軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第四十一話 獲物

帰り道を考えるようになってから、ギルは何度も同じことを思った。

帝国は広い。

行きも面倒だったが、帰りも楽ではない。大河を越え、アバルディア家の勢力圏を抜け、余計な関所を避け、宿場では目立たず、必要ならまた赤布を巻く。帝国内でやったことを思えば、堂々と街道を進めるはずもない。だが、行きと違って、帰り道には少しだけ見えているものがあった。

アバルディア家とザザント家は、ほぼ手を組む。

メガレス家は一枚岩ではない。

フリージア家は沈黙の裏で腐銀を抱えている。

帝国全体がどちらへ転ぶかはまだ分からないが、少なくともメガレス家が簡単に帝国をまとめ、王国へ圧をかけてくる流れは弱まったはずだ。完全に安心できるわけではない。けれど、ここから先はアバルディア家とザザント家の仕事だ。上品な山賊がいつまでも帝国内で暴れ続ければ、せっかく作った流れまで余計に乱れる。

そろそろ帰る。

それでいい。

ギルは馬上で軽く息を吐いた。

街道の先を、ダリアが進んでいる。

灰色の髪を後ろでまとめ、褐色の首筋を外套の襟から少し覗かせながら、彼女は迷いなく馬を進めていた。道案内としての働きは、最後まで安定している。どの宿場なら目立たず泊まれるか、どの村なら余計な詮索を受けにくいか、どの道がアバルディア家の目に入りやすく、どこから先がザザント家の影響に近いのか。彼女は必要な時だけ簡潔に話し、それ以外は黙っていた。

実に使いやすい。

いや、使いやすいという言い方は悪いかもしれないが、実際かなり使いやすかった。

帝国の家関係に詳しく、土地勘があり、平民同士の接触にも慣れている。魔力を持たないからギルの感知魔法には映らないが、それは裏仕事では強みでもある。もちろん、正面から戦う戦力にはならない。貴族や騎士相手に剣を振るわせる気もない。だが、戦力だけで人間の価値が決まるわけではない。

……と、前世の感覚が少し顔を出す。

ギルは眉を寄せた。

この世界では、そこが少し違う。

魔力を持つ者が強い。強い者が偉い。偉いから強いのではなく、強いから偉い。貴族とは、家名や血統だけの存在ではない。魔力によって実際に兵を焼き、魔物を討ち、城を落とす者たちだ。騎士もまた魔力を持ち、平民兵とは違う。そこに理屈を後付けする必要はないほど、力の差ははっきりしている。

ギルも、それを分かっている。

この世界に来てから、嫌というほど見てきた。

だから、平民であるダリアがいくら有能でも、アバルディア家での立場が強いとは限らない。分かっている。分かってはいるが、どうにも引っかかる。

前を行くダリアの背を見ながら、ギルは何気なく呟いた。

「ダリアも本家に戻れば出世するだろうな」

隣を進んでいたセバスチャンが、妙な顔をした。

「いや、そんな事はありやせんぜ」

「ん?」

ギルはセバスチャンを見た。

「ダリアは優秀だぞ」

「そりゃ優秀ではありますが、平民ですぜ」

セバスチャンは馬の歩みに合わせて肩を揺らした。顔はいつもの凶悪な老人そのものだが、声にはからかいだけでなく、少しだけ古参騎士らしい重さが混じっていた。

「まぁ、若様は生産拠点とやらで平民とも付き合いがありますからな」

「だからって、有能なら使うだろ」

「使いやすよ。ですが、今回ダリアが知っちまった事はちと重すぎやすぜ」

ギルは口を閉じた。

前を行くダリアとの距離は少しある。風は前方へ流れている。聞こえてはいないだろう。たぶん。ギルは声を少し落とした。

「俺の正体と、帝国でやったことか」

「へい。帝都への攻撃、貴族屋敷の襲撃、メガレスとザザントの疑い合い、アバルディア家との密談、腐銀。並べると、どれもこれも平民一人に背負わせて外へ出すには重すぎやす」

「殺されるか?」

「まぁ、殺されはせんでしょうが、あまり外には出られんでしょうな」

あまり外には出られない。

セバスチャンは、あえて柔らかく言ったのだろう。

だが、意味は分かる。

屋敷の奥で管理される。必要な時だけ呼ばれる。外には出されない。結婚や独立や自由な異動など、望むだけ無駄になるかもしれない。今回ダリアが知った情報は、忠誠心や有能さを上回る危険物として扱われる。

アバルディア家からすれば当然の処理だ。

ギルは前方のダリアを見た。

彼女は変わらず馬を進めている。背筋は伸び、手綱を持つ手に乱れはない。自分の今後を分かっていないわけではないだろう。おそらくギルよりも正確に分かっている。平民としてアバルディア家に仕えてきたのなら、知りすぎた者がどう扱われるかなど、想像するまでもないのかもしれない。

それでも、彼女は平然としている。

その平然さが、少し気に入らなかった。

いや、気に入らないというより、もったいない。

ここまで働く女を、屋敷の奥へしまうのは損だ。ダリアは戦力ではない。魔力もない。だが、使える。帝国のことを知っている。口も堅い。度胸もある。アバルディア家への忠誠心も厚い。裏を返せば、主を変えて扱うには面倒な部分もあるが、その面倒さ込みで価値がある。

ギルは彼女の後ろ姿を改めて眺めた。

中性的な美人だ。

褐色の肌に灰色の髪。顔立ちはすっきりしていて、男装でもさせれば女たちからきゃーきゃー言われそうな鋭さがある。胸は小さい。かなり小さい。だが、馬に乗る姿勢がいいから、腰から尻にかけての線は旅装越しでも分かる。

胸はないが、尻はいい。

ふむ。

以前、父上も胸だけじゃなく尻も大事だと言っていた気がする。

もちろん、口外は絶対にしない。

辺境伯家の当主である父上の名誉に関わる。いや、父上本人は堂々と言いそうな気もするが、息子が外で言うのは別問題だ。下手に漏らせば不敬というか、家の品位というか、色々とまずい。ギルは内心だけで頷くに留めた。

有能。

知りすぎている。

戻れば閉じ込められる可能性が高い。

見た目も悪くない。

側室の一人にするか。

そう考えると、意外としっくりきた。

むしろ、この世界の貴族としてはその方が自然かもしれない。有能な平民だから保護する、などと言えば妙に前世的で、この世界の貴族らしくない。気に入った女を奪い、手元に置く。必要なら側室にする。乱暴ではあるが、貴族としては分かりやすい。少なくとも、他人へ説明する時にはそれで通る。

セバスチャンあたりは、それだけではないと察するだろう。

だが、それでいい。

分かる者だけ分かればいい。

「若様」

セバスチャンが半眼でこちらを見ていた。

「何を見てやす?」

「道案内だ」

「へえ」

「何だ、その目は」

「いや、別に」

絶対に何か察している顔だった。

このクソじじい。

ギルは咳払いして視線を前へ戻した。

あまり平民を庇いすぎると、貴族としての価値観を疑われる。だが、気に入ったから奪うなら話は別だ。平民一人を惜しんでいるのではない。気に入った女を手元に置くだけ。それならこの世界の理屈に合う。

山賊としてなら、なおさらだ。

ギルは赤布の感触を思い出した。

上品な山賊。

実に便利な仮面だった。

そして、その仮面は最後にもう一度だけ役に立つ。

数日後、一行は以前渡った大河の畔へ近づいた。

遠くからでも、空気が変わる。

湿った風が草を撫で、土の匂いに水の匂いが混じる。鳥が低く飛び、街道脇の木々の葉がしっとりと重く揺れていた。やがて視界の先に、横へ広がる鈍い光が見えた。大河だ。陽を受けて、広い水面がゆっくりとうねっている。

やはり、でかい河にはロマンがある。

ギルは少しだけ感動しかけた。

だが、今は攻撃魔法を撃ち込むわけにはいかない。以前それを言った時は全員に止められた。今回も間違いなく止められる。そもそも、ここで船を沈めるような真似をすれば、ダリアを奪うどころの話ではなくなる。

船着き場には、アバルディア家の船が用意されていた。

表立った旗はない。目立つ紋章もない。だが、船体はよく手入れされ、水夫の動きにも統制がある。普通の渡し船より少し大きく、馬を乗せるための板も用意されていた。

建前は、相変わらず苦しい。

アバルディア家は山賊など知らない。

マバール家の三男が乗っていたなど思いもしない。

ただ、どこの誰とも分からない旅人、あるいは厄介な武装集団が船を使っただけだ。貴族社会には、そういうことにしておかなければならない事実がいくらでもある。

船着き場には、密使らしい男が待っていた。

魔力はない。

平民だ。

地味な外套を着て、こちらを見た瞬間に深く頭を下げた。その後ろには、水夫たちと、新しい案内役らしき男がいる。こちらも平民だろう。日焼けした顔に短く刈った髪。旅慣れた体つきで、腰には短い刃物を差しているが、戦う者というより道を知る者の雰囲気だった。

ここでダリアは別れる。

そういう段取りだった。

大河の向こうからは別の案内役がつく。ダリアはアバルディア家へ戻る。ギルたちは王国方面へ向かう。すべて建前通り、綺麗に処理される。

綺麗すぎて、気に入らない。

ギルは馬を止めた。

ダリアも前方で馬を降りる。

彼女は密使の男へ軽く視線を向け、それからギルの前へ歩いてきた。いつも通りの無表情に近い顔。けれど、完全に何も感じていないわけではないだろう。たぶん。いや、ギルがそう思いたいだけかもしれない。

ダリアは深く頭を下げた。

「ここまで、ご同行させていただきました。以後の道中も、どうかご無事で」

「こちらこそ助かった」

ギルは馬上から答えた。

「道案内としても、情報役としても、かなり役に立った」

「お役に立てたなら幸いです」

声は静かだった。

揺れはない。

自分の今後を予想しているだろうに、よく平然としていられるものだ。ギルは少し感心し、少し腹立たしく思い、そして少しだけ惜しいと思った。

密使の男が一歩前へ出る。

「ここから先のご案内は、私どもが責任を持って行います」

「そうか」

ギルは男を見た。

男は顔を上げない。

賢い。

この場にいる平民たちは、おそらく細かい事情までは知らされていない。だが、目の前の赤布の一行が危険であることは理解している。余計な好奇心を出せば命を縮めることも分かっているのだろう。

ギルは馬を降りた。

足元の土は湿っていて、靴底に少し沈む。大河の水音が近い。船の木材が軋む音、水夫が縄を引く音、馬が鼻を鳴らす音が重なっていた。

ダリアはまだ頭を下げている。

ギルは彼女の前で止まった。

「ダリア」

「はい」

彼女が顔を上げる。

「最後に一つ聞く」

「何でしょう」

「戻りたいか?」

ダリアは一瞬だけ黙った。

本当に短い沈黙だった。

けれど、その沈黙だけで十分だった。

「私は、アバルディア家の命に従います」

戻りたいとは言わない。

戻りたくないとも言わない。

それが彼女の答えなのだろう。

ギルは小さく頷いた。

「そうか」

次の瞬間、ギルはダリアの腰へ腕を回した。

「え――」

ダリアの声が形になる前に、ギルは彼女を抱え上げていた。

軽い。

いや、実際には女一人分の重さはある。だが、肉体強化魔法を自分へ巡らせたギルにとっては大した重さではない。ダリアの足が地面から離れ、彼女は反射的にギルの肩を掴んだ。

「お待ち下さい!」

初めて、声が乱れた。

「私はここまでです!」

「そう聞いている」

「では、離してください」

「すまんが俺は山賊でな」

ギルは彼女を抱えたまま船へ歩き出した。

「気に入った獲物を逃すつもりはない」

船着き場の空気が凍った。

密使の男が目を見開く。

新しい案内役の男も固まる。

水夫たちが手を止める。

セバスチャンが背後で喉を鳴らした気配がした。笑うな。いや、笑っているのだろうが、今は無視する。

「ギル様!」

ダリアが抵抗する。

「これは、どういう」

「聞こえなかったか?」

「聞こえましたが、意味が分かりません」

「気に入ったから奪う」

「……っ」

ダリアが息を呑んだ。

密使が慌てて前へ出る。

「お、お待ちください。ここから先のご案内は、私が責任を持って行います」

「案内はお前でいい」

ギルは足を止めずに言った。

「この女は俺の獲物だ。渡すつもりはない」

「しかし、その者は」

「俺が気に入った」

ギルは密使を見た。

ほんの少しだけ魔力を外へ出す。

軽く。

本当に軽く。

だが、平民相手にはそれで十分だった。

空気が重くなる。

密使の顔から血の気が引き、水夫の一人が肩を強張らせる。新しい案内役の男は、すぐに視線を地面へ落とした。魔力を持たない平民が、正面から貴族の威圧に逆らうのは難しい。実力的にも、常識的にも。

彼らにとって、貴族は支配者だ。

もちろん、中には死を覚悟して抵抗する者もいるだろう。だが、この場の平民たちは違う。彼らはアバルディア家の命でここに来た。自分の判断で命を賭けてまで、正体不明の山賊に逆らう立場ではない。

密使は唇を震わせた。

「アバルディア家としては……」

「知らんな」

ギルは船の板へ足をかけた。

「俺は山賊だ」

実に便利な言葉である。

アバルディア家がダリアを渡したわけではない。

ギルが奪った。

ダリアが裏切ったわけではない。

ギルが奪った。

マバール家が交渉したわけでもない。

正体不明の上品な山賊が、気に入った女を奪った。

この世界の貴族なら、その方が通りやすい。

少なくとも表向きには。

ギルはダリアを抱えたまま船へ乗った。

木の板がぎしりと鳴る。

ダリアはまだ暴れている。

「離してください」

「船が出たらな」

「そういう意味ではありません」

「知ってる」

「ギル様!」

「怒ると声が大きいな」

「ふざけないでください!」

肘が飛んできた。

ギルの体が軽く揺れる。ダリアは魔力を持たない。肉体強化魔法を使っているギルから逃げることはできない。もちろん、本気で締め上げるつもりはない。怪我をさせる気もない。ただ、逃がす気もない。

「船を出せ」

ギルが言うと、水夫たちは密使を見た。

密使は青い顔で岸に立っている。

船上のダリアを見て、ギルを見て、最後にセバスチャンたちを見る。抵抗する選択肢を探しているのだろう。だが、見つからないはずだ。ここで止めても、止まらない。命を賭けても、勝てない。アバルディア家へ戻って報告する方が、まだ役目として正しい。

ギルはもう一度、少しだけ魔力を強めた。

「出せ」

「は、はい!」

水夫が慌てて縄を解いた。

竿が岸を押す。

船がゆっくり動く。

水面が船腹を叩き、木材が重く軋んだ。

岸が少しずつ離れる。

密使は何も言えないまま、船着き場に残された。新しい案内役の男は急いで船に飛び乗っている。彼はダリアを見ないようにしていた。非常に賢い。今は何も見なかったことにするのが一番だ。

船が岸から十分離れたところで、ギルはようやくダリアを下ろした。

ダリアは甲板に足をつけると、すぐに距離を取った。

そしてギルを睨んだ。

本気で怒っている。

灰色の目が鋭く、唇が硬く結ばれている。普段の無表情に近い顔ではない。中性的な美人が怒ると、なかなか迫力がある。魔力はないのに、視線だけならかなり強い。

「諦めろ」

ギルは知らん顔で言った。

「お前は俺の獲物だ」

「その言い方をやめてください」

「建前として必要だ」

「建前」

ダリアの眉が動いた。

怒りながらも、彼女はすぐに意味を拾う。

やはり頭がいい。

「俺がお前を助けたことにすると面倒だ。アバルディア家に喧嘩を売ったことになる。お前が俺についてきたことにしても面倒だ。裏切り者扱いになるかもしれない」

「……」

「だから、山賊が気に入った女を奪った。それでいい」

「それで、いい?」

「少なくとも、形としては一番ましだ」

ダリアは黙った。

まだ怒っている。

だが、完全に否定はしなかった。

彼女も理解しているのだろう。アバルディア家に戻れば、自分がどう扱われる可能性が高いか。ここでギルが正面から譲渡を求めれば、どれほど面倒になるか。自分からついてきたことになれば、どんな汚名を被るか。

それなら、奪われた方がまだまし。

ひどい話だ。

だが、貴族社会ではひどい話の方が通りやすい時もある。

「アバルディア家は、私を取り戻そうとするかもしれません」

「すぐにはしない」

「なぜそう言えます」

「ザザント家との同盟を固める方が大事だからだ。知りすぎた平民一人を取り戻すために、今俺たちと揉める余裕はない」

「私は平民一人ですか」

「アバルディア家から見ればな」

ギルははっきり言った。

「だが、俺は気に入った」

ダリアの目が細くなる。

「それは、どういう意味ですか」

「そのままだ」

「……」

「お前は使える。帝国のことを知っている。口が堅い。度胸もある。見た目も悪くない、尻もデカいしな」

「最後は必要ですか」

「必要だ」

ダリアが冷たい目になった。

セバスチャンが後ろで噴き出した。

「若様、そういうとこですぜ」

「何がだ」

「そこは黙っておくか、もっと上手く言うもんで」

「褒めただろ」

「火に油でさぁ」

ギルは少し考えた。

確かに言い方は悪かったかもしれない。

だが、他者に説明するなら、むしろこれくらいの方がいい。平民女を有能だから保護した、では変に見える。気に入ったから奪った。側室にするつもりかもしれない。そう見えた方が、この世界では自然だ。

ダリア自身にとって自然かは別だが。

「私は、そういう意味で連れ去られたのですか」

ダリアが低く聞いた。

「半分くらいは」

ギルは正直に答えた。

ダリアが一瞬、言葉を失った。

セバスチャンが顔を押さえる。

「若様」

「何だ」

「もう少しぼかしやしょうや」

「ぼかすと面倒だろ」

「今の方が面倒ですぜ」

ギルは首を傾げた。

ダリアはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。

「私はアバルディア家に仕える者です」

「さっきまではな」

「今もです」

「俺が奪った」

「……本当に、何でもそれで済ませるおつもりですか」

「済むことは済ませる」

「最悪です」

「褒めるな」

「褒めていません」

少し前にも似たようなやり取りをした気がする。

いや、今が初めてか。まあ、どうでもいい。

ダリアは船の端へ歩きかけ、セバスチャンがさりげなく位置を変えた。大河へ飛び込まないように見ているのだろう。ダリアはそれに気づき、さらに眉を寄せた。

「飛び込みません」

「それは助かる」

ギルが言うと、ダリアはさらに鋭く睨んだ。

「私はそこまで愚かではありません」

「知ってる」

「知っているなら、なぜ見張るのですか」

「念のため」

「……」

ダリアは言葉を飲み込んだ。

怒っている。

かなり怒っている。

当然だ。

突然抱え上げられ、船に乗せられ、獲物扱いされ、気に入ったから奪ったと言われたのだ。怒らない方がおかしい。

だが、彼女は状況を見ている。

岸は離れた。

船は大河の流れに乗っている。

周囲はギルの騎士たち。

新しい案内役も水夫も平民。

今ここで逃げる意味は薄い。

彼女はそれを理解している。

だから有能なのだ。

「ギル様」

「何だ」

「私は、マバール家へ連れて行かれるのですか」

「そうなるな」

「その後は」

「側室の一人にするかもしれん」

ダリアが完全に固まった。

セバスチャンが今度こそ咳き込んだ。

オルドとジノが見ないふりをする。

新しい案内役の男は、聞こえなかったことにしたらしい。賢い。

「……今、何と?」

ダリアの声が静かになった。

静かすぎて、少し怖い。

「側室の一人にするかもしれん、と」

「それを、本人に今言うのですか」

「隠すよりいいだろ」

「限度があります」

「そうか?」

「あります」

ダリアは額に手を当てた。

怒りすぎて疲れたようにも見える。

ギルは少しだけ反省した。

言うのが早すぎたかもしれない。

だが、後で言っても怒るだろう。なら早く言っても同じだ。たぶん。

「もちろん、すぐにどうこうするつもりはない」

「当然です」

「まずはマバール家での扱いを決める。父上にも話す。レティシアにも説明する」

「レティシア様?」

「俺の大事な女だ」

ダリアの目が少し変わった。

「正妻の方ですか」

「まだ違う」

「では婚約者ですか」

「それもまだだが、かなり大事だ」

「……その方に、私をどう説明するおつもりですか」

ギルは黙った。

一番難しいところを突かれた。

セバスチャンがにやにやしている。

蹴りたい。

「考え中だ」

「考えてから連れ去るべきでは?」

「正論だな」

「正論です」

「だが、考えていたら船が出るところだった」

「だから強行したと」

「そうだ」

ダリアはまた深く息を吐いた。

怒りが完全に消えたわけではないが、呆れの割合が増えているように見えた。良い傾向なのか悪い傾向なのかは分からない。

「ギル様は、私をどう見ているのですか」

「気に入った女」

「……」

「使える女」

「……」

「尻がデカい女」

言った瞬間、セバスチャンが天を仰いだ。

ダリアの目が凍った。

ギルはすぐに咳払いした。

「今のは忘れろ」

「忘れられるとお思いですか」

「思わない」

「最低です」

「すまん」

これは本当に少しまずかった。

父上の言葉は口外していないので、そこは守った。だが、自分の口で余計なことを言った。レティシア相手なら許してくれるかもしれないが、ダリア相手には早すぎる。いや、誰相手でも今のは早い。

ギルは反省した。

ほんの少し。

「まあ、その辺は置いておくとして」

「置けません」

「置いてくれ」

「置けません」

「……悪かった」

ダリアはしばらくギルを睨んでいたが、やがて視線を外した。

「謝罪は受け取ります。許すかどうかは別です」

「そうか」

「はい」

やはり面倒な女だ。

だが、悪くない。

ギルはそう思った。

大河の中央へ近づくにつれ、船の揺れが大きくなった。水の流れが船腹を押し、船底が深い音を立てる。対岸はまだ遠い。空は少し赤くなり始め、水面には細かい光が散っていた。風が強く、ダリアの灰色の髪が頬にかかる。

彼女はそれを指で払った。

その仕草が、少し女らしく見えた。

いや、さっき怒らせたばかりなのだから、余計なことは言うまい。

ギルは黙って水面を見る。

セバスチャンが隣に来た。

「若様」

「何だ」

「あれで口説いてるつもりなら、先は長いですぜ」

「口説いてるわけじゃない」

「側室にするかもと言って尻がデカいとまで言っといて?」

「……口が滑った」

「滑りすぎでさぁ」

セバスチャンは楽しそうだ。

腹立つ。

「お前は分かってるだろ」

「何をです?」

「有能だからとか、戻れば危ないからとか、そういう話だけじゃ通りにくい」

「へい」

セバスチャンの目が少しだけ真面目になる。

「気に入ったから奪った。そっちの方が通りやすい」

「まぁ、そうですな。貴族らしい理屈ではありやす」

前世と比べれば、この世界はかなり違う。今はセバスチャンの言葉通り、貴族として考えればいい。

「ただ」

セバスチャンは続けた。

「ダリアも馬鹿じゃありやせん。若様がそれだけで動いた訳じゃねえことは、そのうち察するでしょうな」

「察してもらって困ることでもない」

「ならいいですがね」

「むしろ、お前はどう思う」

「あっしですかい?」

「ダリアを連れて帰ることだ」

セバスチャンは船の端で立つダリアを見た。

彼女はまだこちらを見ていない。

「使える女ではありやすな」

「だろ」

「ただ、扱いは難しいですぜ。アバルディア家の色が濃い。魔力はない。今回の件を知りすぎてる。若様の側に置くなら、半端な扱いは危ない」

「側室にするなら?」

「一つの手ではありやす」

セバスチャンはあっさり言った。

「平民でも、若様が気に入ったなら側に置けます。正妻とは別ですし、貴族なら珍しくもありやせん。むしろ変に役職だけ与えるより、周囲には分かりやすい」

「だよな」

「ただし、レティシア嬢への説明は知りやせん」

「そこなんだよなぁ」

ギルは本気で悩んだ。

レティシアは大事だ。

かなり大事だ。

側付きであり、ギルの日常を支えている女であり、実質的にかなり深く入り込んでいる。ダリアを連れ帰るなら、まずレティシアに説明する必要がある。変に隠せば面倒になる。いや、隠す気はないが、言い方が問題だ。

帝国で気に入った女を奪ってきた。

駄目だ。

有能だったから連れてきた。

弱い。

側室にするかもしれない。

火に油かもしれない。

知りすぎて危ないから手元に置く。

これは事実だが、それだけではない。

全部混ぜるしかないか。

ギルは頭が痛くなってきた。

「若様、腐銀より悩んでやせんか?」

「ある意味では腐銀より怖い」

「いやぁ、レティシア嬢も大物ですな」

「茶化すな」

セバスチャンは笑った。

船は進む。

大河の風が頬を叩く。

ダリアは甲板の端で立ったまま、対岸を見ていた。怒りはまだ残っているだろう。だが、船から飛び込む気配はない。状況を受け入れ始めているのか、単に今は動かないだけなのか。どちらかは分からない。

ギルは彼女に近づいた。

ダリアは振り返る。

目はまだ鋭い。

「何でしょう」

「怒ってるか?」

「怒っています」

「かなり?」

「かなり」

「だろうな」

「分かっているなら、なぜ聞くのですか」

「確認だ」

ダリアは呆れたように目を細めた。

「ギル様は、私が拒めばどうなさるおつもりですか」

「何をだ?」

「側室の件です」

「ああ」

ギルは少し考えた。

「すぐに決める必要はない。マバール家に着いてからでいい」

「拒めるのですか」

「拒んでもいい」

ダリアは意外そうに見えた。

「その場合は?」

「役目を考える。まあ、逃がす気はないが」

「やはり獲物ではありませんか」

「そこは変わらん」

「……」

「ただ、側室にするなら、お前が嫌がったまま無理やりというのは面倒だろ」

「面倒という理由ですか」

「大事な理由だ」

ギルは真面目に言った。

「俺は面倒なことが嫌いだ」

「その割に、ご自分で面倒事を増やしておられます」

「それは否定できない」

ダリアは小さく息を吐いた。

怒りの中に、少しだけ疲れが混じっている。

「私は、アバルディア家へ戻るものだと思っておりました」

「だろうな」

「戻れば、おそらく以前と同じようには動けません」

「知ってたのか」

「予想はしていました」

「それでも戻るつもりだった?」

「命じられていましたので」

ギルは彼女を見る。

命じられていたから戻る。

実にこの世界らしい。

忠誠心。

身分。

家。

魔力を持たない平民が、強い家に仕えるということ。

「俺はそれがもったいないと思った」

「気に入ったからでは?」

「それもある」

「……正直ですね」

「嘘をついても仕方ない」

「先ほどは建前が必要だとおっしゃいました」

「他人にはな。お前には、まあ、少しは本音を言ってもいいだろ」

ダリアは黙った。

その目から怒りが消えたわけではない。

だが、別の感情が混じったように見えた。

困惑か。

警戒か。

あるいは、少しだけ揺れたのか。

ギルには分からない。

「私は、ギル様を信用してよろしいのですか」

「信用しなくてもいい」

「いいのですか」

「今すぐ信用されるとは思ってない」

ギルは大河を見た。

「ただ、俺はお前を殺さないし、屋敷の奥で腐らせるつもりもない。使う。気に入れば側に置く。それだけだ」

「やはり言い方が最悪です」

「これでも気を遣ってる」

「どこがですか」

ギルは少し考えた。

「尻の話はもうしない」

「当然です」

ダリアの声が冷たかった。

ギルは黙った。

これ以上言うと本気で嫌われそうだ。

いや、もうかなり嫌われているかもしれないが。

船が対岸へ近づき始めた。

水夫たちが動き出す。縄が準備され、竿が水へ入る。新しい案内役の男が立ち上がり、岸の様子を確かめている。対岸には小さな船着き場と、馬を降ろすための板場があった。周囲に大きな人影はない。

大河を渡れば、帰路はさらに現実味を帯びる。

ギルは胸の奥で、ようやく少しだけ息が通るのを感じた。

帝国の奥から離れていく。

だが、持ち帰るものは多い。

腐銀の情報。

帝国四帝家の動き。

味噌のような豆調味料。

茶葉。

そしてダリア。

いったいレティシアにどれから説明すればいいのか。

豆調味料から入るか?

いや、女を連れて帰っておいて土産話から始めるのはおかしい。まずダリアだ。いや、腐銀も重要だ。父上には腐銀と帝国情勢を先に話すべきか。レティシアにはダリアのことを先に伝えるべきか。うーん、面倒だ。

「ギル様」

ダリアが呼んだ。

「何だ」

「今、また別の面倒事を考えておられますね」

「よく分かったな」

「顔に出ています」

「そんなに出てるか?」

「はい」

セバスチャンが後ろで頷いている。

腹立つ。

「レティシアにどう説明するか考えてた」

ギルが言うと、ダリアは少しだけ目を伏せた。

「その方は、怒りますか」

「分からん」

「大事な方なのでしょう」

「かなり」

「では、きちんと説明してください」

「そうする」

「私のことも、獲物ではなく」

「それは建前として必要だ」

「レティシア様にもそう言うおつもりですか」

「……言わない方がいいか?」

「絶対に」

ダリアの返答は早かった。

セバスチャンが笑った。

「若様、今のは素直に聞いといた方がいいですぜ」

「そうする」

ギルは頷いた。

ダリアはまだ怒っているが、こういう助言はしてくれるらしい。

やはり有能だ。

船が岸に触れた。

鈍い音がして、船体が少し揺れる。水夫が縄を投げ、岸の男が受け取る。板が渡され、馬を降ろす準備が始まった。新しい案内役の男は、ダリアがまだ船にいることに一瞬困った顔をしたが、すぐに何も見なかった顔へ戻った。

賢い。

ギルは船を降りる前に、ダリアを見た。

「逃げるなよ」

「逃げません」

「本当か?」

「この状況で逃げても無駄でしょう」

「賢い」

「その褒め方も雑です」

「気をつける」

ダリアはため息をついた。

だが、今度のため息には、少しだけ諦めとは違うものが混じっている気がした。怒りは消えていない。納得もしていない。けれど、完全に拒絶しているわけでもない。そう見える。

もちろん、ギルの推測だ。

相手の感情を勝手に決めつけるのはよくない。

だが、それでも少しだけ悪くないと思った。

ギルたちは船を降りた。

馬も順に降ろされる。湿った板の上を蹄が叩き、岸の土を踏む。大河の向こう側は、来た時より少しだけ違って見えた。背後には帝国の奥で起こした火種があり、前方にはマバール領へ戻る道がある。

ダリアは自分で馬に乗った。

逃げる様子はない。

ただし、ギルを見る目はまだ厳しい。

「行くぞ」

ギルが言うと、新しい案内役が先頭に立った。

セバスチャンたちが周囲を固める。

ダリアは少し後ろへつく。以前のように先頭で道を選ぶ立場ではない。それが少し気に入らないのか、彼女の眉がわずかに動いたように見えた。まあ、しばらくは仕方ない。いきなり完全に自由にするほどギルも甘くない。

大河の音が背後へ遠ざかる。

湿った風が草を揺らし、夕暮れの光が道を赤く染め始めていた。

ギルは馬上で、ダリアの方をちらりと見た。

気に入ったから奪った。

そういうことにした。

有能だから。

戻れば危ないから。

側室にしてもいいと思ったから。

父上も胸だけではなく尻も大事と言っていたから。

最後のは絶対に口外しない。

ギルは内心で強く決めた。

レティシアにどう説明するかは、まだ決まっていない。

だが、あのままダリアを岸に残していくよりは、ずっとましだ。

少なくともギルはそう思った。

もちろん、口には出さない。

山賊は獲物を逃さない。

今は、それで十分だった。