軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

和睦

1566年夏

案内された部屋に入った輝虎は、肩に掛かる重圧を追い払うかのように、深く、長い吐息を漏らした。窓の外からは秋の虫の声が聞こえてくるが、その胸中は嵐のように荒れ狂っていた。

将軍・義輝、そして氏真から突きつけられた言葉は、輝虎が何よりも重んじてきた義という生き様を、根底から揺さぶるものであった。藤氏が亡き今、古河公方の正統は義氏に一本化された。その義氏を将軍が正式に認め、輝虎に関東からの撤兵を命じたのである。これ以上の抗戦は将軍家への反逆であり、自ら義を汚すことに他ならない。反論の余地は、もはやどこにも無かった。

しかし、これまで関東の秩序のために流してきた将兵たちの血はどうなるのか。ここで退けば、失われた数多の命は無に帰すのではないか。意地を張り、道理を曲げて戦を続けることが果たして義なのか。輝虎が暗い部屋で己の魂と対話していた、その時だった。

「弾正殿、少しよろしいですか」

落ち着いた、しかしどこか温かみのある声が響いた。氏真である。招き入れられた氏真は、いたたまれないような、申し訳なさそうな顔で輝虎を見つめた。

「弾正殿、そなたをこれほど苦しめる提案しかできず、誠に申し訳ない。公方様も、そなたの心中を深く案じておられました」

「…公方様が、私のことを気に留めておられたのか」

驚きと共に問い返す輝虎に、氏真は静かに頷き、言葉を継いだ。

「実は、公方様はこう仰っておられました。『関東のことは、古河公方と中将に任せておけばよい。悪いようにはならぬ。だが、越後はどうだ。北の守護は、弾正にしか務まらぬのだ』と」

その言葉が、輝虎の凝り固まった心を不意に解きほぐした。公方様は自分を突き放したのではなく、本来あるべき場所へ戻そうとしているのか。氏真は真っ直ぐな瞳で、さらに語りかける。

「弾正殿、そなたが真に守るべきは土地ではなく、そこに生きる民でしょう。上野の民は、この私が責任を持って守りましょう。どうか私と共に、平和の守護者となりませぬか。上杉と今川が手を取り合うことは、決して難しくないはずです」

関東への未練がすぐに消えるわけではない。だが、将軍に信頼され、朝廷を庇護する氏真と共に新たな日ノ本を見られるのであれば、それも悪くない。輝虎は一度深く息を吐き、憑き物が落ちたような顔で氏真を見据えた。

「わかりもうした。上杉は関東から兵を引こう。中将殿のこれまでの振る舞い、そして北信濃での見事な采配、信ずるに値する。…だが、北条を認めたわけではない。あ奴らへの疑念は今も晴れてはおらぬ。されど、ここは中将殿の顔を立てよう」

輝虎は改めて、今川との固い同盟を求めた。氏真はぱっと明るい笑みを浮かべ、その手を取った。義を重んじるがゆえに背負い続けてきた十字架から解放され、輝虎の胸には、雲一つない晴れやかな気持ちが広がっていった。

氏真という男は、底知れぬほど恐ろしい。氏政は、先の話し合いでの義弟の姿を思い出し、そんな戦慄を噛み締めていた。

常に周囲の情報を網羅し、自らが有利となると分かれば、瞬く間に逃げ場を失くして絡め取る。一見すれば、この停戦案は北条にとって得しかない。だが、氏真は信濃や甲斐から上野に出る。そこを足掛かりに下野、陸奥へと道が繋がれば、北条は完全に今川領という巨大な壁に囲まれることになる。自力での勢力拡大は、事実上不可能となるのだ。

「…だが、それで良いのではないか」

氏政はふと、一人呟いた。常陸まで手に入れば、北条は七国を領する巨大大名となる。周囲が全て今川領となれば、今川との関係さえ良好であれば他国から侵略される恐れも、背後を突かれる心配もなくなる。戦に明け暮れる日々から解放され、国を富ませる。氏真の用意した甘い罠と分かっていても、そこに飛び込む価値はある。

「義兄上、少しよろしいですか」

聞き慣れた声に扉を開けると、氏真が今川名産の透き通るような澄み酒を携えて立っていた。

「義兄上、わざわざ当主自ら足を運ばせてすまなかった。どうです、酒でも一杯。冷やしておきましたぞ」

差し出された杯を傾け、氏政は喉を鳴らした。洗練されたその味は、今川の力を象徴しているようだった。

「して、義兄上。此度の件、正直にいかが思う? 私とそなたの仲です、遠慮はいりませぬ」

「…正直に申せば、北条としてはありがたき申し出。上野からあの軍神がいつ攻めてくるかという恐怖には、何年相まみえても慣れるものではござらぬからな」

氏政の苦笑に、氏真も深く頷いた。

「そうでしょうなぁ。武力だけで言えば、あの方は日ノ本一かもしれぬ」

「ははは、そんな軍神を言葉一つで退ける中将には、到底敵わぬよ」

冗談めかして言う氏政に、氏真は少し困ったように眉を下げた。

「私は戦が得意ではない。実を言うと、奥で算盤を弾き、文を認めている方が心地よいのだ」

氏真の言葉に、心からの本意なのだろうと氏政は受け取った。

「北条は、今後も今川と刀を交えることは避けたいと考えている。安房と常陸を平らげたところで、我らは打ち止めだ。我らは常に、今川と共にある」

氏政の断言を聞き、氏真は心底ほっとした様子で「かたじけない」と答えた。今川を敵に回す愚は犯さない。北条の進むべき道は、この清らかな酒と共に、はっきりと定まったのである。

夜が明けて、再び躑躅ヶ崎館の大広間に集まった三者の顔は、昨日までの険しさが嘘のように、一様に晴れ渡っていた。かくして、日ノ本の歴史を塗り替える電撃的な当主会談は幕を閉じた。今川、北条、上杉。この三家が固い握手を交わした事実は関東和睦の誓いとして、すぐさま京の朝廷や将軍家、そして日ノ本全土へと高らかに宣言されたのである。