軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第六話 牙

夜明け前の城は、昼間とは別の生き物みたいだった。

まだ空は黒に近い藍を引きずっていて、東の端だけがうっすらと白んでいる。石造りの廊下は夜気を溜め込んだまま冷たく、壁に掛けられた燭台の火だけが、長い影を床へ細く落としていた。昼になれば使用人や騎士たちの足音で満ちるその場所も、今はひどく静かだ。遠くで番兵が槍の石突きを床に鳴らした音が、一度だけ、乾いて響いた。

ガルシア・マバールは、その静けさを邪魔しない速度で廊下を歩いていた。

眠気はない。

元々、朝に弱い性質ではない。辺境を預かる身になってからは、起きたい時に起きるというより、起きねばならぬ時間に体が勝手に目を覚ますようになった。長い年月のうちに染みついた習い性みたいなものだ。

角を曲がり、重たい扉の前で足を止める。扉の前には既に二人の近習が控えていて、ガルシアの姿を見ると無言で頭を下げた。

「揃っているか」

「はっ」

短い返事。

余計なことは言わない。言う必要もない。

扉が押し開かれ、ぬるい室内の空気が流れ出てくる。

中には既に、主要な顔ぶれが集まっていた。

武官系の家臣が三人。文官系が二人。メイド長。そして、少し離れた位置に、傷だらけの老騎士がひとり。

セバスチャン。

場にそぐわぬ、と言えばそぐわぬ男だった。鎧は着ていないが、粗い麻の上着の下に詰まった肉の厚みが、その体が未だ実戦向きであることを隠していない。顔面に走る古傷は薄暗い部屋の中でも目立ち、片耳の欠けた輪郭が燭台の火を受けて妙な陰を作っている。礼式を学んではいても、あれはどうしたって上品な男には見えない。

だが、ガルシアはこの男が嫌いではなかった。

部屋へ入り、上座に座る。

他の者たちも、それぞれの位置を正し、姿勢を整える。

机の上には既に茶器が置かれていたが、誰も手をつけていない。今日の集まりは雑談のためではないのだと、全員が分かっていた。

「始めよう」

ガルシアがそう告げると、部屋の空気はさらに引き締まった。

口火を切ったのは、武官の一人だった。国境寄りの兵站を主に見ている男で、髭には白いものが混じり始めているが、姿勢だけは若い頃の軍人のままだ。

「では、若様の訓練について」

言いながら、その視線は自然とセバスチャンへ向く。

他の者の目も同じだった。

ギルバートの訓練が始まって、ひと月ほど。

城の中では表向き静かに処理されているが、上の者たちがその推移を気にしていないはずがない。まして、教え役がセバスチャンなのだ。好奇心と不安とが混ざるのも当然だった。

「進み具合はどうだ」

武官の問いに、セバスチャンは片膝をつくほどではない軽い礼だけで応じた。

「まずまずですな」

その瞬間、部屋の空気が微妙に揺れた。

武官たちの眉がわずかに上がる。

まずまず。

短い。曖昧だ。だが、セバスチャンの口から出る評価としては、驚くほど高い。

ガルシアはそれを知っていた。ここにいる武官系の家臣の何人かも知っている。彼らの中には、息子や孫を一度はセバスチャンの下へ預け、痛い目を見ながら鍛えられた者もいた。そういう経験のある男ほど、今の一言の重さを理解している。

あのセバスチャンが「まずまず」と言う。

それは、他の者なら「かなり見込みがある」と言うのに等しい。

だが、それで素直に顔を緩める者ばかりではなかった。

「訓練が順調であることは結構」

文官の一人が言った。紙のように白い指で卓の上を軽く撫で、眉を寄せている。

「しかし、我らが期待した効果は見えておりません」

ガルシアは黙って続きを促した。

「若様は相変わらず、レティシア殿へ深く執着しておられる。厳しい訓練の後であっても、毎夜のように抱いておられると聞きます」

その言葉に、メイド長は無言のままわずかに目を伏せた。否定ではない。事実確認の代わりみたいな動きだ。

そして、その場の空気を小さく乱したのは、低い笑い声だった。

「……ふっ」

セバスチャンだ。

声は小さい。だが、静まり返った部屋では十分に耳についた。

「何が可笑しい!」

文官が声を荒げる。

セバスチャンは肩を揺らしたまま、口元を手で軽く押さえた。

「いや、失礼しましたな」

言葉は謝罪の形を取っている。だが、口元の皺はまだ笑っている。

「笑い事ではない」

「ええ、そりゃあ」

返事の声音に、まだ愉快そうな響きが混じっていた。

場が険しくなりかけたところで、ガルシアが口を挟んだ。

「セバスチャン」

短い一言で、部屋が再び静まる。

「思うところがあるなら、自由に言ってみよ」

セバスチャンはようやく口元の笑みを収めた。片耳の欠けた頭を少し下げ、ガルシアへ一礼する。

「ありがたく」

そして顔を上げる。

その目には、年寄り特有の濁りがほとんどない。傷だらけの顔でなければ、もっと別の印象を持たれたかもしれないが、この男はそういう生き方をしてこなかったのだろう。

「どうも、若様の下の牙を抜くために訓練せよとのことですが」

部屋の空気が凍った。

武官も文官も、一瞬、本当に言葉を失った顔をした。メイド長だけはほんのわずかに瞼を伏せたが、それが羞恥なのか呆れなのかまでは分からない。

露骨だった。

あまりにも露骨だ。

だが、言われている内容自体は誰も否定できない。

「どだい、無理なことですぜ」

平然と続ける。

「頭でっかちの大人しい若様と聞いてましたがなかなかどうして」

セバスチャンは苦笑した。嘲りではない。少し楽しむような、面白がるような笑いだ。

「ガルシア様」

「続けよ」

ガルシアは短く言う。

セバスチャンは頷いた。

「あの若様には、上にも下にも、でかくて鋭い牙が立派に生えております」

また場がざわつきかける。

今度は笑いではなく、殺気に近いものが混ざった。さすがに上層部相手に、その物言いはどうなのかという怒りだ。文官の一人など、露骨に顔をしかめている。

だが、セバスチャンは一切気にした様子を見せない。

「その牙をわざわざ鈍らせようとは、お城の連中は昼寝でもしとるんですか?」

ついに何人かの視線が鋭くなった。

武官の一人が机の端を指で叩きかけて止める。文官のもう一人は、今にも口を開いてセバスチャンを叱責しそうだった。

しかし、ガルシアは止めなかった。

黙って聞いている。

だから他の者も、まだ堪える。

「どれだけでかく鋭い牙を持てるかは、生まれつきです」

セバスチャンは低く言い切った。

「後はただ、使い方を教えりゃいい」

その一言だけは、妙に静かだった。

先ほどまでの露悪的な物言いから少し離れ、そこだけは実感のある重さを帯びていた。

戦場を知る男の声だと分かる。

ガルシアは腕を組んだまま、わずかに目を細めた。

「上も下もでかくて鋭いに越したことはないでしょう」

そこへまた、あの下卑た調子が戻ってくる。

「ねえ、メイド長」

不意に名を振られたメイド長は、珍しく一瞬だけ言葉を失った。

そして、ごくわずかに頬が赤くなった。

年齢と立場を考えれば、その反応はほんの一瞬でしかない。だが、この部屋にいる者たちの目は節穴ではなかった。

誰も笑わない。

笑ってよい場面でもない。

ただ、その一瞬の気まずさが、逆にセバスチャンの言葉の下品な説得力を補強してしまった。

ガルシアは鼻から息を抜いた。

「……抑えるのは無理か」

誰にともなく呟いたようでいて、結局は部屋全体へ落とした言葉だった。

文官たちの眉が少し動く。

武官たちは、むしろどこか腑に落ちた顔をしていた。最初から、あの若様を「抑える」方向へ持っていくことに無理があると感じていた者もいるのだろう。

ガルシアはゆっくりと背筋を伸ばした。

「セバスチャン」

「はっ」

「一刻も早くギルバートに戦場を経験させよ」

部屋の空気が変わる。

重心が移る。

ここで方針が決まったのだと、誰もが理解した。

「牙の振るい方を教えるのだ」

その言葉に、セバスチャンの顔から先ほどまでの下卑た笑いが消えた。

真剣な顔になった。

老いてなお険しいその顔は、やはり戦場の男のものだった。

「一命を賭して」

短く、深く頭を下げる。

その返答だけで十分だった。

会議はそれで終わりにはならない。細かな段取り、付ける兵、初陣の場、表向きの名目。決めることはいくつもある。だが、最も重要な骨子は今、定まった。

若様は抑える対象ではない。

伸ばすべき牙だ。

その認識の転換が、部屋の空気を静かに塗り替えていく。

同じころ、当のギルバートは、まったく別の理由で早起きしていた。

ひと月も毎朝同じ時間に叩き起こされ、同じ場所に立たされ、同じように鎧を着せられていれば、嫌でも体が覚える。

まだ空の色がはっきりしない時間でも、目は開く。

最初の頃は起き抜けに「ふざけんな」と思ったものだが、今では思うより先に体が起きるようになっていた。

もちろん、好きで起きているわけではない。

好きで走っているわけでもない。

ただ、ひと月も続けば、嫌でも習慣になるというだけだ。

城門横の定位置へ行くと、石壁は夜気を吸って冷たかった。門番がこちらに軽く会釈する。最初の頃は「若様が何故こんな時間に」という顔をしていた兵たちも、今では驚かない。むしろ、少しだけ見る目が変わった気がする。

それが気分のいいものなのか、悪いものなのかは微妙だ。

褒められているようでもあり、面白がられているようでもある。

ともかく、ギルはそこに立っていた。

鎧は既に着けている。最初の頃はそれだけで嫌になった重みも、今は「重いな」で済む程度には慣れた。もちろん軽くなったわけではない。ただ、自分の体が少しだけその重さに追いついてきただけだ。

東の空が白み始めた頃、ようやく見慣れた傷だらけの顔が近づいてきた。

「遅いぞ、セバス」

ギルは腕を組んだまま言った。

最初の頃なら、こんな言い方はしなかっただろう。だが、このひと月で二人の距離感はかなり変わった。別に仲良くなったわけではない。敬意が増したというより、遠慮が減ったのだ。

セバスチャンは片眉だけを上げた。

「年を重ねると、小便のキレが悪くて」

朝から最低な返答である。

ギルは思わず顔をしかめた。

「朝っぱらからそんな話聞かせんなよ」

「若いと分からんでしょうがね」

「分かりたくもない」

やり取り自体は軽い。だが、二人ともここから何をするかを知っているから、妙な緊張はない。

「では参りますか」

「ああ」

短く答える。

そして走り出す。

今では最初の頃のように、鎧の重みでいきなり呼吸が荒れることはなくなった。足の運び方も覚えた。重心をどこへ置けば無駄が少ないか、長く走るためにどの幅で呼吸すればいいか、少しずつ体が理解してきている。

セバスチャンの背中は相変わらず一定のリズムで前にある。

だが、その速度は明らかに上がっていた。

最初の頃より、かなり速い。

それでもついていける自分に、ギルは走りながら小さく驚いていた。

ひと月。

たったひと月で、ここまで変わるのか。

いや、変わらされたと言うべきかもしれない。朝から晩まで走らされ、立ち方を直され、息の仕方を叩き込まれ、休むなと言われ続けた。途中で何度もキレたし、何度もこのクソじじいをどうにかしてやろうと思った。

だが、変化そのものは否定できない。

脚が前よりも軽い。

肩で息をしなくなった。

視界の揺れ方も減った。

何より、走りながら考えごとをする余裕が少しだけ出てきた。

それが一番、自分でもおかしかった。

最初は走るだけで精一杯だった。景色なんて見る余裕もなく、ただ前の背中に置いていかれまいと足を動かしていた。

今は違う。

城壁の上を渡る風の冷たさも、朝日が石に落とす色の変化も、遠くで起き始める街の気配も、ちゃんと目に入る。

同時に、セバスチャンの足運びも見えるようになっていた。

あのオッサン、やっぱりおかしい。

速いから凄いのではない。

乱れないのだ。

一定の歩幅、一定の呼吸、一定の重心移動。ひたすら同じように見えて、地面の癖や上り下りに応じて細かく変わっている。無駄に力んでいない。だから長く持つのだと、走りながらでも少しずつ分かってきた。

日が高くなる。

昼を過ぎる。

休憩は短い。水を飲み、必要最低限の補給だけをして、また走る。最初の頃はそれすら地獄だったが、今では「死ぬほど嫌」から「嫌だが何とかなる」くらいには落ち着いた。

もちろん、楽ではない。

夕方が近づく頃には、流石に脚が重くなる。鎧の内側に汗が溜まり、革の下で肌がじっとりと張りつく。腕も肩も鈍く痛む。だが、それでも最初の頃のように視界が白く飛ぶことはなくなっていた。

日が傾き、空が焼ける頃、ようやくセバスチャンが足を止めた。

ギルも同時に止まる。

膝に手をつき、大きく息を吐く。呼吸は乱れている。だが、倒れ込むほどではない。

そこで、ふと横を見る。

セバスチャンも息が乱れていた。

本当にごく僅かだが、胸の上下がいつもより少しだけ大きい。鼻から吐く息も、普段より荒い。

……おや?

ギルは口元を歪めた。

「なんだ」

あえて軽く言う。

「おいぼれたか、セバス」

セバスチャンが横目で睨んできた。

「やかましいですよ、若様」

その返しに、ギルは少しだけ気分が良くなる。

追いつけたとは言わない。勝ったわけでもない。だが、ひと月前なら、夜まで走りきったあとにこんな軽口を叩く余裕すらなかった。

進んではいるのだ。

それは、セバスが認めた「まずまず」以上に、自分の体が教えてくれていた。

いつものように、自室へ戻ろうとしたときだった。

「若様」

背に声が飛んできた。

ギルは振り返る。

夕焼けがセバスチャンの傷だらけの顔を赤く染めていた。

「何だ」

「明日は昼まで、たっぷりレティシア嬢を抱いてから来てください」

ギルは一瞬、言葉を失った。

何を言ってるんだ、このクソじじい。

顔に出さなかった自信は、あまりない。

セバスチャンは真顔だ。真顔で、さらりととんでもないことを言っている。

「……お前」

ギルはじっとその顔を見た。

セバスチャンは肩もすくめない。

「明日から戦場に向かいます」

その一言で、空気が変わった。

冗談ではない。

本気だ。

ギルは数拍のあいだ、何も言わなかった。

戦場。

ついに来たか、と思う。

嫌なわけではない。いや、正確には嫌だ。怖くないと言えば嘘になるし、面倒でもある。だが、それ以上に、ここまで走らされてきた意味がようやく形になるのだという感覚があった。

あのひと月が、ただの嫌がらせではないところへ繋がる。

それは、妙な納得を伴って胸へ落ちた。

だから、返事は案外あっさり出た。

「分かった」

頷く。

「レティシアには、がんばってもらうよ」

言ってから、自分でもだいぶどうかしている返しだと思った。

だが、セバスチャンは咎めなかった。

むしろ、ほんの少しだけ口元を歪めた。

ギルはそれ以上何も言わず、踵を返した。

自室へ向かう足は、いつもより少し速い。

背後で、セバスチャンがにやりと笑った気配がしたが、振り向かない。

扉を開ける。

部屋へ入るなり、ギルは鎧を脱ぎ捨てた。

金具の音が大きく響く。いつもならもっと丁寧に扱うところだが、今日はそんな余裕はない。

「若様?」

奥からレティシアが出てくる。

今日も就寝前の支度をしようとしていたらしい。整えかけの寝台と、灯りの調整された部屋の空気が、いつもより少しだけ温かく感じる。

ギルは息を整える暇もなく言った。

「レティシア、すまんが明日から戦場に行く」

レティシアの目がわずかに見開かれた。

驚いたのだろう。だが、それは本当に一瞬だけだった。すぐに表情を整え、数歩近づいてくる。

「……そうでございますか」

静かな声だ。

嘘のない驚きはあった。だが、取り乱しはしない。彼女はそういう女だ。

そのまま、そっとギルを抱きしめた。

細い腕が背に回る。ひやりとした指先が、訓練の熱をまだ残した肌越しに触れる。

「ご武運を、お祈りしております」

顔を上げずに言う。

その声音が、妙に胸に刺さった。

戦場に行く。

言葉にすれば簡単だが、それは死ぬかもしれない場所へ向かうということだ。魔力が強かろうが、鍛えられていようが、絶対などない。

それを分かっていて、レティシアはこうして抱きしめてくれている。

なら、こちらも応えなければならない。

ギルはそのままレティシアの腰へ腕を差し入れ、抱き上げた。

「若様……!」

小さな驚きの声が漏れる。

ギルはそのまま寝台へ向かいながら言った。

「レティシア、今夜は眠らせん」

顔が赤くなるのが見えた。

それでもレティシアは、逃げも拒みもしない。

ただ、少しだけ恥じらうように睫毛を伏せて、こくりと頷いた。

「はい」

柔らかい声。

「喜んで」

その返事を聞いた瞬間、ギルの胸の中にあった不安が少しだけほどけた。

明日から戦場だ。

何を見るのか、どこまでやれるのか、自分でも分からない。

だが今夜だけは、考えるのをやめる。

ただ、レティシアを抱きしめる。

それでいいと、今は思った。