軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

底を知って

「……!!」

声にならない声を出して、背中を壁にぶつける。痛いが今はそんなこと言っていられない。

「モ、モスクさ……」

呼びかけるが、モスクは口をぱくぱくと開閉して女を見つめていた。

それもそうだろう。僕も嫌でも女からは目を離せない。振り乱した長い髪の毛。多分、ずっと切っていないのだろう。ぼさぼさの髪の毛が井戸の口から入り込んできている。

違う、見ている場合ではない。逃げなければ。

本来、危険に遭遇したときに固まってしまうのは悪手だと思う。

いつもの僕であれば、ここから逃げる動作に移れたはずなのに、恐怖のせいだろうその動作をとれなかった。それでも思考を途切れさせないように努める。

どうすればいいだろうか?

幽霊? そんなものを見たのは初めてだし、魔法で追い払うことは出来るだろうか。

そもそも物理干渉が出来る相手なのか。声が聞こえているということは空気を揺らすようなことが出来るということ。ならば空気を介しての干渉なら出来るはず。

戦う? 正体不明の相手と?

何か出来ることがあるのであれば、モスクが逃げる間時間を稼ぐぐらいはしよう。でも、幽霊なら死んだ相手だし、もう死ぬことはあるまい。

念仏でも唱えれば効くだろうか。違う世界の違う宗教の相手に?

震えて固まっている僕らに、何を思ったのか女は身を乗り出す。

「あーーーーーーー、んーーーーーーーー」

相変わらず、よくわからない不気味な声。聞くたびに背筋が凍る。

咄嗟にモスクの身を後ろに下げるように、僕は体を前に出す。

「は、はやく、逃げ……」

呂律が回らない。笑い女の話を、話半分にしなければよかった。

歯の根が合わない。後悔が胸を満たす。

もう、努力を無にするなど言ってはいられない。心意気よりも命だ。

一度強く息を吐いて切り替える。

魔力波を飛ばして周囲の地形を把握する。近隣の階層まで含めた情報が僕の頭の中に読み取れた。

ここから近くの通陽口まで急ぎ逃げて、そこからモスクを連れて飛び上がる。

崩落させるわけにはいかない。壁を壊す枚数が少ないルートは。それでいて、最短のルートは……。

数瞬のうちに逃げる算段をつける。

とりあえず、目の前の女を衝撃波か何かで追い払った後、……。

「……えーと、……話、出来るか……?」

魔力を展開し、作用を発現させようとしたそのとき、モスクが声を上げる。

僕に話しかけているわけではない。モスクは震える声で、女に向けて話しかけていた。

「何を……」

「え、いや、だって……」

自信なさげに、それでも僕よりも前に出ようとしていると言うことは怯えなども薄れている。何だろうか、何か、答えてくれる確信でも……。

ずるりと女が顔を完全に出すよう、身を乗り出す。

噂通り、ワンピースを着ていた。

「んーーーー、あーーーーー、あ、あああ、う、……」

それから喉の調子を整えるように、咳払いではないが発声の練習といった感じの声を出す。 その声に、僕はまた首元が粟立った。

先ほどとはまた異なり、少しだけ抑揚のついたその音は、通陽口から熱風が吹き込んだあのときに立った音に少しだけ似ていた。

いや、違う。似ているのではない。多分、あのとき僕は既にこの声を聞いていたのだ。

ゴクリと唾を飲み込む。

モスクはどうして、この女に話しかけなどしたのだろう。早く、逃げるべきだ。

フルシールのような恐怖ではない。これは、僕が勝手に感じている類いの恐怖だ。だが、この恐怖は僕の身を守るためのもので、逆らうべきではない。なのに。

女が眉を顰めて渋い顔をする。それからぱちくりと瞬きをすると、ひとつ頷いてから笑った。

友好的なものではない。どちらかといえば、エウリューケがよくしていたような、何かを思いついたときのようなものだ。

その上、違う音まで聞こえてきた。

「……まずい気がします」

「え?」

モスクは聞こえていないだろう。けれど、僕には聞こえる。

足下深く、遙か下の方から、がらがらと石がぶつかったり擦れる音がする。そして、それがだんだんと近づいてきた。

「ぁーーーー」

笑い女が手を振る。名前の通り、微笑みを浮かべて。

次の瞬間、僕らの足下の床が抜けた。

「な」

「おわっ……?」

静止している一瞬で見えたのは、底の知れない穴。

次いで胃がせり上がるかのような浮遊感を覚える。落下していくのだろう当然だ。

急ぎモスクを抱えて、僕は飛行しようとした。

だが、出来なかった。

「!?」

下もそうだが、上もやはり何かが起きた。まるで石材でジェンガを組み上げていくように、上部の穴が閉じる。複雑にかみ合ったそれは、周囲の壁と変わらない。もはや上には向かえず、そして自由落下速度に合わせて穴が埋まっていった。

落ちながら上を確認しても、もはや分厚い床だ。

階層を落ちていくのだから、横に空間があるはずだ。そう、横の階に飛び出そうと注視していても、ずっと壁が続いてゆく。

まさしく、大きく開いた縦穴。

「ぬああああああ!!!」

抱えたモスクの叫び声が響く中、僕とモスクは底の知れない穴に落ちていった。

時間にして十五秒ほどだろう。後半は、底を察した僕が減速しつつ降りていった。

不思議なことに、追い立てるように閉じていった穴の上部は、僕が減速するのに合わせるように閉じる速度も落ちていった。

底につく。ふわりと着地したその床は砂利のような感触で、今まで踏んでいた石材とは全く違う。もはや明かりは無い。一部オレンジの光が漏れているため見えているが、それは廊下の奥にある部屋らしい。廊下というよりも感覚的にはもはや洞窟だが。

それが確認できる範囲でも凄まじい数枝分かれしている。洞窟とも違うか。まるで、地下迷宮だ。

指先に光の玉を浮かべる。

柔らかい光で視認できるようになった壁は、地下水で湿っているのか、しっとりと光を反射していた。

「ここは……」

モスクは焦りつつ周囲を見回す。見上げてももはや穴は無く、密に組まれた石材が頑丈そうな天井を作っている。もはや、今の穴から出て行くことは叶うまい。

「……ここが底でしょうか。さて、どっちへ行っていいやら」

普通に考えるのであれば、明かりのある方向だろうか。しかし、勘ではあるがあれは人為的な光ではない。それに、向こうから嫌な感じもする。

気配など、そういった類いのものではない。

感じるのは、臭気。それも、それなりに濃密な獣臭だ。

それが、時折熱風とともに吹き付けてくる。明らかに、まともな場所ではない。

「で、どうします?」

「お、おう」

僕が聞くと、モスクは僕の顔を覗き込むように見る。眼鏡の奥で、怪訝そうな目が細められた。

「なんつーか、色々と言いたいことはあるんだが……」

頬を掻きながら、モスクは呟くようにいう。

「まず、何でそんなに落ち着いてるんだ?」

「お互い様でしょう。あそこで笑い女に話しかけるとは思いませんでしたよ」

にっこりと笑いながら僕は返す。恐怖が消えて、少しばかりテンションが上がっているらしい。何でもない言葉なのに、笑みがこぼれた。

「いや、だって何もしてこないしさ。普通の人間みたいにも見えたし……」

「そう、きっとそうですよ。あれは普通の人間、もしくは生物です。得体の知れない生き物じゃない」

「お前こそ、何であんだけ怖がってたのに」

その質問ももっともだ。しかし、出来るだけ表に出さないようにはしていたが、やはり怯えが外に出てしまっていたか。

「わかりやすい攻撃でしたからね。察知も反応も出来ない何者かではない。怖がりすぎていたようです」

僕らは、穴に落とされた。たとえば、魔力を介さず目が合っただけで発狂するとか、呪い殺されるとかそんな不可思議な攻撃ではなかった。

ただ、穴に落とされただけ。そんな、わかりやすい攻撃を行う者であれば、何者であろうとも構うものか。

いや、最後の仕草からしたら、攻撃ですらないのかもしれない。

目的はわからない。けれど、最悪壁を壊して逃げることが出来たくらい、単純な行動。

正体不明な者は怖い。幽霊など、その最たる者だろう。

だがもはや、底は知れた。彼女が幽霊だろうが何だろうが、もはや彼女への恐怖はない。

「あと、なんつーか……」

一人で納得している僕を尻目に、モスクは照らされた壁を見つめる。それから僕の指先に目を向けると、ため息をついた。

「……魔法使い、だったんだな……」

「気づいてませんでしたか? 練武場で一度使ってるのに」

一度、モスクを落下から助けている。慌てていたから気づかなくても仕方がないか。

「ま、使えりゃ何でもいいよ。んで、ここからどうするか、だったな」

「ええ。脱出しますか? 地面を掘り抜いて出て行ってもいいですし」

これだけ深くにある岩盤だ。何の根拠もないが、さらに地下に穴を掘って外まで行くのであれば上には影響あるまい。

「いや」

僕の提案に、モスクは首を横に振った。

「ここは多分、底なんだろ? で、向こうにはなんかがある」

指さした先は、オレンジ色に光る廊下の先。まあ、何かがある……のと、何かがいるのは間違いないが。

「危ないかもしれませんよ」

「魔法使いが味方についている今、少々の危険は何とでもなんだろ。それに、 怯剣佳去(きょうけんかきょ) なんて言葉もある」

「知らない言葉ですね」

だけど、なんか聞き覚えある気がする。

「枕の下の剣を怖がってちゃ、美女は手に入んねえって意味らしい。昔、世話になった人が言ってた」

「……へえ」

一応、納得したような声を出す。多分、それは造語だろう。そんな気がした。

「最悪お前が逃げてもいいしな。命は大事にしろよ」

「自分を置いて逃げてもいいと?」

「当たりめえだろ。俺が死んでも誰もなんとも思いやしねえし」

ニヒとモスクは笑う。

多分その笑顔は、僕が見捨てないことも予想しているのだろう。本当に、惜しい人材だ。

だが、もはや僕には断るという選択肢はない。先ほどの醜態を償うためにも、笑い女に立ち向かいたいとも思っている。最悪逃げるけど。

「じゃ、行きましょうか」

「おう。お宝、あるといいな!」

一歩歩くごとに強まる熱と獣臭。

だが、僕もモスクも、その歩みが止まることはなかった。