作品タイトル不明
幸せになれないのに
苛々している。
リコがそう自覚したのは、服の表に見える飾り紐を縫い付けている最中だった。
赤く染められた絹。赤い衣装で行う結婚式はエッセン式だ。リドニックで行われる式であるのに、装いはエッセン方式というのはきっと花嫁に合わせたものだろうというのはリコの推測だ。
花嫁はエッセンの貴族の女性らしい。
それも複雑な事情もあって、旦那である友人は婿と呼ばれないのだという。故に形だけで。
だがそれでも出来るだけきちんとしたものを、という心は充分手紙で伝わってきていた。
いくつかのやりとりの後、最後に送られてきた手紙に同封されていたのは、身体各部の大きさを測った紐。きっと自身と同じく仕立の心得がある誰かに計測を依頼したのだろう、身長は勿論肩の幅、胸や胴の太さ、腕や脚の長さ、その他必要なものはきちんと届いている。
やる気が出ないわけではない。
しかし、それでも仕事はなかなか進んでいなかった。
作っているのは花嫁衣装。それを思い返す度に、数日前に見た首飾りの女性の姿が目に浮かぶ。
どこのものかは知らないが、結婚式に呼ばれたのだ。
そしてそこに出席する。
ならば心から祝うのが当然ではないだろうか。どのような経緯があったにせよ、その式は喜ばしき二人の門出になるのだ。
花嫁から花婿を略奪しようなどと考える不届き者は、会場に立ち入るべきではないだろう。祝えないのならば出席など断るべきだ。
考える度に舌打ちをしそうになる。実際何度もした。
そして今は、穴に通した飾り紐が酷くねじれて不格好になっている目の前の様に、また苛立ちが増している。そう自覚して、深呼吸を繰り返した。
「わあ、綺麗ですね、先輩」
「そう?」
たまたま後ろを通りかかった後輩が、リコに声をかける。
その言葉に『嫌みか』と返しそうになった。
しかしそうではないだろう。まだ量産品にしか手を出すことを許されておらず、無地の粗末な下着を繕う日々の後輩には確かに綺麗に見えるのだろう、と内心で理由を付けて堪えた。
「ありがとう。まだやることはあるけどね」
「もう完成品じゃないですか」
「まだまだ」
ばさりと服を改めて広げて、リコは後輩に衣装を示す。座ったまま膝の上に乗せて前に垂らすように。まだ袖ぐりに袖すら付けていない骨組みのような衣装は、着たとしても大分扇情的だ。
「あとはここに振り袖もつけなくちゃいけないし、もう一枚上に羽織も作らなくちゃいけないし。……今度やってみる?」
「え? いいんですか?」
「俺が戻ってきたらね。親方に許してもらったら教えてあげるよ」
この後輩もそろそろいいだろう。親方もそう言うだろうし、そして自分は暇になる。
少し後に旅立つ。どうせここで仕事を全て片付けていくのだし、帰ってくるまでは仕事の受注はしないのだから、帰ってきたときに仕事はないだろう。そのときに指導するくらい構わない。
やったぁ、と上着についた頭巾を揺らして後輩は小さく跳ねる。
少女のような仕草。もうとっくに成人は過ぎているだろうに、とリコは内心溜息をつき。
「構造を把握しなくちゃいけないし、それまでに端切れ使ってでいいから十分の一の小型模型を一着以上作っておくように」
「……はーい」
その仕草に、何故だか小さな宿題を申しつけたのも苛つきのせいだろうか、と思った。
苛々している原因はわかっている。
布の縫い代を畳み折り目を付け、印を打ち直しながらリコは思う。
咥えた三本の待ち針を一つ一つ口から取り、目を細めて生地を見つめた。
苛々している。その原因は、『女性』を見たからだ。
好きな男性に好かれようと自らを彩る女性。化粧をし、身体に油を塗り、衣服を整えて髪の毛を切りそろえて。
リコもわかっている。彼女らが悪いわけではない。悪いことをしているわけではない。相手を正式な相手から奪おうとしていた先日の女性の行いは置いておいても、きっとそうして自らを美しくしようとする行為自体は悪ではない。
けれども、リコは気に入らない。その行為が直接気に触るわけではない。気に触るのは、その行為が滲み出る『本能』とも呼ぶべき何か。
わかっているのだ。
着飾る先日の女性も、可愛らしさを前面に出す後輩も、きっと悪いわけではない。
しかし、気に入らない。
その行為が男性に媚びる仕草に見えて。『男性』にとって好ましい見た目を作る行為が、そうした『女性』が汚らわしいものに見えてしまう。
リコとハイロは、共に貧民街で生まれ育った。
いつの間にかそこにいて、いつの間にか一緒にいた二人。貧民街の者にはよくあることで、自身の生まれも名前も知らずに自分で作るのが当然のことだ。
ハイロはその通りだ。
彼は両親の顔も知らなければ、生まれた年も場所ももちろん知らない。歳なども便宜上リコと同じとしているし、名乗るのも曖昧なもので本当の自分の歳は知らない。
リコも、自分の歳は知らない。両親の顔も知らない。
けれど、どこで生まれたかは知っている。
『こいつぁ……』
リコはあの日を思い出す。
ハイロと別で貯めた自分の金。それで石ころ屋、グスタフに一つ調べてもらったときのことを。
今でも覚えている。目の前の老人が、自身が差し出した汚い布の端切れを丁寧に伸ばして撫でて見つめている姿を。
貧民街に育ったリコには、他の人間にはほとんどないある経験があった。
それは、一枚の布。物心ついたときから彼女は一枚の布を持ち歩いていた。時には腰の隠しに、時には握りしめ、いつでも持ち歩いていた汚い布。
特別なものというわけでもない。単なる一枚の布に何故だか愛着を覚え、何故だか手放せなかったという話。
それがなんなのか、リコは知らなかった。
垢と汚れにまみれた汚い端切れだ。いつからか手元にあって、捨てられなかったというもの。
そしていつしかその布は、自身の出生に関わるものではないかと考えはじめてもいた。
リコに調べることを依頼され、恭しく布を受け取ったグスタフは、少しだけ時間をくれ、と言った。『出来ない』でもなく『わからない』でもないその言葉に、リコもどこか安心したものだ
そして次の日、石ころ屋を訪れたリコに返却された布の端切れは、リコが渡したときよりも大分綺麗になっていた。
受け取ったリコも驚いた。綺麗になった布の手触りに。
いつの日からか、もしかしたら最初から、自分が持っていた布の端切れ。物心ついたその日から、いつの間にか手放せない大事なものだと腰の隠しや盗品の隠し場所に必ず保管していたほんの小さな一枚の布。
手巾ほどもない。幼いリコの掌と同じ程度の小汚く薄い布で、端は破けて解れていた。
「素材は絹。青みがかった色は染められたんじゃねえ、ラーム地方にいる山蚕特有の色味だ。あそこの主要産業だし、織られ方見ても新米が作ったような大量生産品だな」
「特別なものじゃないんですね?」
「ああ。安い布だ。イラインにも大量に入ってきてる」
まだ身長が低いリコが、グスタフとの間の間仕切りに似た机に両手をかけて見上げる。
そんなリコに対してもグスタフは作業のように冷たい目を向ける。
「つまり、布からじゃ辿れねえな」
「こっちは?」
吐き捨てるように言ったグスタフ。だが、リコはそれに反論した。布の端には、墨かそれとも他の何かで染めたような斑点があった。斑点、もしくは何かの印、それか、文字。
グスタフはその言葉に頷く。
「それは墨だな。おおかた、書き物した上にすぐに布を置いたんだろう。まだ乾いてない墨の上に、柔らかくて重たいものを包んだ絹を乗せるとそういう風になる」
「じゃあ、やっぱり」
「多分、お前の推察通りだろうな。『おくるみ』で撞着はねえ」
やっぱり、とリコは思った。
そこまで明確な根拠があったわけではない。ただなんとなく、その布を何故だか手放せない日々の中で、大事に思ってしまう日々の中で、ただ思っただけで。
自分が大事に持っていた布の端切れ。それが自分の根源に関わるものだったとしたら、という願望混じりの推察。
「そしてお前の欲しかった情報は……」
喜色が浮かんだリコ。だがその顔に、グスタフは僅かに言い淀んだ。言っていいものか、と既にすり切れている良心が止めをかける。
だが、言わなければいけないのだ。それが、彼女から問われたことであり、金を受け取った以上それはこちらの仕事なのだから。
「……根拠はいえねえ。お前には教えられないし、言っても理解出来ないだろう」
その根拠は部下の手によるもの。グスタフの抱える優秀な部下。彼が見て、嗅いで、聞いて、そして視ればわかるというもの。
「三番街にある娼館。そこで使われているものだ」
そして部下である『彼』は言っていた。
この情報は、依頼主の意に適うものではないのだろう、とも。
「…………娼館、ですか?」
「ああ」
聞き返されたことに素直に頷き、グスタフは溜息をつく。
知りたかったことではない、ということだろう。やはり。
リコがぐらりと不意に揺れる。
彼女自身に何かがあったわけではない。グスタフが何かをしたわけでもない。だが、彼女自身感じ取れないほどの小さな揺れに、気付かないほど小さく視界が歪んだ。
それからもう一度、言葉を頭の中で反芻する。
娼館。売春窟などとも呼ばれ、娼婦、もしくは男娼が勤めて金銭で春を売る店のこと。
聞いて、リコも愕然とした。少しだけグスタフの声が遠くなった気がする。
望んでいたもの、というものがはっきりとあったわけではない。しかし、何となく思っていたものと違う、とリコは叫びたい気持ちになった。
「なん……で……」
何故、と自身が口にして、それでいてそのことに対してもまた『何故』と思った。
知りたくない、と耳を塞いでしゃがみ込みたくなった。それも何故だかわからないままに。
「本当に、聞きたいか?」
グスタフに聞き返されて、リコは凍り付いた。
そもそも、自分は何を聞きたいと思ったのだろうか。何が『何故』なのだろうか。どうしてそれがわかった、という意味だろうか? どうしてそれを言ったのか、という意味だろうか? だがその問いはもはや答えは出ているし、聞く意味もない。
だからきっと、その『何故』の問いは。
「聞きたくなきゃ聞かなきゃいい、俺は黙る。聞かれりゃ俺は答える。それがお前から引き受けた仕事だからな」
どうする? と目で問いかけられ、リコは返答に詰まった。
だが本当ならば、ここで問答無用で答えるべきだ。
真実は、そう凄惨なものではない。
この社会、更に娼館からであれば娼婦という職業柄よく起こることではあるし、特段珍しいことではない。
事実、リコと同じ境遇の者は貧民街に多くいるし、どこにでもいる者たちだ。
だからそれが、グスタフが出来る最大限の親切だった。
「つまり、俺は……」
そして続くリコの言葉に、聞きたい、とグスタフは受け取った。
まあ、いいのだろう。それが彼女の望むものならば。
「望まれて生まれてきたわけじゃねえってことだな。まあ気を落とすんじゃねえよ、よくあることだ」
リコの推察通り、と先の言葉を察してグスタフは答える。彼女自身が考えつくよりも、自分の口から伝えた方がいいだろう、と心ばかりの気遣いで。
本当によくある話だ。
薬を忘れていたか、避妊具として体内に丸めた紙などを入れることを怠ったか、もしくは奇跡的にそれらの対策をすり抜けてしまったか。ともかくとして、避妊に失敗し、娼婦が客との間に子を身籠もってしまった。
その子を流さず、堕ろさず、生んでしまった。その結果、生まれた子供。
育てば娼館にとっては利益になるかもしれないが、しかし合法的に使うのにはそれまでが長い不良債権。
だが殺して自分の手を汚すことも出来ずに、また温かく育てることも出来ずに。
嘘、とグスタフの言葉を否定出来ずにリコは黙る。
この老人が嘘をつくとは思えない。リコが本能的に知る、貧民街で唯一信頼出来る言葉。
それに、よくある話だ。そうして始末に困った赤子が、貧民街に捨てられることは。
グスタフが秘密裏に付けた護衛に送られ、リコはその日半ば呆然としたまま住処に戻った。
混乱、困惑。そのような類いの感情を抱えたまま。しかし、ハイロにはそれを見せぬように気遣いながら。
その日の収穫を換えた金や食料をハイロと分かち合い、そしていつものように明日への英気を養うために眠りにつく。
だが、寝付けなかった。
背中に当たる傷んだ木の床が硬く感じたわけではない。
その日グスタフから受け取った情報は、リコの頭の中をぐるぐると回り続けていた。
特段、自分の出生が気になっていたわけではない。
だがやはり知りたかった。どうして自分がここで辛い日々を生きているのか。日々の食べ物に事欠いて、寒さに凍えて生きなければならないのか。いつも周りにいる『敵』に怯え、熟睡も出来ずにいなければいけないのか。
幸せになってくれていればいいと思っていた。
たとえば、どこかで許されぬ恋をした両親が、自分が邪魔で幸せになれなかったとしたら。
不幸が除かれていればいいと思った。
たとえば両親は生活に苦しく、口減らしとして自分を捨てたとしたら。それで何とか両親たちだけでも、きちんとした生活が出来てくれていれば。
そういう風に思っていた。
自分が不幸になることで、誰かが幸せになれているのならば。
せめて自分が望まれて生まれた子供で、両親はやむなく自分を手放した。
もしもそうならば、少しくらいの不幸も我慢出来る。そう思っていたのに。
けれど。
夜目が利くリコの目に、月の光が眩しく入る。
目が眩みそうなその光から目を逸らすように、リコは窓からそっぽを向いた。
自分は望まれて生まれた子供ではなかった。
娼婦にとって、子供は邪魔なだけだ。自分を身籠もったときに、きっと親は舌打ちをしただろう。そこまではなんとか『売り』になるであろう膨らんだ腹も、臨月などには商売は出来ない。
貧民街にも男娼を含む夜鷹は大勢いる。街の娼館では考えられない安値で、だがだからこそ粗雑な扱いが出来る娼婦や男娼たち。
彼らが身籠もったときの悪態を、リコは知っている。腹に宿った子供を呪い、唾を吐き、自身の不幸を嘆くのだ。
きっと自分もそうだったのだろう、とリコは思う。
自分の母親は誰か、とまでリコはグスタフに聞かなかった。あの様子ならば、そこまで調べはついていたのだろうが。
だが誰が母親でも同じ事だ。
自分は娼婦の子。ならば生まれから呪われている。自分はきっと母親から、不幸を望まれて生まれてきたのだろう。
誰からも望まれない子供。今ここで不幸な暮らしをしていることも、きっとそのせいで。
「……なんだよ」
ふざけるな、とリコは誰かに怒鳴りたい気分だった。
涙が薄く膜を張る。
知るんじゃなかった。知ろうとするんじゃなかった。
知らずに、夢見ていればよかったのだ。今の苦しい暮らしはあれど、自分の生まれは祝福されたものだったのだと。せめて、それくらいは。
「なんだよ」
ぽつりとリコが呟く。
目に浮かぶのは、以前偵察で見た風景にあった三番街の『娼館』。自分がそこを出身かどうかもわからないまでも、それはリコにとっての象徴の一つ。
扇情的な衣服を着て客を呼ぶ。男を見れば、娼婦はしなだれかかるように腕をとって媚びるような手つきで客を引く。男は緩んだ顔でその手のままに招かれて中へと足を踏み入れる。
消えていった先で行われている行為を、貧民街の基準でしかリコは知らない。
けれども、今となってはそれが酷く悍ましく、そして汚らしいものにリコは感じた。
その『行為』を行えば、子供が出来るかもしれない。
そんなことは、それこそ子供であるリコでも知っている。そこを使用する男たちが知らないわけがない。そこで商売をしている女たちならなおのこと。
何故そんなことが出来るのだろう。
いつか不幸を身に宿す悍ましい行為を。金や性の欲望のままに。
いつか不幸になることをわかっていながら。
いつか不幸になる『誰か』がいることをわかっていながら。知らないふりをしながら。
そして自分を身に宿した母親は。
その『女』は。
どうしてその子を幸せにする気もないのに。
どうして捨てる気でいたのに。どうしてその先捨てることがわかっていたのに。
どうして自分を生んだのだろう。
貧民街に捨てるということは、その先、その子に幸せがないことを知っていたのに。
幸せになってほしいとすら願わないのに!
どうせ不幸になると知っていて!
どうして俺を生んだんだ!!
ぼんやりとしていた思考が急に戻る。
「痛っ……」
縫い針が指に軽く刺さり、リコは顔を顰めた。
久しくないことだ。リコの技量は既に一人前以上。無意識にも縫製の手が淀むことはなく、その針先は最適で美しい場所を選び取るのに。
指先から血が滲む。血が目立たない赤い生地としても血を生地に付けるわけにはいかない。完璧に落とすことなどほとんど不可能であるし、それに花嫁の新しい門出の服にそのような縁起の悪いものを付けることなど。
慌てて指先を咥えて、余った片手で布地を探る。垂れた血はないらしい。
「あれ、先輩? 大丈夫ですか?」
「うん」
いけない。仕事に集中しなければ。
そう、戒めのようにリコは口の中に満ちた鉄の味を感じ取る。
救急箱、救急箱、と隣にいた後輩が気付いて立ち上がる。
リコのような者にとってはそうそう必要ないが、仕立屋の新入りにとっては傷薬と包帯は必需品だ。さらに歳を取れば、今度は治療師謹製の点眼薬がそこに入るものだが。
「そこまでじゃないからいいって」
断るリコを無視して、後輩は自分の机から取り出した軟膏の蓋を開く。
別にいいのに、とリコはそれを見つめていた。
口の中に滲む血の味。
唇を噛んだ血の味と、何も変わらず。
「リコちゃん」
そして聞こえてきた声に、リコが振り返る。そこにいた親方は、リコが自らの指を咥えている姿に目を細めた。
手に持つのは帯揚げ。リコの担当はその中の花の刺繍。昨日の昼過ぎ、リコが完成させた貴族からの注文品だ。
少しだけ不機嫌そう、とリコは親方を見て思った。珍しい。怒鳴ることはあっても、それで尾を引く人ではないのに。
「これ、作り直しよ。あたしがやっとくけど、一応貴方に伝えておくわね」
「え? どこかおかしいところありましたか?」
「仕上がりが雑」
ふう、と溜息をつきながら親方は吐き捨てる。
それからまた一歩歩み寄り、机の上に置かれた作りかけの衣装を裏返し、走る糸の一部が変色しているのを見てまた溜息をついた。