軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

笑顔は恋のおまじない

どなたもどうかお越しください。決してご遠慮はありません。

招待状に書かれていた結びの文。自身宛の封筒から一枚の厚紙で綴られた招待状をそっと滑らせるように取り出しながら、リコはそれを改めて読む。

それから、目の前に見える建物を仰ぎ見て、乾いた笑いを発した。

「そりゃたしかにこれならなぁ」

隣にいたモスクが、リコの視線の先を追ってから頷く。

暮らしているイラインを発ち、モスクの古巣であるミールマンを経由し、リドニックに入った翌日のこと。リコとモスク、それにここまで彼らを警護してきたレシッドは、三人揃って溜息をつく。

三人が見たのは大きな建物だった。

尖塔があり、城壁があり、そして人々を阻むのは大きな城門。

その奥に聳え立つのは城。青みを帯びて、硝子質の建材で組まれたそれは、日光をぼんやりと通す。

ここはリドニック、王都スニッグ。見据えているのは王城。三人共が初めて見るそれは、改めてみても自分たちが入れるような場所ではない。

「一応別棟だろ。こっちだってよ」

先導するようにレシッドが道の脇を指さす。レシッドが尋ねた衛兵は、にこりと笑いながら三人に向けて会釈した。

もうすぐリドニックは夏を迎える。しかしエッセンの人間にとってはそれでも寒い。昨日も降ったという雪を踏んで歩く後ろの二人は、手袋越しに感じる寒気に手を動かして抵抗していた。

ここリドニックは、エッセンとは別天地だ。

それを感じたリコは、初めてのこの土地の風景に昨日から感心しきりだった。

「なるほど。手袋も一色じゃなくて柄があってもいいんだよね」

毛糸の手袋はリコには馴染みない。手袋というのは職人が手を保護するものか、もしくは貴族たちが礼儀として身につける薄い革のものだ。防寒として使う者もいないわけではないが、温暖なエッセン地方ではそれでも革のもので事足りる。

故にそれらは大抵無地となり、柄で着飾るようなものでもない。

平時リドニックは、エッセンの都と比べ街中での『通行人』というものもさほど多くはない。寒さに対し、皆足早に駆け抜けるように街中を移動することで抵抗するためである。だがそうしてすれ違う誰かがやはり見慣れない服、もしくは組み合わせを身につけているとなれば、彼女のような者にはそれこそ目新しい風景に見えていた。

「襟巻きと手袋は色味を合わせた方がいいかなぁ。外套ってどうしても無彩色になるから、差し色で強い色を入れてもいいよね。でも帽子と襟巻きと手袋って合わせるとさすがに煩いかな? 防寒の用途も合わせるとすると、やっぱり袖付きが多いし、手が隠れないからちょっと」

「ああ、はいはい。そろそろ着くっすよ」

ねえねえ、とリコは声を上げて意見を求める。

この旅の最中聞き続けたリコのはしゃぐ声もモスクにはもう聞き慣れたものだ。

そんなモスクに任せるように無視していたレシッドは、主城門から離れた位置にある城門の隙間から覗く尖塔を見て、前の門番に招待状を見せた。

「ようこそいらっしゃいませ」

別棟といっても、王城の敷地内にあるものだ。大きな建物はやはり水煉瓦製だ。

だが、三階建てらしい真四角の建物は青みではなくその内部の白さが際立つ。寒天を纏った菓子のような雰囲気に、城の荘厳さというよりも可愛らしさが見えた。

その入り口に立つ男女はかっちりとした礼服を着込む。黒く分厚い生地の上下に、白い手袋。金の釦がよく映える。だが近寄ってみればそれは全て裏が起毛かもしくは中に一枚着込んでいるようで、防寒と礼服の機能を併せ持った独自の衣装にリコはまた感心していた。

「皆様、カラス様方の賓客でございますね」

渡された三枚の招待状を捲るように見て、受付はにこりと笑う。

「ただいま閂番の調節中なのですが、皆様ともいかがですか?」

「んだよ、また古い形式だな」

「左様でございます」

どうする? とレシッドはモスクとリコを振り返り、返答を待たずに向き直る。

「俺はやめとく」

「あと何人くらいなんです?」

モスクは尋ねる。まあ、人がいないなら、とばかりに。

「カラス様のご事情はご理解されていると思いますが、ご親族がいらっしゃらないのでまだお一人も」

「アリエル様がいますでしょ?」

「アリエル様はご新婦側として希望されました」

「えー……じゃあ、可哀想なんで、俺やります」

「俺もやります」

しぶしぶ、とモスクは答え、そしてリコも答える。

閂番という風習。リドニックの一部とエッセン北部の限られた地方で行われてきた結婚式の中のとある儀式。

これは、格好の機会だった。リコが花嫁と対面する、絶好の。

「それでは、皆様お召し物から準備をさせていただきます」

では中へご案内。名前を記録しながら受付は中へと三人を通そうとする。しかし、モスクがそこに待ったをかけた。

「どういうことっすか?」

『これじゃ駄目か』とモスクは外套の合わせた隙間から着ている服を引っ張り出す。今回のために新調したわけではないが、しかしこれも自分の『よそ行き』なのだが。

貴族の結婚式、というものは皆やはり着飾るものだ。参列者は『きっちり』とした礼服で身を整え、主役よりは目立たず、それでいて華美で失礼のないように身を整える。

けれども都市部の庶民の結婚式であれば様相は異なる。礼服、というよりは単なる『よそ行き』程度の服で、厳しい規定も存在しない。

今回のカラスの結婚は後者。

ルル・ザブロックは貴族の一員であれども、しかし庶民であるリコやモスクたちが呼ばれている以上前者にはなり得ないものだ。

裸や破けた衣装というようないわゆる非常識なものでもなければ、無礼ともならないはずなのだが、と。

受付係はその言葉に、笑みを浮かべたまま頷いた。

「もちろん、お持ちいただいたものでも構いませんが……」

そして言葉を止めて、再度中へと促す。三人は返答なくもう一度促されたことに釈然としない感覚を覚えながらもおとなしく後を追い、そして通された部屋に圧倒されて言葉を失った。

「本日は私どもリドニック王城より、衣服など全て提供させていただいております。お持ちいただいた衣装も一度点検、清掃など承りますので、どうぞご随意に」

「……はぁ」

その一室は大きなものだった。

壁際には椅子と姿見が十数人分並べられ、しかもそれが三辺全てに存在する。その全てに用意されている化粧品の瓶の数は、リコが通常必要だと思うものの倍はある。

そして部屋の中央、通路代わりの隙間を空けて数列並べられているのは大きな吊るし棚。その全てにぎっしりと様々な衣装が掛けられており、しかもその全てに手入れが行き届いているようで輝いて見えた。

「化粧や整髪なども行えます。器具もご自由にお使いいただいて構いませんし、係の者もおりますので是非ご相談ください」

既に数人の女性が鏡の前に座って顔に筆を走らせている。その横に立つ二人のうち、一人はきっと侍女で、一人はその『係の者』なのだろう、とレシッドは推測する。

そしてその『係の者』の立ち居振る舞いは、きっと民間の者ではなく。

「……すっげ……」

まさしく王族やそれに類する者が使えるものだろう。鏡の枠に手を伸ばしたモスクはその仕上がりに絶句する。

そしてリコも、自身が扱っているものよりも数段上の高級品の服に手を伸ばし、それがきちんと今日の式の規定にあっている『華美なもの』ではないことに驚愕していた。

これは明らかに自身よりも格上の職人の手によるもの。リコの工房の親方と同格の誰かが複数人関わり、しかしそれでいて貴族向けではない庶民向けの服。

惜しげもない歓待ぶり。それも、たとえば成金が金に飽かせたようなものではないだろう。このリドニックは数年前の政変の影響で、未だに貧しい国と聞く。けれども、ならばこれは、国家の意地、もしくは。

「……カラス君って、この国の誰かとも知り合いなのかな?」

「わざわざ王城で開かせてもらえるってことは、やっぱなんかしたんじゃないっすか?」

もしくは心ばかりの品。この国の王族、またはそれに類する者が、彼のためにと。彼と、彼を取り巻く誰かのためにと。

モスクとレシッドは、数年前の噂を思い出す。

リドニックが見舞われた大災害。白波騒動とも伝わる魔物との激戦の最中、戦った彼は吟遊詩人の歌の中で英雄となった。名も明かされず、本人にも知らされない余興話として。

これはきっと、そのときの報償だ。

そう、あながち間違いでもない推測をした。

次いで案内された控え室は、これまた広い大部屋だった。

それだけでも宴会場にでもなるだろう部屋。絨毯張りの足下は雪国であることを忘れさせ、またどこからか温かい空気が流れ込むことで温度を保つ。壁際に並ぶ机には菓子や飲み物が並び、椅子すらも高級の調度品のもの。

「ああ、あの時の」

笑顔の化粧係により慣れない男性用の化粧を施され、控え室の隅でぐったりと座り込んだモスクとレシッド。

彼らを置いて、ふと何かを飲もうと壁際にある飲み物の台に近寄ったとき、横合いから声がかけられる。

「……これは、一瞥以来でございます、ベルレアン閣下」

「よせよせ、今は違うんだ」

見ればそこには青髪の大柄な男。黒く裾が膝まである長袖に、白地の下衣がちらりと見える。全て絹だろうが、しかし絹のような光沢ともまた違う生地。条件反射的にリコは跪きそうになったが、されそうになったクロードは手でそれを制した。

少しだけ腰を屈めた程度で動きを止めたリコの前を横切るように、クロードは壁際に立つ係の者に声をかける。

「冷えた甘いものを。それは苹果か?」

「はい。エッセンからの方が多いということで」

顎で示した先は深い盆の氷水に半分浸けられた硝子瓶。瓶は中に琥珀色よりも幾分か薄い色の液体を蓄え、またよく冷えて表面を結露させていた。

クロードが「それを」と口にする前に、硝子製の杯に係が注ぎ入れる。冷えていて匂いも立たない液体だが、受け取ったクロードがそれを鼻に近づけると甘い匂いの気配がした。

「リコ殿は?」

「あ、えっと、俺もそれを」

水でよかったのだが。そう思いつつもクロードの言葉に同意してリコは係から杯を受け取る。

クロードがすすと歩き、リコはそれを追う。それから少しだけ壁際から離れるように歩いて、そこで初めてクロードの仕草で誘導されたのだ、とリコは気付いた。

「なに、そうかしこまらんでくれ。聖騎士もやめて爵位を返上した身。今ではしがない宿屋の親父だよ」

「そう、なんですか」

ははは、と鷹揚にクロードは笑う。

リコもその言葉に、まるで僅かに警戒心を緩めたように笑みを浮かべた。それが礼儀というものだ。

「しかし、水天流の総帥の方に失礼をしてはいけませんので、ご勘弁していただきたいです」

「さすがにカラス殿のご友人だな。カラス殿のようなことをいう」

リコが飲めない様を見て、クロードは殊更にゴクゴクと苹果の果汁を勢いよく飲み、喉を鳴らした。

「しかし今では共に友人を祝うために集まった同志ですからな」

クロードは会場を眺める。エッセン王国を救った大英雄と、貴族令嬢の結婚式。だがそれにしては小規模な結婚式だ。大英雄は人知れず、令嬢はほぼ庶民の娘とはいえ。

お互いの親族、もしくは友人を集めても三十に満たない。更に大英雄は人付き合いが悪く、今そこにいるのは十人に満たないいつもの面々。

だがだからこそ、それぞれの結びつきは強い。そして親近感を抱ける。

「それで……リコ殿は、何か恨みでも抱かれておいでか?」

「その覚えはありませんが」

クロードが見つめる先、一人の女性がいた。リコもそこを見るが、覚えはない。

橙色か黄色か、そのような色の長い髪。装飾は抑えめだが、しかしその仕立ての良い服に、庶民ではあり得ない、とリコは直感した。

そんな彼女がまた一人の女性を伴いつつずんずんと近づいてくる。

伴う女性は侍女だろう。そう思い、そして相手が貴族だ、とまた思い対応を考える間もなく、目の前まで来た女性が口を開くのを目で追った。

「貴方が『麗人の家』のリコ様ですわね!!」

「……はい、その通りですが……」

「申し遅れました! 私ルネス・ヴィーンハートと申します。以前よりいくつか文を送らせていただいておりますけれども」

閉じた扇子を自らの頬に当て、ルネスはそう言い放つ。そしてヴィーンハートという家名に心当たりがあったリコは、慌てて会釈を返した。

鼻息荒い目の前の女性。

怒っているようではない。何かしらの抗議ではないらしい。

たしか以前より送られてきていた文では、王都に招きたいということだったと思うのだが……。

「私貴方をとても贔屓にしておりましてね。今日直接お会い出来ると思って楽しみにして参りましたの」

「え、えっと、そうですか」

「以前からのお話、まだ返事はお変わりありませんか?」

ルネスはにこりと笑う。威圧はしないように目尻を下げて。

以前からの話。リコはそれを聞いて、うん、と内心頷く。以前からの話というのは簡単だ。『ヴィーンハート家の令嬢』による引き抜きの話。私的な自身のお抱え仕立屋にしたいという話。

当主でもなく、いつかは家を出ていくはずの令嬢だ。家のお抱え、というのは難しく、だから私的な範疇でのお抱えを、という話だったはず。

だがそれをリコは親方を経由し工房として断り続けていた。私的な、という条件面に対する不安などではなく、ただ自身はまだまだ修行中だ、という事実によって。

「まあまあ、ルネス。その方も困っているじゃあないか。突然、声をかけて事情を一方的に話すなんて君らしくない」

申し訳ありませんが、と断る言葉を吐こうとして、そしてリコはまた新しい声を聞いた。

見ればルネスよりも少しだけ背の高い同年代の女性。

だがその服装を見て、リコの内心の虫がうずと動いた。

「ですがティリー」

「まるでいつもと逆だねぇ」

クスクスと笑う女性の服装は、まずどう見ても『礼服』ではない。華美な装飾もなく、まるで寝間着のよう、ともいえるほど身体の線も見えない。上衣の袖も下衣の裾も短く、そこから手首と足首がちらりと見える。

下衣は吊られ、腰の前から肩を通して紐が背中に伸びる。白い肌着のような服には前の釦の脇に 透かし編み(レース) のようなひだが走り、胸元には襟巻きに付随するごく小さい青い蝶々結び。

今自身がしている、またクロードたちがしているような男性装とは違う。女性ながらも男性的で、しかし柔らかく華奢にも見える明らかな女性装。

これは。

「なんだい? やけに私見られているようだが」

う、と反応に困るようにティリーは口ごもり、やや身を引く。

その反応に、まずい、と思ったリコは音を出さずに咳払いをして気を取り直した。

「失礼いたしました。ろくなご挨拶も出来ずに。私はご存じのように『麗人の家』のリコと申します」

「ええと、私はティリー・クロックス。こっちは知ってるみたいだったけど、ルネス・ヴィーンハート。ごめんね、今は預かるよ。あとで落ち着いたらお話をしてやってほしいな」

「はい。それはもちろん」

「色よい返事を」

「ほらいくよ」

お待ちしております、まで言わせずに、ちょっと怖いから、まで言わずに、ティリーはルネスを引っ張るように連れていく。

その後ろ姿を食い入るように見つめた後、リコは緊張をほぐすための溜息をついた。

にこにこと笑いながらそれを見ていたクロードは、空になった杯を返しつつ、リコへと言う。

「恨みではなかったようだな。失礼した」

「いえ。以前から声をかけていただいていた貴族の方のようです」

「あれほどの入れ込みよう。不勉強でリコ殿の作を見たことがないので申し訳ないが、よほど素晴らしいものを作るのだな」

さすが、あれだけ酒の席で語ることはある。そう、内心クロードは付け足した。

「たまたま目にとまっただけで、偶然ですよ」

そう、本当に切っ掛けはたまたまだろう。

自分はたしかにそろそろ仕立屋を名乗るだけの腕はあると思っている。けれどもその程度ならばこの天下にごまんといて、そしてそれ以上の腕があるものなどきっと大勢いる。

そしてその中に、未だ評価されずに燻る者がいるのもわかっている。

彼らと自分の差はわずか一つ。その作品を、たまたま誰かが見てくれたから、というだけで。

また、控えの間の扉が開く。

どちらの友人か、というのはもうリコにはどうでもいい。カラス側の出席者であれば恐らく自分とも知り合いだろうし、そして新婦側の出席者であれば自身とは隔たりのある関係のない人物だ。

だが一応、とちらりと目を向ける。

冷えた苹果の果汁をちびちびと飲みながら、知り合いであれば挨拶でも行かなければと思いつつ。

そして、その結果、飲んでいる液体を噴き出す惨事を起こした。

「……っふ……!!」

「大丈夫か!?」

とっさにクロードが腰の隠しから手巾を取り出す。

ぼたぼたと口から垂れ、手から滴る果汁を受け止めるのには遅くとも、しかし服の表面を滴る水滴を吸わせる用途には使える。

咳を堪えつつその絹の手巾を断り、リコが自身の手巾で雑に拭いされば、染みはきっと目立たない程度に消えた。絨毯には僅かに水分は残る。

だが。

視線を向けぬよう、また向こうから見えぬよう、意図的にリコは顔を逸らす。

扉から入ってきた女性は綺麗な金の髪を垂らし、首元には青い花の飾りをつけて。

(ええぇ!? 何であの人いるの!?)

少し前にリコの工房を訪れた女性。オルガ・ユスティティア。

その姿を認めたリコは、不可解さと、そしてこれが『それ』ならば、といくつかの思考を頭の中で回し、酷い真実の想像を浮かべた。

(……新郎って、カラス君のこと!!?)

壁際に控えていた係の者が新しいふかふかの布を差し出してくれたのを頭を下げて受け取り、また服に当てて拭き取って、ついでに口元を拭った。

「……ありがとうございます……」

「お召し物は……」

「大丈夫だと思います」

大丈夫、だからこれ以上目立つようなことはしないで。そう願って、リコは布を返して歩き出す。

クロードもそれに続いて静かに移動した。

「どうしたんだ? いったい」

「いえ、ちょっと」

横恋慕の片棒を担いでいます。

そういえずに、リコは腹を押さえた。何となく気持ちが悪い気がする。じくじくとどこかに違和感が出始めた気がする。もう少し続けば、きっと痛みに変わる気がする。

「少し、驚いただけで」

「驚いた?」

「その、お客さんがいたので……」

客? とクロードが会場内をまた見回し、先ほど入ってきた女性二人を見て、ああ、と呟いた。

銀の髪と金の髪。どちらも王城で見た顔。

「あの美人か?」

なんとなしに誤魔化すように話題を提供する。

「そう、ですね」

あの美しい人が。

そうか、とリコは何となく思う。

あの美しい人までも、カラスのことを。

あの人がもしもカラスのことを想っているというのが本当ならば。

「あれはカラス殿側の出席者だな。まったく、カラス殿の出席者は美人揃いで困る」

「そうですね。本当に」

だから、勝てない。自分は、きっと。

閂番、という風習は、いつの間にか廃れてしまったものだ。

結婚式の形式としては古く、隆盛していたのは二百年以上前の話である。

結婚式場は広く、しかし祭壇というものはない。

中央にある大きな入り口は出席者のためのもので、中に入れば前方を向いた長椅子がいくつも列をなす。

長椅子に腰掛け待つのは無役の出席者。大抵の場合最も多くの出席者がここに立会人として座って見届ける。

結婚式場の両側には、低い柵で区切られた回廊がある。回廊の先は部屋の奥へと伸びており、長椅子の前で合流する形だ。

回廊はいくつもの衝立が並び、扉が用意され、その前にそれぞれ人が立つ。

それが閂番。

閂番は、新郎もしくは新婦の相手方の親族、友人で構成される。

両脇の回廊それぞれから新婦、新郎は順に入り、閂番の問いに答えて扉を開かせる。

最後に二人は結婚式場の奥で立会人の前で出会い、結ばれる。

それこそが、二人の結婚式。二人の誓いの儀式と呼ばれるもの。

結婚式の開始の鐘が鳴る。

立会人の席には既に人が座り、それぞれ小声で何事かを話していた。

衝立で区切られた回廊の一区画に、リコは立っていた。

木の柵に背中を付けて、手持ち無沙汰に苛つくように。

回廊の反対側を見れば、新婦側の閂番が見える。

先ほど声をかけてきたルネス・ヴィーンハートを始め、恐らく貴族だろう令嬢が何人か。最後から二番目、羽の生えた少女はアリエル様。そして最後は、きっと新婦の母だろう。親族に許される豪華な衣装を身に纏った化粧の濃い女がそこにいた。

閂番はそれぞれがそこを通る夫婦の片割れに問う。二人で幸せになる覚悟があるか、二人で愛し愛される覚悟はあるか。これから厳しい人生を、共に歩んでいく覚悟はあるか。

新郎側の閂番は四人。

また鐘が鳴る。

「新婦の入場です」

声の良い係がそう告げ、会場が静まる。そして回廊に入る扉が開く音がした。

閂番同士を区切る衝立は、板は腰ほどまでしかなく上は素通しだ。

故にリコも、扉の方を向けばそこにいる新婦は見えるはずだった。

だが、見ない。

新婦を見るのは、他の人間の試練を踏み越えてここに来てから。

リコは三番目。前にモスクがいて、後ろにスティーブン・ラチャンスという老人が控えている。

まだ見ない。

見てしまえば睨んでしまうかもしれない。見てしまえば羨んで妬んで叫んでしまうかもしれない。

だからまだ見れない。

衣擦れの音が静かに響く。まず第一の扉を開くための閂番。それは誰だかわからないが、ムジカルの人間らしかった。

「…………」

「…………はい、誓います」

声が聞こえた。

質問者の声は耳に入らなかった。なんと言ったかもわからなかった。

けれども、それに女性の明朗な声はリコの耳に良く響いた。

柵に手をついて寄りかかるようにして、そして手が無意識に柵を握りしめる。

冷や汗が垂れてきて、慌てて袖でそれを拭う。

ふと見れば、出席者の長椅子で、オルガ・ユスティティアが微笑みながらこちらを見ていた気がした。

第一の扉が開く。

衣擦れの音が近づいてくる。絹を擦り合わせる高い音が微かに混じる特有の音。

立ちふさがるように動いた服の音は、それもリコの友人、モスク。

「あー……」

緊張からか、それとも何も考えていなかったからか、モスクの言葉が詰まる。

だが、前者はまだしも後者はないだろう。リコはそう思っていて、しかしモスクはまた数瞬経ってようやく口を開けた。

「あいつ、結構大飯食らいで、料理結構下手だけど……だけど、ちゃんと飯作ってやれます?」

一瞬の静寂。

その後、失笑が響く。一番笑っていたのは向かいの回廊にいたアリエルだったが、しかし新婦の声が一番早くに響いていたのもリコにはよくわかった。

「任せてください」

そして、その声が先ほどよりも自信に満ちていることも。

モスクは扉を開ける。

元々考えていた質問はどこかに消えてしまった、と自分でも思った。考えていたのは定番の『一生愛し続けると誓いますか』だったと記憶していたが、しかし本当にそうだったのかも今となっては自信がない。

引き継ぐのは、ここに出席しているもう一人の友人。モスクからすれば新郎を除く唯一の。

開かれた扉から、花嫁が一歩歩を進める。

そして花嫁にもわかった。この区画の空気がやけに張り詰めているのを。

無意識に背筋が伸びる。まるで刃を突きつけられたかのような雰囲気に。猛獣と同じ部屋に入ったらこういう雰囲気になるのだろうか、とも思った。しかし不思議と怖いとは感じずに。

花嫁が区画に入ってきた。

それを感じたリコが、視界の中に赤い裾を見る。もとより着ているはずだと思っていたが、しかし自分が仕立てた衣装だ、とすぐに感じた。

待ち合わせをしていたかのように、リコが振り返る。衝立で作られた簡易的な扉を開けて、閂番を引き連れるようにしてそこにいるのは。

少女、とリコは思った。

前髪を下ろした黒い髪に、小さい鼻と唇。まだ成熟していない少女のような活発さをどこか残したまま。

だが、その静謐な雰囲気はどこか冷たくもあり、すり切れた大人の女性の一種の悲壮さを押し殺している。

赤い衣装は絹。金と銀の糸で刺繍された細工は袖から襟に至るまで細部に及び、だが全体の……。

美しい服を作ったとリコは自負している。目の前で彼女が着ているのを見ても、そう思える。

だがリコの目は不思議とその女性全体に向けられて、その中で女性が強烈な引力を発しているようにも見えた。

(……これが、ルル・ザブロック。カラス君が好きになった女性)

満面の、ではない。だが口角が均等に上がる真性な笑み。

輝くような肌。袖から見える白い手は服の差し色。

ルルがにこりと笑いかける。

何となく、負けてはいけない、と思った。

怯んではいけない、と思った。それはきっと彼女の本能。

リコは、先ほどから考えていた質問を口にするか一瞬悩んだ。

それでいいのだろうか。これでいいのだろうか。

彼女を試すのは、その質問で充分なのだろうか。

わからない。

わからない、が、気圧されるわけにはいかない、と拳を握った。

感じているのは、貧民街にいるときとは比較にならない緊張。

乾いた唇を舐めて湿らせて、どうにか口を開く。

「カラス君のこと」

本当に『それ』でいいのだろうか。

言いながら悩み、しかしこれしかない、と思った。

青い目を真正面から見つめて、リコはもう一度と息を吸う。

「カラス君のこと、好きですか?」

出席者の多くが、その質問を『可笑しい』と思った。

結婚する仲だ。それも、親同士が決めたものでもない恋愛結婚。ならばその程度当たり前で頷くのも当然のこと。

質問の意図に気がついたのは、僅か数人。中には、オルガも。

一瞬虚を突かれたようにルルは目を丸くし、それから笑みを強めた。

決まっている。そんなことは決まっている。

その答えは当然のこと。

そして、当たり前ではないこと。

「大好きです」

人前で言うのは恥ずかしい、とルルも思う。

だが、何も恥ずかしいことではない、と思う。

怯まずに、怯えずに、ルルは胸を張って言う。その言葉を口にすれば、また口元が緩み目尻が下がる。

「…………」

ルルを見つめていたリコは、誰にもわからぬよう大きく深呼吸をした。

笑顔に見とれ、忘れていた息を取り戻すように。

それから静かに振り返り、リコは扉に手をかける。

「どうぞ」

貴方は先へ行ってくれ。

俺はここにずっといるから。

ルルは軽く会釈し、リコが指し示した先に、進む。

それからリコは思い出したかのように、横を通るルルに声をかける。

「服、お似合いです」

本当に、よく似合う。

俺の作った服はまだ、添え物にしかなれないらしい。

ルルは笑みを浮かべて、また少しだけ頭を下げた。

スティーブンが「ヨシッ」の一言で花嫁を通す波乱の後。

花嫁が中央に到着し、カラス側の回廊が扉を開く。

カラスが扉を開いて進む。遠目に見る彼は、やはり見栄えがいい、とリコは思った。

裾も袖も長い赤い礼服に身を包み、背筋を伸ばして歩く彼。

髪は整えているようだ。以前、自分が教えた髪のねじり上げ。まだ忘れずにいてくれているらしい。

花嫁が立会人の前で静かに待つ。

はにかむような笑みを浮かべて、俯くようにして。

アリエルの厳しく激しい質問には肩を揺らして笑って。

そして母親の真面目で厳しい質問に答えるカラスに、目の下を押さえて。

自分は負けたのだ、とリコは思う。

自分はあんな風に幸せにはなれなかった。どこかで何かが違えば、あんな幸せが掴めたかもしれないけれども。

花嫁の母の守る門を潜り抜けて、カラスが立会人の前に歩み出る。

その姿は凜々しく、そして見とれるほどに格好いい。

(……君を好きになっていれば、女でよかった、と思えることもあったかもしれない)

そうなれれば幸せだったのだろうか。

そうは思う。

けれども、そうはならなかった。

遅かったのか、初めから無理だったのか。

恋心は幼すぎて形にならなかった。

だが、だから、もう悔やんでも仕方がない。

取り返せないものを悔やむほど、貧民街の人間は賢くない。

立会人の前で、若い男女が抱擁を見せる。

祝福の拍手の中で、二人は心を繋いだ証を見せる。

リコはそれを見ずに、俯いたまま、笑みを浮かべた。

思う。決意する。

幸せになってやる。

初めて負けることが出来た、とリコは思った。

辛い、とは思う。でも嫌じゃない。

この痛みはきっとどんな女性も男性も、きっと幼い頃に経験すること。この甘く苦い痛みを、自分も受け入れるべきなのだろう。そうしてきっと、皆は進んでいくのだろう。

これから俺は、女としてでもなく男としてでもなく生きていく。

俺は俺として生きていく

それでも幸せになる道が多分あるはずだから。