髪を指で梳いた。

柔らかい。

「若様?」

「いや」

何でもない、と言いかけてやめる。

「お前、俺の側室になる気はあるか」

口をついて出た。

半分くらいは冗談のつもりだった。

半分くらいは本気だ。

レティシアの身体が、わずかに揺れる。

だが、驚いて離れるようなことはない。

「若様が、お望みなら」

小さな声。

それだけだ。

それだけなのに、胸の奥へ深く刺さる。

やっぱり、そうなるよな。

そう言うよな、お前は。

忠誠心が強くて、献身的で、俺の望みに沿おうとする。

それがレティシアだ。

だからこそ、俺は余計に実績が必要だと悟る。

このまま感情だけで囲い込むことはできるかもしれない。家の中でなら、ある程度は押し切れるかもしれない。だが、きちんと側室として置くなら、それに見合うだけの理屈が要る。少なくとも、周囲が文句を言えない程度の実績が必要だ。

それも、多少の無茶を帳消しにできるくらいの。

レティシアを側室にしたい。

その思いが本物なら、ただ寝台の上で溺れているだけでは足りない。

何か、もっと分かりやすい成果を出さなければ。

俺はレティシアの肩を抱きながら、そんなことを考えていた。

すると、レティシアが少しだけ身を起こした。

「若様」

「ん?」

「明日の朝は、拠点の方へ早く出られるのでしたか」

「ああ。商人が見本を見に来る」

「では、あまり遅くなられませんよう」

少しだけ、困ったような、けれど柔らかな声音だった。

その言い方に、思わず笑いそうになる。

「お前が言うのか」

「……申し訳ございません」

「いや」

謝らせたいわけじゃない。

そうじゃなくて。

「俺も同じこと考えてた」

「若様も、でございますか」

「俺も、だ」

目が合う。

少しだけ笑う。

ひと月の間に、こういう瞬間が増えた。

ただ命じるだけでも、ただ従うだけでもない、少しだけくだけたやり取り。俺が貴族で、レティシアが仕える者であることは変わらない。変わらないが、その枠の中で、二人だけの空気が出来つつある。

それが嬉しい。

同時に、危うくも感じる。

だが、今はまだ、それでいい。

朝。

商人は、見本を前にして露骨に顔色を変えた。

「これは……前に見せていただいたものより、さらに質が」

「改善したからな」

俺はできるだけ平静を装って言う。

昨日の夜の余韻など一切ない顔を作るのには、少し努力が要った。

「量が安定すれば、かなり動くぞ」

商人は布の端を指で確かめながら、息を詰めるように言った。頭の中で値の計算をしている顔だ。

その表情を見て、俺は少しだけ満足する。

人が利益の匂いに反応するときの顔は、実に分かりやすい。

前世でも今でも、そこは大して変わらない。立派な理屈を並べても、結局は得のある方へ人は寄る。

なら、俺は得を生み出せる側でいるべきだ。

金でも、仕事でも、立場でもいい。そういうものを差し出せる男なら、多少の無茶も押し通しやすくなる。

レティシアをずっと手元に置くためにも、その力はいる。

拠点の空気は、今日も熱かった。

織りの担当と糸の管理担当が言い争い、馬車の部材をいじっていた職人が途中でこちらへ口を挟み、炭焼きの方からは新しい炉の案が来る。俺はそれらを聞きながら、一つずつ選別し、今やるものと後回しにするものを分けていく。

やれることは多い。

そして、その多さに少し救われる自分がいた。

こうして動いていれば、少なくとも昼の間はサルでいなくて済む。

夕方。

城へ戻るころには、さすがに頭も身体もそこそこ疲れていた。

今日は素直に寝よう。

今夜こそは。

そう思いながら廊下を歩く。

だが、部屋の前まで来た時点で、その決意の頼りなさを自覚していた。

扉の向こうに、レティシアがいるかもしれない。

それだけで心拍が少し上がる。

情けない。

だが、どうしようもない。

入る。

やはり、いた。

ベッドメイクの最中で、こちらを見ると、静かに一礼する。

「お帰りなさいませ」

「ああ」

短く返す。

疲れている。

それは本当だ。

だが、疲れているからこそ余計に、彼女の存在が甘い。

仕事のことを考える。

領地のことを考える。

将来のことを考える。

そうしながらも、視線は勝手にレティシアへ向いてしまう。

掛け布を持ち上げる腕。腰を折る動き。背筋に沿って流れる髪。整えられた衣服の上からでも隠しきれない女の線。

俺は心の中で半ば呆れながら、観念して立ち上がった。

このひと月、何度同じことを繰り返したか分からない。

それでも、止まらない。

たぶん、もうしばらくは止まらない。

なら、その代わり。

昼で結果を出すしかない。

夜に溺れるなら、昼は誰より働く。

そうやって帳尻を合わせるしかない。

レティシアの後ろへ歩み寄る。

俺の気配に気づいて、彼女の手がほんの少しだけ止まる。

「若様?」

「……今日も来たな」

「はい」

短い返事。

その返事の中に、もうためらいはあまり感じない。

俺はレティシアの肩に手を置いた。

「お前のせいで、俺は本当にサルになりそうだ」

半分は冗談だった。

だが、レティシアはきょとんとしたあと、小さく首を傾げる。

「おさる、でございますか」

「分からなくていい」

言ってから、自分で少し笑う。

レティシアも、つられるように口元をゆるめた。

それだけで、もう駄目だった。

この顔を見せられて、どうして我慢できる。

俺は小さく息を吐き、彼女の手から掛け布を取り上げて脇へ置いた。

「若様?」

「もういい」

レティシアの目が、わずかに揺れる。

けれど拒まない。

俺はそのまま彼女の手を引いた。

整えたばかりの寝台へ。

何度も繰り返してきた動きなのに、胸の奥はまだちゃんと熱を持つ。

ひと月経っても、少しも薄れない。

むしろ深くなる。

そうしてまた、夜が更ける。

理性は理性として、確かに残っている。

領地のことも、仕事のことも、将来のことも忘れていない。

その全部を知ったまま、それでもレティシアを選ぶ。

それが今の俺だった。

だからこそ、決める。

このままでは終わらせない。

レティシアを、絶対に手放さない。

そのための実績を積む。

多少の無茶も視野に入れる。

寝台の上で、薄闇の中に浮かぶレティシアの肢体を見つめながら、俺は静かにそう決めていた。

溺れているだけでは終わらない。

この熱を、次の一手へ変える。

そうしなければ、俺は本当に、ただのサルで終わる。