軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第四十話 後押しする山賊

宿屋の窓の外では、夜が少しずつ深くなっていた。

街道沿いの宿場は、日が沈むと昼間とは別の顔になる。荷車の軋みは減り、代わりに酒場から漏れる笑い声が増える。厩の方では馬が時々鼻を鳴らし、厨房の煙突からは肉と豆を煮る匂いが立ちのぼっていた。二階の部屋まで、下の喧騒は薄い床板越しに届いてくる。

ギルは窓際の椅子に腰を下ろしたまま、外を見ていた。

見ていると言っても、何かを見ていたわけではない。

頭の中にあるのは、鈍く光る銀灰色の粉だった。

腐銀。

フリージア家の密使がアバルディア家へ持ち込んだという、魔力持ちに効くと噂される毒。あれが本物かどうかは分からない。そもそも腐銀というものが、噂通りの存在なのかも分からない。だが、瓶の中にあった粉は、妙に頭から離れなかった。

嫌な色だった。

美しくないのに目を引く。ただの金属の粉と言われれば、そう見えなくもない。けれど、見た瞬間に胸の奥が冷えた。前世の記憶から来るものなのか、この世界で魔力を扱ってきた感覚が嫌がっているのか、それすらはっきりしない。

分からない。

分からないことばかりだ。

ギルは指で額を軽く押さえた。

さっきまでセバスチャンとダリアを呼び、腐銀について話していた。フリージア家が詫びとして持ち込んだのではないか。腐銀そのものではなく、腐銀を使った者がいると示すための証拠なのではないか。使ったのがメガレス家なら筋は通る。先帝の死すら関わっている可能性もある。

そこまで考えて、さらに嫌な仮説が浮かんだ。

フリージア家が腐銀を持っている。

なら、フリージア家は腐銀をどう扱ってきたのか。

ただ保管していただけか。作れるのか。見つけられるのか。

いや、もしかして。

「……腐銀を見つける個人魔法、か?」

声に出してから、ギルは自分で嫌になった。

ありそうで怖い。

個人魔法。

五大魔法から外れた、個人や家系に伝わる特化した魔法。大半は汎用性が低かったり、効率が悪かったり、使い手が限られたりするから主流にはならない。だが、特定の場面では妙に役立つものもある。

豚を探す個人魔法があるなら、腐銀を見つける個人魔法があってもおかしくない。

いや、おかしくないと言うより、あったら非常に困る。

もし腐銀が俺の考えているような、前世でいう放射性物質みたいなものなら、何か特徴があるはずだ。匂いではない。色でもない。魔力に反応する何かかもしれないし、逆に魔力を乱す独特の違和感かもしれない。それを見つける魔法。感知魔法の変質なのか、全く別の個人魔法なのかは分からない。

ありそうだ。

怖いくらいありそうだ。

フリージア家が弱いのに帝家として残っている理由。

腐銀そのものを持っているからなのか。

腐銀を見つけられるからなのか。

あるいは、その両方なのか。

ギルは椅子の背に体を預けた。

では、その魔法を奪えば安全を確保できるか。

少なくとも、腐銀に近づかないことはできるかもしれない。魔法を使う相手に何度か同じ魔法を使わせ、魔力の動きを感じ取る。何人かに使わせて共通項を拾うのが理想だが、個人魔法なら使い手が限られるだろう。全員が使えるとは思えない。当主か、それに近い血筋か、あるいは特定の教育を受けた者だけ。

襲うか。

使わせるか。

魔法を奪うか。

考えた瞬間、ギルは眉を寄せた。

危険だ。

腐銀を扱う家の中枢へ踏み込むということは、腐銀そのものに近づくことになる。腐銀を見つける魔法を得るために、腐銀のある場所へ突っ込む。間抜けにもほどがある。もし本当に近くにあるだけで危険なら、習得する前にこっちが削られるかもしれない。

なら、自分で開発するか。

感知魔法の応用。

放射性物質なら放射能を意識すればいいのか。

……放射能って何だよ。

詳しくなんて知らんぞ。

前世で言葉は知っている。危険だということも知っている。ガイガーカウンターとやら反応するというぼんやりした知識もある。だが、何がどう出ていて、何をどう感知すればいいのかなんて分からない。魔力なら感知魔法で拾える。だが、どうすればいい。魔力を乱す反応を拾うのか。周囲の魔力の揺らぎを見るのか。

イメージだけでいけるか?

難しいか?

ギルは口の中で小さく唸った。

やはり、分からない。

「若様」

セバスチャンが声をかけてきた。

いつの間にか焼き肉の残りを食べ終えていたらしい。皿は空になり、手元には粗い布が置かれている。酒を飲んでいないだけ、まだ真面目な顔をしていた。

「今度は何を思いついたんで?」

「嫌なこと」

「そいつはいつものことで」

「お前、俺を何だと思ってるんだ」

「面倒事を拾うのが上手い若様ですな」

「拾いたくて拾ってるわけじゃない」

ギルはため息をついた。

ダリアは壁際で静かに立っている。彼女はまだ出ていない。アバルディア家へ腐銀の保管について伝える件は、夜が更けてから動くことにしている。今はまだ宿場に人の目が多い。急ぎすぎて目立てば、かえってまずい。

「ダリア」

「はい」

「フリージア家の当主に繋がる血筋の家は、近隣にあるか?」

ダリアの目が少しだけ動いた。

質問の意味を測っているのだろう。

「近くとは言いにくいですが、知ってはいます」

「どの程度の規模だ?」

「確か、三名の貴族の方がおられます」

「三人か」

ギルは指を組んだ。

三人。

不可能ではない。

俺がいれば、貴族三人でも正面から殺すだけならどうにかなる可能性は高い。油断しなければ、攻撃魔法で貫ける。セバスチャンたちが騎士や兵を抑え、俺が貴族を潰す。いつもの形だ。

だが、問題はそこではない。

その屋敷に腐銀があるかもしれない。

腐銀を見つける個人魔法があるなら、なおさらあるかもしれない。

そんな場所に、何も分からないまま踏み込むのは危険だ。魔法を奪うには、相手にその魔法を使わせる必要がある。戦闘中にそんな余裕があるか。捕らえて使わせるか。捕らえた貴族が素直に使うか。そもそもその血筋の三人が使えるとは限らない。

無理だな。

いや、完全に無理ではないが、今やることじゃない。

「やっぱりダメだな」

ギルは呟いた。

「フリージア家を襲うんですかい?」

セバスチャンが軽く聞いてくる。

「一瞬考えた」

「ほう」

「腐銀を見つける個人魔法でも継承してるんじゃないかと思ってな。奪えれば腐銀を避けられるかもしれない」

セバスチャンは少しだけ口元を歪めた。

「そいつはまた、厄介な発想で」

「だが、腐銀があるかもしれない屋敷へ腐銀対策のために行くのは馬鹿らしい」

「違いねえ」

「今はやめる。これまで通りにやる」

ギルはそう言ったものの、胸の中に重さが残った。

これまで通り。

そう言えるほど、状況は単純ではない。

腐銀が出てきた。

フリージア家が動いた。

メガレス家は割れ、ザザント家は追い詰められ、アバルディア家はザザントとの共闘へ動いている。ここでやめれば、流れが途中で崩れる可能性がある。だが、続ければ腐銀という不透明な危険に近づくかもしれない。

面倒だ。

本当に、面倒になってきた。

「なんか、もうほったらかして帰るか」

ギルは思わず言った。

セバスチャンが肩を揺らした。

「まあ、これだけやればいいっちゃいいですけどね」

「だろ?」

「帝都に攻撃魔法をぶち込み、貴族屋敷を焼き、メガレスとザザントを疑わせ、腐銀まで見つけた。普通なら大戦果ですぜ」

「普通ならな」

ギルはダリアを見た。

ダリアは静かにこちらを見返していた。

「ギル様に帰られては困ります」

はっきり言った。

遠慮もない。

「だよなぁ」

ギルは頭をかいた。

分かっている。

ここで帰るのは中途半端だ。

アバルディア家とザザント家の共闘が固まる前にギルたちが消えれば、状況がまた揺れる。メガレス家の長男派が勝手に暴れ、次男派が収束に動き、叔父が見極めている間に、ザザント家がどこへ転ぶか分からない。無秩序に荒れれば、マバール領にも影響が来るかもしれない。

ギルの目的は帝国をただ混乱させることではない。

お気楽生活を守ることだ。

そのためには、帝国の内側に形のある対立を作り、メガレス家の一強を防ぐ必要がある。アバルディア家とザザント家が組めば、メガレス家は簡単には帝国をまとめられない。そこまではやるべきだ。

「最後まで責任持つか」

ギルが言うと、セバスチャンが笑った。

「責任って言葉が似合わねえ仕事ですな」

「うるさい。上品な山賊にも責任感くらいある」

「初耳ですぜ」

「今覚えろ」

ギルは椅子から立ち上がった。

窓の外はすっかり暗くなっている。宿場の灯りが通りに落ち、酒場の声はさらに大きくなっていた。ここでいつまでも考えていても仕方ない。動くしかない。

「よし。アバルディアとザザントの同盟ができるまでは頑張ろう」

ダリアの表情が少しだけ緩んだように見えた。

安心したのかもしれない。

いや、ただの推測だけど。

「とりあえず移動するぞ」

「どちらへ」

ダリアが尋ねる。

「メガレス家がザザント家を襲ってる地域まで」

セバスチャンの目がすぐに楽しそうな色を帯びた。

「そこでザザント家を襲う訳ですな。メガレス家の仕業に見せかけて」

「人聞きが悪いことを言うな」

ギルは即座に返した。

「ザザント家の決断を後押しするだけだ」

「モノは言いようですな」

「メガレス家を応援するでもいいぞ」

「そいつはまた酷え」

セバスチャンは低く笑った。

ダリアは黙っている。

彼女はこの会話の意味を理解しているはずだ。ザザント家を襲う。だが、ギルたちが本当にザザント家を敵視しているわけではない。むしろアバルディア家との共闘へ押し込むための工作だ。ザザント家へさらに圧をかけ、メガレス家への怒りと恐怖を強める。

悪辣だ。

だが、効果はある。

「ダリア」

「はい」

「適当なメガレス家系の紋章とか知ってたら教えてくれ」

セバスチャンが顔をしかめる。

「悪どいですな。紋章の偽造は貴族の御法度ですぜ」

「俺たちは上品な山賊だ。関係ないだろ」

「そういやそうでしたな」

「メガレス家系の、いかにも長男派に見えそうなやつがいい」

ダリアは少し考えた。

「正確な紋章を偽造するなら準備が必要です。ただ、遠目や混乱の中で見間違えたと思わせる程度なら、いくつか候補があります」

「それでいい。むしろ正確すぎると困る」

「なぜです?」

「正確すぎる証拠は、調べられると偽物だとバレやすい。曖昧な目撃証言の方が勝手に育つ」

ダリアは一瞬黙った。

「……承知しました」

「嫌そうだな」

「いえ」

「嘘をつけ」

ギルが言うと、ダリアは視線を少し逸らした。

嫌なのだろう。

だが、止めない。

彼女も分かっている。アバルディア家とザザント家の同盟を成立させるには、ザザント家をさらに追い詰める材料が必要だ。メガレス家系に襲われたという証言があれば、ザザント家の中でもアバルディアとの共闘を望む声が強くなる。

ギルは机の上に指を置いた。

「今回は、いつもと違う」

セバスチャンとダリアがこちらを見る。

「完全には潰さない。生き残りを出す」

「珍しいですな」

「証言者が必要だからな」

「誰を残しやす?」

「メガレス家系の紋章を見た者。できれば使用人か、下級兵。貴族や強い騎士は残すな。面倒になる」

「へい」

「生かすのは慈悲じゃない。喋らせるためだ」

ギルははっきり言った。

ここを間違えてはいけない。

敵の命を重視しているわけではない。ザザント家に情けをかけるわけでもない。必要だから残す。証言として使う。ザザント家を動かすための材料にする。

それだけだ。

「襲撃は少し荒く見せる。最近ザザント家系を襲っているメガレス長男派らしき連中のやり方に寄せる。だが、こっちの被害は出すな」

「難しい注文で」

「できるだろ」

「まあ、やりますがね」

セバスチャンは歯を見せて笑った。

この老人は、こういう汚れた仕事でも顔色を変えない。むしろ楽しんでいるようにすら見える。だが、軽いだけではない。実際には、誰を殺し、誰を逃がし、どこまで燃やすかをかなり正確に判断する男だ。

信頼はしている。

口には出さないけどな。

翌朝、ギルたちは宿場を出た。

ダリアは夜のうちにアバルディア家への連絡を済ませていた。腐銀を近くに置くべきではないこと、保管には魔力持ちを近づけない方がいいこと、ギルの推測であり断定ではないこと。そうした内容を、目立たない形で送ったらしい。

朝の街道は冷えていた。

宿場の外に出ると、畑の上に薄い霧が残っている。荷車はまだ少なく、遠くで鶏が鳴いていた。ギルたちは赤布を巻かず、旅の傭兵らしい姿で進む。魔力は抑える。感知魔法も必要な範囲だけしか使わない。

数日の移動になった。

道中では、ザザント家系の屋敷襲撃の噂がさらに増えていた。やはりメガレス家系らしい者を見たという話が流れている。長男派の騎士が動いているのではないか。いや、ザザント家の自作自演ではないか。いやいや、アバルディア家が裏で仕掛けているのではないか。酒場では勝手な話がいくらでも生まれていた。

ギルはそれを聞きながら、何も言わなかった。

噂は勝手に育つ。

なら、少しだけ餌を足せばいい。

狙う屋敷は、ザザント家系の小貴族だった。

ダリアによれば、規模は大きくない。貴族は一人。騎士は数名。周囲の兵も多くない。ただし、ザザント家本流に近い使者が時折出入りしているらしく、被害が出れば話は上へ届きやすい。つまり、証言を残すには悪くない。

屋敷へ近づいたのは、夕方前だった。

空には薄い雲が広がり、陽はまだ落ちていない。襲撃には少し早い。だが、あえてその時間にした。夜襲ばかりでは手慣れた山賊に見えすぎる。少し荒い襲撃に見せるなら、夕暮れ前の中途半端な時間がいい。見られる危険は増えるが、今回は見られる必要がある。

ギルは遠くから屋敷を見た。

石の外塀。

木製の門。

見張りの兵が二人。

中庭に馬が数頭。

屋敷は二階建てで、窓は多くない。裏手には倉と小さな使用人棟がある。逃げ道はいくつかありそうだった。

感知魔法を立体的に絞る。

貴族の魔力が一つ。

騎士らしい反応が四つ。

他に強い魔力はない。

平民の数は分からないが、屋敷の規模からして多くはないだろう。

「若様」

セバスチャンが低く言った。

「貴族一人。騎士四人」

「へい」

セバスチャンたちの空気がわずかに変わった。

鎧の鳴り方が小さくなり、足場を確かめるつま先が土を深く押す。各々が自分の体へ魔力を巡らせているのだろう。ギルが何かを流す必要はない。騎士は騎士で、自分の肉体強化魔法を使える。むしろここでギルが余計に手を入れれば、それぞれの踏み込みや呼吸を乱すこともある。

ギルは自分の内側だけを整えた。

胸の奥へ魔力を沈め、手足の感覚をほんの少しだけ軽くする。走るためではない。急に動くためでもない。攻撃魔法を放つ瞬間に、体が遅れないようにするためだ。

視界は屋敷へ。

感知魔法は屋敷の奥へ。

意識は、貴族の魔力反応に置いた。

貴族は一つ。

騎士は四つ。

今回、殺すべき相手と残すべき相手を、頭の中で分ける。

「使用人と下級兵は残せるだけ残す。ただし、見た者を全部逃がすな。混乱しすぎると証言が散る」

「難しい加減で」

「お前ならできる」

「そう言われちゃ仕方ねえですな」

セバスチャンは笑った。

ダリアは少し後ろにいる。

彼女は今回、前には出さない。ザザント家系の屋敷にアバルディア家の関係者がいると、万が一顔を見られた時に面倒だ。ダリアは魔力を持たないから感知魔法では見つからないが、目で見られれば別だ。だから戦闘中はギルの近くに置きつつ、必要以上に姿を見せない。

「紋章は?」

ギルが聞くと、ジノが布を差し出した。

メガレス家系の、とある小貴族の紋に似せたもの。正確ではない。だが、混乱の中で見れば十分だろう。盾形の布に、黒い獣と赤い線が雑に描かれている。本物を知る者が落ち着いて見れば違うと分かるかもしれないが、火と悲鳴の中なら印象だけが残る。

「いい感じに雑だな」

「褒め言葉ですかい?」

「今回はな」

ギルは布を見て頷いた。

「門を壊す。騎士は殺せ。貴族は俺がやる。使用人棟側は逃げ道を一つだけ開けておけ。そちらへ逃げた者には、この紋章を見せろ。近づきすぎて殺されるなよ」

「へい」

ギルは赤布を巻いた。

上品な山賊の時間だ。

「行くぞ」

屋敷の門番が異変に気づいたのは、ギルたちが走り出してからだった。

叫び声が上がる。

槍が構えられる。

だが、遅い。

セバスチャンが前へ出た。老人の動きは重くない。だが、ただ速いだけでもない。地面を踏むたびに体が沈み、次の瞬間には槍の内側へ入っている。門番の槍を横へ弾き、肩からぶつかるように踏み込む。門番の体が崩れた。もう一人の兵が叫ぶ前に、オルドが柄で顎を打ち抜く。

殺さない。

今回は残す。

もちろん、立ち上がって邪魔になるようなら殺すが、今は証言者候補だ。

ジノが雑な紋章布を門の内側へ掲げた。

見ろ。

見て覚えろ。

そう言わんばかりの位置だった。

ギルは門をくぐり、中庭へ入る。

騎士の魔力が一つ、こちらへ向かってくる。

鎧を着る途中だったのか、胸当ての留め具が片方外れている。だが、剣は抜いていた。騎士としては悪くない反応だ。迷わず突っ込んでくるあたり、屋敷への忠誠もあるのだろう。

セバスチャンが受けた。

剣がぶつかる。

火花。

ギルは横を抜ける。

騎士はセバスチャンに任せる。今回の目的は貴族だ。貴族を生かすつもりはない。ザザント家系の貴族を残せば、話が変わりすぎる。証言者としては強すぎるし、後で余計な交渉材料になる。

屋敷の扉が開く。

中から男が出てきた。

年は三十代か四十代か。肩に上着を引っかけ、目には怒りと混乱がある。魔力が立ち上がる。貴族だ。ザザント家系の小貴族。防御魔法を張ろうとしている。攻撃魔法を撃つか、逃げるか、迷っているようにも見えた。

ギルは迷わない。

攻撃魔法を一点に絞り、貫く。

男の防御魔法が展開しきる前に、胸へ通す。続けて頭。倒れる前にもう一度、心臓の位置へ攻撃魔法を突き込んだ。男の魔力が大きく乱れ、すぐに萎む。

確実に殺す。

慈悲はない。

今回残すのは証言者であって、敵の貴族ではない。

「貴族は終わった」

ギルが短く言うと、セバスチャンが返事を飛ばした。

「へい!」

屋敷の奥で悲鳴が上がる。

使用人だろう。

別の騎士の魔力が二つ、左右へ動いた。片方はオルドが押さえる。もう片方はジノが誘導するように中庭の端へ引っ張った。騎士を殺す場所も考える必要がある。逃げる使用人の目に、メガレス家系の紋章が入るように。

ギルは屋敷の玄関に攻撃魔法で火を入れた。

焼き払うように使う。

床板と壁掛けへ火が走り、煙がすぐに上がった。全焼させる必要はない。だが、燃えたと分かる程度には必要だ。火の勢いを強めすぎると、逃げる者まで巻き込む。今回は調整が面倒だった。

面倒だが、やる。

ザザント家を動かすための火だ。

使用人棟の方から、女の悲鳴と子どもの泣き声が聞こえた。

ギルはそちらへは行かない。

逃げ道は開けてある。必要なら逃げるだろう。逃げなければ死ぬかもしれない。それは仕方ない。こちらは人助けに来たわけではない。

騎士の一人が中庭で膝をついた。

セバスチャンの剣が首筋へ入る。

血が石畳へ散った。

別の騎士はオルドに足を潰され、起き上がろうとしたところで喉を貫かれる。残すには危険すぎる。騎士は証言者としては強すぎるし、追撃してくる可能性がある。殺す。

平民兵は数名いた。

そのうち一人は腰を抜かし、門の脇へ転がった。ジノがあえて近くで紋章布を翻す。男はそれを見た。見たはずだ。目が大きく開いていた。

よし。

見たなら生かす価値がある。

「そいつは残せ」

「承知」

ギルは屋敷の中へ視線を向けた。

魔力反応はもうない。

貴族は死んだ。

騎士もほぼ処理された。

残りは平民だけ。

火は広がりすぎていない。玄関と廊下の一部、壁掛け、書類棚。煙は出ている。見た目は十分だ。屋敷が燃えたという噂にはなる。

「財は少しだけ持て」

ギルの指示に、オルドとジノが屋敷へ入る。

あらかじめ狙う場所は決めてある。玄関近くの小部屋、銀器の棚、金庫ではなく持ち運べる箱。雑な襲撃に見せるため、全てを探らない。価値のある物を一部奪い、残りは燃えかけたまま放置する。

使用人棟から二人、逃げ出した。

若い女と、年配の男。

二人ともこちらを見た。

セバスチャンがあえて道を塞がず、紋章布のある門の方へ追い立てるように動いた。女が泣きながら走る。男は転びそうになりながら後を追う。門の近くで腰を抜かしていた兵が、二人に何か叫んだ。

生存者が三人。

十分だ。

多すぎても困る。

少なすぎても証言が弱い。

「撤収」

ギルが言うと、騎士たちが素早く動いた。

持ち出す財は袋二つだけ。火の勢いは適度。貴族と騎士は死んだ。生き残りは紋章を見た。メガレス家系らしき何かを見た。そう証言するだろう。混乱の中で、記憶は勝手に補強される。恐怖は見たものを大きくする。

屋敷の外へ出る直前、ギルは一度だけ振り返った。

火の向こうに、ザザント家系の貴族の死体が倒れている。

情はない。

だが、この死体は役に立つ。

ザザント家をさらに追い詰める。

メガレス家への怒りを強める。

アバルディア家との共闘を後押しする。

人聞きは悪い。

だが、戦とはそういうものだ。

ギルたちは屋敷を離れた。

追手は来なかった。

来られなかったのだろう。

火が上がり、生存者は混乱し、貴族も騎士も死んだ。平民だけで追ってくるほど馬鹿ではない。しばらくすれば近隣へ知らせが走り、ザザント家系の騎士が来る。だが、その頃にはギルたちはもういない。

移動は速すぎず、遅すぎず。

完全に逃げるように走れば怪しい。かといってのんびりしすぎれば危険だ。ギルたちは脇道を使い、予定していた林の近くで一度馬を休ませた。奪った財を確認し、不要な血のついた布を処理する。紋章布は燃やさない。まだ使えるかもしれないからだ。

「証言者は?」

ギルが聞く。

「三人は確実に残ってやす」

セバスチャンが答えた。

「一人は門番。二人は使用人。全員、紋章を見たはずですぜ」

「見間違いでもいい」

「見たと思い込めば十分で」

「そうだ」

ギルは頷いた。

ダリアは黙っていた。

彼女の顔は硬い。

ザザント家との共闘を成立させるためとはいえ、ザザント家系の屋敷を襲わせたのだ。アバルディア家の利益になるとは理解していても、心地よいはずはない。だが、止めなかった。彼女は役目を理解している。

「ダリア」

「はい」

「嫌なら嫌だと言っていいぞ。やめないが」

ダリアは一瞬だけ言葉に詰まった。

「……いえ」

「そうか」

「必要なことだと理解しています」

「ならいい」

ギルはそれ以上聞かなかった。

必要なこと。

便利な言葉だ。

だが、実際に必要だった。

数日後、噂は想定以上に速く広まった。

ザザント家系の屋敷がまた襲われた。

貴族が殺された。

騎士も死んだ。

屋敷に火が放たれた。

生き残りが、メガレス家系の紋章を見たと言っている。

しかも、その紋章が長男派に近い小貴族のものに似ていたらしい。

似ていた。

らしい。

この曖昧さがちょうどよかった。

断定ではないから広がる。確証がないから誰もが勝手に語る。メガレス家が否定すればするほど、ではなぜそんな証言が出たのかと疑われる。ザザント家にとっては十分な材料だ。これ以上待てば、次は本流に近い屋敷が襲われるかもしれない。

ギルたちは次の宿場にいた。

今回は目立つ動きはしない。しばらくは襲撃を控え、噂の広がりを見る。宿場の酒場では、ザザント家はもう黙っていないだろうとか、メガレス家の長男は本気で潰しに来たとか、アバルディア家が仲裁に入るかもしれないとか、そんな話が飛び交っていた。

ギルはそれを聞きながら、薄い茶を飲んでいた。

味は相変わらず悪い。

レティシアの淹れる茶が恋しい。

その夜、ダリアのもとへ秘密連絡が届いた。

平民の女が宿場の裏口に野菜を売りに来た。荷の中に布片が入っていた。ダリアはそれを受け取り、何でもない顔で戻ってきた。部屋へ入ると、扉を閉め、布片を広げる。文字ではない。符牒だ。ギルには読めない。

だが、ダリアの表情で、悪い知らせではないと分かった。

「どうだ」

ギルが聞く。

「アバルディア家とザザント家の共闘が、ほぼ決まりました」

セバスチャンが低く笑った。

ギルは椅子の背に体を預ける。

「形は?」

「アバルディア家有利です。ザザント家はかなり譲歩したようです」

「そうか」

追い詰められた側は、条件を選びにくい。

メガレス家に疑われ、襲われ、アバルディア家にも表向き責められている。そこから抜けるには、アバルディア家と手を組むしかない。ザザント家は苦しい。だから譲る。アバルディア家はそれを受け取る。

実にいい流れだ。

悪辣ではあるが、仕事としては悪くない。

「詳細は?」

「まだ完全には。ただ、皇帝候補についてはアバルディア家側が主導する方向で調整が進むようです。ザザント家は見返りを求めていますが、今回はかなり抑えられています」

「次回はザザント、みたいな話か?」

「その可能性はあります」

「まあ、そこは俺たちが決める話じゃないな」

ギルは茶器を置いた。

肩の力が少し抜けた。

完全に終わったわけではない。メガレス家はまだ強い。フリージア家の腐銀も不明のまま。メガレス家の次男も危険だ。先帝の死も、アバルディア家の男子の件も、まだ何も解けていない。

だが、帝国内工作としてやるべき山は越えた。

アバルディア家とザザント家が組む。

メガレス家の一強を防ぐ形ができる。

帝国は簡単には王国へ向けてまとまらない。

マバール家にとって悪くない。

俺のお気楽生活にも悪くない。

「ふ〜」

ギルは長く息を吐いた。

「やれやれだが、仕事が上手くいくのは気分がいいな」

セバスチャンが笑った。

「上品な山賊としては大成功ですな」

「そうだな」

「これで帰り支度ですかい?」

「ああ」

ギルはすぐに答えた。

言葉にした瞬間、胸の奥が軽くなった。

帰る。

レティシアのいるマバール家へ。

茶葉を渡す。

豆の調味料を試す。

柔らかい寝台で寝る。

腐銀だの皇帝候補だの面倒なことを考えずに、しばらくぼんやりする。

もちろん、完全に終わりではない。帰り道も安全とは限らないし、帝国内の状況はまだ動く。腐銀のことも調べなければならない。フリージア家のことも、王国やマバール家の古い死因も、帰ったら確認する必要がある。

だが、それは帰ってからだ。

少なくとも、ここでさらに帝国内部へ踏み込んで長引かせる必要は薄い。アバルディアとザザントが組む形はできた。これ以上こちらが暴れ続ければ、かえって同盟を乱す可能性もある。上品な山賊は、仕事が済んだら消えるべきなのだ。

「若様が素直に帰ると言うと、なんだか怖いですな」

「なんでだ」

「もう一つくらい余計なことをするとばかり」

「しない」

ギルはきっぱり言った。

「今回の仕事はここまでだ。あとはアバルディア家とザザント家の仕事だろ」

ダリアが静かに頭を下げた。

「はい。ここまでで十分です」

「そう言ってくれると助かる」

「ギル様がここで退かれるなら、アバルディア家も動きやすくなります」

「だろうな」

ギルは赤布を手に取った。

何度も使った布だ。

帝都を見た。

大河を渡った。

貴族屋敷を焼いた。

メガレスとザザントを疑わせた。

アバルディアとザザントを近づけた。

その間、ずっとこの布を巻いていた。上品な山賊の顔だ。

そろそろ、その顔も外していい頃だろう。

もちろん、帰り道ではまだ使うかもしれない。

だが、少なくとも帝国内での大仕事は終わった。

「帰路を決めるぞ」

ギルが言うと、セバスチャンの目つきがすぐに変わった。

「最短で?」

「いや、最短は危ない。追手や混乱に巻き込まれる可能性がある。ダリア、アバルディア家の目が届く道を使えるか?」

「可能です。ただし、途中まではザザント家の影響圏にも近づきます」

「今ならかえって安全かもな」

「はい。共闘が進むなら、少なくともアバルディア家経由で危険を避けやすくなります」

「よし」

ギルは窓の外を見た。

宿場の夜は深く、通りには灯りが点々と揺れている。遠くで馬が鳴き、酒場の声はまだ続いていた。帝国は騒がしい。疑いと火と毒と欲で、あちこちが軋んでいる。

その中で、ギルたちの仕掛けた一手は形になった。

アバルディアとザザントが組む。

メガレス家はそれを苦々しく見るだろう。

フリージア家は沈黙の中で何を考えるのか。

腐銀はどこから来て、どこへ行くのか。

まだ分からないことは多い。

だが、今だけは少しだけ気分がよかった。

ギルは茶器を持ち上げた。

薄く、苦い茶。

それでも喉を通る。

「仕事が終わったら、絶対にしばらく楽をする」

「若様はいつもそれを言ってやすな」

「言い続ければいつか叶う」

「叶うといいですな」

「叶えるんだよ」

ギルはそう言って、赤布を机の上へ置いた。

上品な山賊の仕事は、ひとまず終わりに向かっている。

終わりの形が見えてきた。

そのことだけは、悪くなかった。