作品タイトル不明
指先
工房の夜。
今日は少しばかり遅くなるだろう。そう思っていたリコは、自身のその予想が正しかったことに『ほらね』と内心呟いた。
もはや部屋に明かりはない。
あるのは手元にある硝子瓶だけ。白く濁った硝子の中には拳大の石が入っており、空気と触れると眩い光を発する。有名になった彼女への注文が多くなったことにより、支給されているものだ。
石の光り自体の橙色と、濁った硝子の白い色が混ざった光がぼんやりと明るく手元を照らす。
手元以外、明かりのほぼ消えた室内では見回そうとも闇が濃い。月の光がどこかから差し込んできているだけの青い室内。
ではあるが、リコの夜目の利く目にはそれだけあれば充分だった。
充分でなければ生きてこられなかった。貧民街の夜は、皆が寝静まるわけではないのだから。
ちくちくと刺す針が、赤い絹の生地をかき寄せくっつけてゆく。
昼に負った傷はたいしたことがない。指先への傷程度、ないものと何も変わらない。
そう、今までと同じだ。全部、今までと。
(一生、こんななのかな、俺)
縫った袖が気に入らず、少しだけ悩んでからリコはそれを取り外した。
跡は残るかもしれないが、大丈夫、見えないところだしもう一度縫い直すだけならば出来上がりに支障はないはず。そう、手の先でぶら下げた袖を確認しつつ溜息をついた。
昼の苛々はいつの間にか霧散していた。
今の自分は冷静だ、と思う。けれどもリコは、それでも手元が上手く動かないことをわかっていた。
リコは『女性』が嫌いだ。
正確にいえば、『男に好かれようとする女』が嫌いだ。
好かれようとしているということは媚びを含んでおり、そしてその媚びは多くの場合一般的に性的なものとなる、とリコは思っている。
だが、だから、今目の前で自身が成形している布の塊は。
(結婚……かぁ……)
今作っているのは花嫁衣装。即ちそれは、男性に好かれた女性が着る衣服。
そして、自分が一生着る予定のない服。
きっと自分が男性ならばこうはならなかった、と思う。
この嫌悪感は、自分が女性の身体で生まれてきたからだ。
貧民街では性差を教える者などいない。
誰しもがいつの間にか自分の性別を自分で知る。幼いハイロと自分の身体の差については、まだ幼いながらも不思議に思っていた。
下半身を露出して歩く者などはそうそういない。だがそれに加え、いつの間にか自分は胸を出さないことが当たり前になっていた。
きっと周囲の女性を見て、自然と学んだのだろう。遅れてきた発育もあって、自分が『そちら側』なのだ、とも思っていなかったのに。
本能はある。誰にだって、親から学ばずとも自分の身体に刻み込まれたものが。
鳥が自然と飛べるようになるように。犬が自然と歩けるようになるように。
だから、自分も。
リコは『女性』を嫌悪している。
だからこそ、と思っている。
自分もそうなってしまうのではないかという恐怖。自分自身に対する嫌悪。
押さえつけていたそれが噴出するように
祝福したい。リコは真実そう思っている。
けれども祝福出来ない。結婚する二人は、男女だ。男に好かれようとする女と、女に好かれようとする男のつがい。
花嫁衣装を頼まれた。だが、これを作っていいものだろうか、という思いはある。
これは幸せになる服だ。これからの人生を彩り豊かに、幸せに生きていくための門出に着る服。
けれどもそんなものを自分が作っていいのだろうか。
不幸から生まれ、彼らの浴するであろう『幸せ』にはなれない自分が。もしかしたら、自分はここで彼らの幸せを汚してしまうのではないだろうか。
関わってはいけない。汚れた自分が。
何故だろう。
脳裏に祝うべき友人の顔が浮かぶ。
貧民街での後輩。ある日突然貧民街に現れて、自分やハイロを嘲笑うかのように出世していった男の子。
出会ったのはハイロよりも自分の方が先だっただろうか。
石ころ屋に売ろうとがらくたを運んでいたとき、油断した貧民街でひったくられたそのがらくたを奪い返してくれた……というような出会いだったと思う。
凄い子だ、と思った。
自分よりも小さいのに知恵も回り身体も動く。彼が石ころ屋に売り出す魚、それを冷やす氷の入手経路を尋ねたところ、魔法使いだということを事も無げに口にした。
幼い日、三日熱という病に倒れた自分を救ってくれた。
三日ごとに高熱が出て、いずれは衰弱して死ぬ病。それは彼のおかげでどうにかなって、それで今自分はここにいる。
この、彼を考えるときに浮かぶ感情は、何だろう。
嫉妬だろうか。違う。
羨望だろうか。違う。
感謝だろうか。……それは、部分的にきっとそう。
整理してみれば、彼はいつでも高みにいる人だ。
貧民街にいたときは、自分たちよりも優秀で、苦もなく暮らしているように見えた。
貧民街を出た最初の頃は、貴族たちとも懇意で裕福になっていったように見えた。
頭も良く、顔も良く、リコの目からすればおよそ欠点など見つからない。
戦場を征した英雄というのは今の話。〈大妖精〉から息子と扱われているという身分のようなものすらある。
自分が本当に女性ならば、彼に恋してもおかしくはないと思う。
好かれようと努力してもおかしくないと思う。
なるほど、先日の女性の言葉も理解してしまう。
『「きっと仕立屋さんも恋をすればわかります、なんて勝手なお世話でしょうか」』
でも、自分は女にはなりたくないから。
「きちんと、お祝い、しないとね」
思考が混ざって自分でもよくわからない。
集中出来ない、と思う。
だがやらなければ。これは仕事だ。
無心に針を動かして。そう、自分はお針子。
だから、何も考えずに。何も。
ひたりと針が止まる。
ずん、と肩に何かが乗せられた気がして、布地を机に下ろして俯いた。
なんだろう、この感情は。
服を作るのは嫌じゃない。仕事をするのは嫌いじゃない。
友人に頼られ応えるのも、そのために少しばかりの苦労をするのも。
それくらい、なんてことないのに。
立ち止まって見れば、リコの目は自分の仕事の粗を見つけた。
「……あ、玉留め忘れてた……」
結び目がどこかいってしまう。
まだ縫い閉じれない。また、最初からやらないと。
「やっぱり見事ですよね」
「そう思うんならまだ貴方の努力は足りないのね」
次の日の午前。
親方にせがみ、親方が昨日やり直していた刺繍を見て、リコは呟く。
熟練の技巧、と呼べばその通りなのだろうが、本人にそれを言えば叱られるのがリコには未だに理解出来なかった。
意匠は撫子だろうか。葉と花と茎が円になったように丸く描かれたそれは、親方の緻密な糸の使い方により平面であるはずが立体感を帯びる。
少しばかり目を細めてみれば玉のように見える艶やかな絵柄は、リコも作れるはずのもの。
そして、親方のそれを見てしまえば、到底無理だと思えるもの。
「それでどうなの? 進捗は」
「それが、まだまだで」
期限は近い。多く見積もってもあと四日程度、というところだろうか。
リコは肩を竦めて自分の机をちらりと見る。
木型に着せられた作りかけの赤い衣装は、片袖がまだついていなかった。
しかし、その程度、ということでもある。もはやほとんどリコの仕事はない。あとは花嫁衣装と、別で依頼されている細々とした小物。それに自身が望み作ろうとしている革靴のみだ。
報告されているものと、今の机の上の現状。それを確認し、親方は頷く。
「つまり仕事は今日中にあがるくらいね?」
「…………それが」
「なによ、何か問題でもあったの?」
ふん、と鼻息荒く親方は尋ねる。
問い詰められているようで、しかしその声音は心配しているのだろうな、とリコには感じられた。
「昨日の指の怪我?」
「いえ、それは大丈夫ですけど」
「じゃあ……」
トントン、と机を指で叩き、親方はじろりとリコを見つめる。
それからまた溜息を一つついて、唇を歪めてそっぽを向いた。
「まあ、じゃあいいわ。とりあえず期限には遅れないように……」
そして言いかけて、やっぱり、と言い淀んだ。
「いいえ。今日の午前は休みよ。休暇を取りなさい」
「ええ? いや、だって、休暇とかは」
仕事がない以上、取れないわけがない。しかし、急にというのは同僚たちから見ても少し憚られる行為だ。
本当は何も思っていなくとも、リコはそう頭の中で組み立てる。
休むわけにはいかない。
「問題ないわ」
そう固持したリコに、親方は強い口調で言う。
「私も一緒だもの」
それはもっとまずいのではないだろうか。
リコはそう感じたが、言い返すことが出来なかった。
二人は少しの後、工房近くの空き地にいた。
空き地といっても何もないわけではない。すぐ横の工務店の資材置き場だ。錆びた鉄材や木材などが転がる広場。
だが、資材はその片隅に転がっているだけで、そしてその工務店の親方の厚意で近隣の住民に開放されているだけの。
横倒しにした丸太の上下を薄く削いだ程度の小さな椅子に並んで腰掛け、親方とリコはそこで目の前の光景を眺める。
目の前にいるのは小さな子供たち。それぞれの家の朝の労働も終わり、昼飯前の休憩時間に男女の隔たりなく駆けて跳んで遊んでいる小さな。
勿論その他にも、彼らの親に当たるだろう女性たちや、隠居している老人たち。彼らは思い思いに集い、顔をつきあわせ、少しばかりの日常を楽しんでいる。
冬も終わりかけ、しかしまだ温かくはなっていない陽気の中で、親方は 長外套(ロングコート) に 踵つき革靴(長ブーツ) を纏って自ら組んだ足に頬杖をついた。
「子供たちは元気ねー」
「そうですね」
都市部の子供たちだ。
農村部のような逞しさは少しだけ薄れていて、求められる服の種類は頑丈さよりも見栄えに寄る。白い肌着を少しだけ豪華にしたような量産品が主で、だがやはりどこかに『お洒落』さがあった。
その子供たちを見つめる親方の目が、どちらかというと笑っていない、というのがリコには気にかかった。
無論、それまでにもそのような兆候はあった。
仕事を休ませて、そして近くの広場まで連れ出されたということ。初めてではあるが、恐らく間違いなく……。
「あの、俺なにを」
「あらま、ちょっとあの子、身頃の縫い目解れてるじゃない。やけにお腹がちらちら見えると思ったら」
何を叱られるのだろうか。
恐らくこの時間は説教の時間だろう。そう思っていたリコは、その言葉に面食らう。
視線の先の子供は、たしかに言われたとおり少し破けたような服を着ていたが。
親方は空を見上げる。
「もうちょっとでまた暑くなるわね」
「そろそろ生地を夏用に切り替えますか?」
「そうね。そうしようかしら」
雲がほとんどを覆う空。
しかしどんよりとした陰鬱さはなく、その雲が透けるように明るい日光が自らを主張していた。
「…………」
リコは親方の横顔を見つめる。
厚化粧、ともいえるほどの化粧。目の周りや瞼に入れられた色や、頬を染める色はきっと日の光の下では過剰だろう。
化粧などしたことがない、自分とは対照的に。
「何よ」
「……いえ、俺、何でここに連れ出されたのかなぁって」
視線に気付いた親方に向け、恐る恐るとリコは言う。説教をするのかと思った。しかし説教をする空気ではなくなったと思う。
ならば何故自分はここに呼び出されたのか。
わからずに、精一杯の愛想笑いを浮かべた。
「別に、言ったでしょ、休憩って」
そうではないから聞いているのだ。リコはそう思いつつも何も言わずに、親方の次の言葉を待った。
親方の口紅濃い唇から出たのは、溜息からだったが。
「あんたも、こう、なんか思わない? 目の前の光景は私たちの仕事の手がかりの一つよ? あのご婦人の襟巻きはどこの仕事とか、何で染めたものなんだろうとか、あの子たちの流行の色とかそういうの気にならない?」
「それはまあ、そうですけど」
うん、とリコは曖昧に頷いた。
たしかにそうだろう。
リコは公園の人々や通行人に視線を戻し、その服装を解析してゆく。
ここは五番街だ。当然いるのは職人やその家族が多く、そこにいる人々もそのような服装になる。煤に汚れた子供の腕は、手首から先が綺麗だ。恐らく炉で何かを扱う職人の子供で、きっと手袋をしていたのだろう。流行の色はきっと紫か緑に近い黄色。……。
「あの子の帽子、いい色じゃない?」
「羊毛を何かで染めてますね?」
「多分墨と緑山花ね。あえて三色斑に染めてるのが素敵よ」
見ている帽子は黄色と黒と緑が混ざったような複雑な斑点模様。山の中で紛れるような彩色をリコは想像したが、しかしこの市街地ではただの渋い柄だ。
全体の衣服を仕立てるのは少々柄が煩そうだが、しかし下衣だけをそうするのであれば……などと考えつつリコはまたふむふむと頷いた。
「……仕事の手が動いてないのは何で?」
しばらくそんな風に品評会を続けていた二人だったが、親方は突然そう切り出した。
リコはドキリとした。親方の派手に立てた金髪が房ごと風に靡く。
親方の視線はリコの方を向いていない。しかしその影が差した目が、きつくリコを見据えているようにリコには思えた。
「どうにも、納得が出来なくて」
「随分と時間がかかってる。集中出来ていないみたいね。昨日指の怪我もそうだけど」
「…………」
「身体の問題じゃないんでしょ?」
ぐ、とリコは黙る。
たしかにそうだろう、と思う。
どこか身体が悪いわけではない。目は普通に見えるし手の震えなどもない。およそ仕事に影響する身体の悪影響は今存在せず、そして、ならば。
「花嫁衣装を作りたくない、ってんなら断っていいわよ。今からでも私が作るし、謝罪状なら出してあげるわ。もう既に引き受けた工房の失態ですもの」
「その、作りたくない、ってわけじゃなくて……」
なんだろう、とリコは自身でも悩む。
言っていいことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか。その内心を親方に告げていいものだろうか、わからずにその続きを上手く言えないと思った。
「俺、なんかが作っていいのかなって」
「あら今の貴方が駄目ならうちの工房の子たち大体駄目よ」
「そうじゃなくって」
頭を振ってリコは膝の間に置いた手を見つめた。
「なんだか……わかんないんですけど、……素直に花嫁さんに、カラス君に、お幸せにって言えない気がして」
「なるほどね」
辿々しく言ったリコに、親方は即答するように頷いた。
煙草の煙でも吐くように、上を向いたまま親方は口を開き、また閉じた。
「好きなの?」
「え?」
「あの子のこと」
「……。……多分、いいえ。そういうんじゃなくて」
「じゃあ何かしらね」
「なんていうか、烏滸がましい感じがして」
ぽつりぽつりとリコは言葉を吐く。俯いたまま、譫言のように。
「烏滸がましいってどういうこと?」
「俺なんかが、そんなことを願っていいのかわからないんです。だって、俺は」
穢れから呪われて生まれてきた。
そして今もまだ、穢れて、呪われたままで。
目を瞑りかけたリコに、からかうように、歯を見せて親方は笑った。
「じゃあ何かしら。今まで作った服にはそんな気持ちなんか入れてなかったってことかしら」
「……いえ、そんなことは」
「冗談よ。別にそんな私たちの気持ちなんかどうでもいいわ。私たちは仕立屋、職人なの。作った商品の出来さえ良ければ、あとは経理とか宣伝の仕事よ」
呆れるように親方は鼻から息を吐く。
「いい? 客は私たちの事情なんて知ったこっちゃないのよ。貴方が悩もうが手を止めようが血反吐吐こうが厩の裏で死んでようが、商品が手元に来ないならそれはただ商品が手元に来なかったってだけのことなの」
極論だけど、と親方は口の中だけで付け足した。
そして、正論だとリコは思った。それは知っていて、それに心がけているはずのことだった。
「それはわかってますけど」
「その上でね? いい? 客は私たちの事情なんて知ったこっちゃないの」
「……?」
「俺なんかが、とか考えなくていいってことよ」
少しだけ苛立ちを隠さずに、親方は鋭い視線を無意識に子供たちに向ける。
向けられた子供は、正体不明の人物の視線に僅かに怯えて無意識に幾人かで身を寄せ合った。
「あのカラスって男、嫌いじゃないんでしょ? せっかく結婚するんなら、幸せになってほしいと思わない?」
「それは、思いますけど……」
「じゃあ思いっきりそう思えばいいわ。一針一針丁寧に、そう唱えながら通せばいいの。そうすれば服一着なんてあっという間でしょ? 何で『俺なんかが』ってうじうじしてるのか知らないけど、どうせ服に私たちの事情なんか乗らないわよ」
声なく親方はゲラゲラと笑う。
服からそのような、何かしらの事情を読み取れるとしたらそれは異能の類いだし、そしてそれを読み取った上で拒否するのならばあのカラスはリコの友人たる資格はない。
「貴方、妖精って見たことある?」
ぐに、と笑って親方は子供たちを見る。
少しだけ遠巻きに、怯えたように親方を見ていた子供たちは、それで何人かが走って広場を去っていった。
「アリエル様だったら」
「そういえばそうね。じゃあ、それ以外では?」
「ありませんが……」
リコは答えながら、何の話だ、と思う。
突然の話題の転換についていけない。先ほどまでは、説教、もしくは激励かと思っていたのだが。
その空気を親方も感じ、咳払いをして誤魔化した。
「誰にも話したことのない話だけど。私は、あるわ」
「え?」
「今逃げてった子供たちくらいの歳だったかしら。五歳くらいの可愛かった頃よ」
言いつつ親方は目を細める。
胸に覚えるのは、懐かしさと馬鹿らしさと、それからほんの僅かな悲しみと。
脅かしていた自覚はあったのか。そうリコは思いつつ、無言で先を促した。
「月が綺麗な晩だったわ。夜、目が覚めちゃってね。寝床から起き上がって、居間に出ようとしたの。水でも飲もうとしたのかしら」
実際にはそこまで考えていたわけではなかったと思う。半ば寝ぼけて、喉が渇いて居間を見た、というだけで。
「そこに、いたのよ」
「妖精がですか?」
「ううん。お母様。居間の椅子に腰掛けて、小さな火の明かりを頼りにせっせと何かやってたわ」
ふふ、とリコの勘違いを親方は笑う。もったいぶったわけではなかったが、いい誤算だと思いつつ。
「初めはなにをしてるのかわからなかったわ。でも、後ろの方からそっと覗けば、私の服に開いた穴を繕ってくれているのはわかった。小さい頃はお転婆だったから、しょっちゅう穴を開けて帰ったものだからね」
それにこの無駄に高い身長も原因だった、と親方は内心呟いた。当時から背丈は普通より少し大きく、そのせいで年相応の服が小さくなってしまうのも悩みだったのだから。
「その手元にね、何かきらきらしたものが見えたの。ふわふわ浮かんで、羽があって、それでいて小さい男の子と女の子がその手元をうろうろとしていたのよ」
親方が笑みを強くする。
馬鹿な話だ、と自分でも思った。そんなことあるわけないのに。妖精なんて歴史上一体しか存在しない。そんな貴重な伝説の存在が、片田舎にある自分の家になど現れるわけがないのに。
「その日は夢だと思った。そのまま寝ちゃって、次の日の朝、お母様に尋ねたの。『昨日の夜、何していたの?』って。お母様は全然知らないみたいだったわ。でも、その朝、お母様は、私に服を渡してくれたの。繕った跡がちゃんとあって、私も驚いたわ。あれは本当にあったことだったんだ、って」
あの時の嬉しさは親方も覚えている。
幼い日に信じていた存在、夢物語に聞く妖精が、自分の元へとやってきたのだ。
それがどれだけ嬉しかったことか。それすらも、今の自分にはわからないけれども。
「でもね、その服は、普通の服だったの。お母様がたまに繕ってくれたものと何も変わらない。特別綺麗になったわけでもないし、良い匂いがするわけでもない。着れば空を飛べるわけでもなかったし、猫とお喋りすることも出来なかった」
親方はリコに向き直り、わかる? と小声で笑いかける。
「妖精が関わった服だって、普通の服なの。なら私たちがどんなに心を込めたって、何も変わらないと思わない?」
「何も……」
「まあ妖精までいくと冗談みたいなものだけどね。でもねだから、込める心意気なんてどうでもいいの。私たちが何を思ってどんな苦労してどんな楽して作業しても、私たちがどんな人間でも、出来上がった商品には関係がないの。そう思えば、自分がどうだから作れない、手が動かない、なんてあるわけないでしょ」
着地した話題に、親方の顔が少しだけ得意げに引き締まったようにリコには見えた。
「貴方がどんな人間でも、素晴らしいものを作れば何も関係がないわ。じゃあ、素晴らしいものを作るにはどうしたらいいと思う?」
「……それは、練習したり、とか、技術を磨いたり……なんて?」
「そうね。相手をどれだけ思えるか、が重要になるのはそこ」
足を組み替え、親方は腿の上で手を組む。優雅に、まるでそこがどこかの庭園のように。
「切ったり縫ったりなんて量をこなせば上手になるわよ。綺麗なおべべだって、時間と材料さえあれば誰だって作れるようになるわ。でもね、私たち職人は素人じゃないの。だからその上をいかなくちゃいけないの」
親方は遠く遠くを見た。
「誰かのために心を込めた品を作る。そうした品には魂が宿るっていうけれど、そうじゃないと私は思うわ。魂が宿るのは品じゃなくて私たちの腕、指先よ。誰かを思って心を込めた作品を作る度、私たちは一つ上達して上手な商品を作れるようになっていくの」
わかるでしょ、ともう一度口の中で言って、親方は立ち上がった。
長身、細身ながらも袖付きの長い外套が風ではためく。
「『自分には烏滸がましい』? そんな余計なことを考えている暇があったら、あのカラスって子とその奥さんの幸せを存分に願って素晴らしい作品を作りなさい」
「……はい」
「私もね、こんな格好してるから色々あったわ。好きな格好してるだけなのに、お父様にはみっともないって怒られて、お母様には延々泣かれて、それでも続けてたらめでたく勘当よ」
懐かしさに微笑みつつ、親方は口にし、それでも一度地面を蹴った。
近所の奥様に譲ってもらった婦人服。それを勝手に売り払って麦に換えた父親には未だに腹が立つ。
だがそれでも、もう二度と会えない家族を思わない日はない。
「そんな私でも、幸せになってほしい人はいるし、苦しんで死ねばいいと思う人間だっている。そう願うなと言われたらふざけるなって言い返してやるわ」
きっとリコの悩みもそのようなものだろう。
そう、半分あっていて半分違っている推測を親方は行い、そして懸命に言葉を探る。
「貴方に何があってそう思うのか知らないけど、人の幸せを願っちゃいけない人間なんてこの世に存在しないのよ」
二人の間に風が吹く。
親方は風でひらめく髪の毛を押さえることもせず、睨むように鋭い目でリコを見つめた。
だが、その顔に恐怖は感じない。リコにはその顔が、もどかしさで染まっているように見えて。
目の前。きっと皆に白い目で見られてきて、それでも胸を張って生きている一人の人間に。
どんな自分でもいいのだ、とそう言われている気がした。
「はい」
でも、だとしても。
自分は彼の幸せを願ってもいい。
だとしても。
願えるのか、はきっと別の話だ。