作品タイトル不明
威
1565年秋
季節が少し遡るが、夏のこと。伊勢神宮から、富士札に対する神宮の御印の使用について正式な許可が下りていた。そして秋の気配が色濃くなった今、信忠に依頼していた富士札の試作品がついに完成したため、氏真はそれを持参して朝廷へと参上していた。
御簾の向こうに鎮座する帝に対し、氏真は深々と平伏して挨拶を述べた。
「主上におかれましては、ご機嫌麗しく恐悦至極に存じます。本日は、日ノ本の経済を根本から安寧へと導くためのご相談に上がりました」
氏真は手元の文箱を開き、言葉を継いだ。
「この富士札なる紙の銭が日ノ本に行き渡れば、経済は円滑に回り、朝廷への献金も未来永劫安定し、ひいては皇室の権威付けにも深く繋がります。日ノ本の安定のため、この札に朝廷の御印である五七の桐紋をお貸しいただくことはできますでしょうか」
氏真は静かに、しかし熱を込めて語った。
「もしお貸しいただけるとなりましたら、この札を発行する額に応じて、桐紋費として、京の町に一定の額をお配りいたしたく存じます。これにより、御所の修繕や公家の皆様の暮らしも大いに潤うことでしょう。紙幣の安定が、すなわち京の安定に直結することと存じます。何卒ご検討いただきますれば幸いにございます。…こちらが、試作いたしました富士札となります」
女官を通じて、試作品の富士札が御簾の奥へと運ばれていった。
「偽造防止のため、極秘の特殊な染料や、熟練の職人による技術を使っております。紙幣の偽造は、神仏や伝統に対する侮辱であり、国家を揺るがす重罪とするつもりでございます。そのようなことが決して起こらぬよう、今川が責任を持ち、十分に注意して管理・流通させます」
しばらくの沈黙の後、御簾の向こうで衣擦れの音がし、帝の声が響いた。
「…ほう、これが。ただの紙と聞いておったが、随分と上質に見えるが」
「さすがにございます。主上のおっしゃるとおり、これは越前の最高級の和紙を使用しております」
氏真は胸を張り、しかし誠実に答えた。
「正直に申し上げますと、現状では製造に多大な費用がかかっております。しかし、悪貨である撰銭を世から無くし、重い銅銭や米を荷車で運ぶことなく、紙一枚で巨大な価値が流れる経済には、その製造費を遥かに上回る価値がございます。日夜研究を重ねておりますゆえ、偽造防止の技術がさらに進歩すれば、いずれは安価に、かつ大量に供給できるようになりましょう」
帝はしばらくその富士札を手に取り、感触を確かめ、透かしの富士や美しい辰砂の御印を眺めているようだった。やがて、静かな、しかし威厳に満ちた声が下された。
「…左様か。この件については、すでに近衛関白らから仔細を聞いておった。我が権威が民の安寧に寄与するというのであれば、我に異存はない。五七の桐紋、しかと用いるが良い。日ノ本の安定のため、よろしく頼むぞ」
その言葉は、天からの確かな言質であった。伊勢神宮の神威に加え、朝廷の公なる権威が、ついにこの紙切れに宿ったのだ。
「ありがたき幸せ。今川中将氏真、この身を日ノ本の安定のため、すべて捧げます」
氏真は畳に額をこすりつけ、深く拝命した。
これで準備は整った。東の富士、西の石山。そして天の朝廷と地の神宮。 すべての理を繋ぎ合わせた最強の武器が、間もなく日ノ本の市場へと放たれる。武力で血を流す時代は終わる。これからは、この一枚の紙が、すべての価値を決める新たな天下の始まりなのだ。
1565年冬
富士の麓、白糸の滝にもほど近い要害の地に、厳重な警備に守られた造幣所が完成した。富士信忠の管理下、選び抜かれた職人たちの手によって、日ノ本を変える紙が刷り上げられていく。今川が発行した富士札。それは当初、駿河の本拠における限定的な試験運用のつもりであった。
しかし、人々の反応は氏真の想定を遥かに超える速度で波及した。朝廷の五七の桐紋と伊勢神宮の御印―この双璧の権威が刻まれた紙切れは、民草や商人にとって、得体の知れない輸入銭よりも遥かに信頼に足る宝として受け入れられたのだ。
重い緡銭を持ち歩く煩わしさから解放された市場は、かつてない活況を呈した。この調子であれば、遠江、三河、そして尾張へと普及させるのは難しくないだろう。
氏真は、駿府の館で冬の澄んだ空を見上げ、確信した。これは経済という面での天下統一である。武力による平定は未だ道半ばなれど、中央の経済を掌握し、朝廷の権威を盤石なものとした今川の力は、すでに旧来の大名の枠組みを超越しつつあった。
相模、北条家
北条氏政は、父・氏康の補佐を受けつつ、関東制圧という重責を担っていた。その若き当主の元にも、駿河で始まった富士札の噂は即座に届いた。
「父上、今川の中将殿がまた新たなことを始めたようです」
氏政は、手にした富士札の写しを氏康に差し出した。
「この札、今川領内で浸透すれば、望む望まぬに関わらず、我が北条の領内にも流れ込むでしょう。であれば、後手に回るよりは、早々に今川に我らも使わせてもらうよう声をかけるべきかと存じます。それこそが、今川家内での北条の立場を高めることにも繋がりましょう」
老練な氏康は、息子の言葉を静かに聞き届け、その札を鋭い眼光で見つめた。
「…一度これを受け入れれば、北条は二度と今川の支えなくして立つことはできなくなるぞ。それは同盟国というよりは、実質的な属国に近づくことを意味する。それを承知の上での進言か?」
氏政は迷うことなく頷いた。
「承知の上でございます。すでに火薬や石鹸、治水技術に至るまで、今川なくして北条の繁栄はありませぬ。ならば、属国化を恐れて機を逃すより、早い段階から最も頼れる同盟国として手を組み、その不可分な関係を日ノ本に見せつける。それこそが、荒れ狂うこの時代を北条が生き残る道ではございませぬか」
「あいわかった。ならば、儂が権中納言殿を通してその旨を伝えよう。北条の未来、貴殿の目に賭けてみるのも悪くはあるまい」
北条は、経済という名の巨大な渦に、自ら身を投じる決断を下したのである。
阿波、三好家
三好長慶という巨星が堕ちた後、若き当主・長治を支える安宅冬康は、常に薄氷を踏む思いで政務にあたっていた。家中の混乱や隣国の浸食を想定していた冬康だったが、事態は意外な方向へと落ち着きを見せていた。
「…さすがは天下に名高い今川の中将様だ。葬儀に参列し、後見を公言してくださったおかげで、三好の家中も周囲の虎狼どもも、今のところは鳴りを潜めている」
冬康は安堵のため息を漏らしたが、その視線の先にある文には、今川の新たな動向が記されていた。
「今川領では富士札なる通貨が誕生したという。重い銭を運ばずとも年貢が納められ、その価値は富士の蔵に眠る金銀、そして朝廷と伊勢神宮の御印によって保証されている…。日ノ本の二大権力を背景に据えるとは、中将様の策、まさに次元が違う」
冬康は、三好家の生き残りをかけ、深く思考を巡らせた。
「私はあくまで当主を支える身。だが、ここで今川家に追従すべきだと強く提言せねばならん。このままでは三好は今川の属国も同然になるが、その中でも必要な存在と思わせねばならぬのだ。それに、石山に建設中のあの大規模な港…将来的にあそこでの取引が富士札のみに制限されれば、阿波はたちまち飢えることになる。早めに今川の勢力圏、その最深部へ加わるのが吉だろう」
海を司る安宅冬康は、今川という巨大な船が作り出す潮流をいち早く察知し、その傘下に入る覚悟を固めていた。
越後、上杉家
越後の龍、上杉輝虎は、雪に閉ざされた城内で、届いた報告書を読み上げ、愉快そうに声を上げた。
「ふふ、ふははは! 中将殿は、誠に面白い御仁だ」
傍らの直江大和守景綱が不審げに顔を上げる中、輝虎は愉快でたまらないといった様子で続けた。
「朝廷や伊勢神宮といった古き権威を尊び、守り抜くと見せかけて、その実、経済という新たな力で天下を搦め取ろうとはな。最も保守的でありながら、最も革新的。これほど矛盾し、これほど理に適った男を私は他に知らぬ」
輝虎にとって、氏真は数少ない話の通じる友であった。その行動原理には常に義と理がある。
「もし北条と今川に同盟関係がなければ、俺はすぐにでも中将殿と手を結んでいただろう。朝廷を尊崇し、幕府を保護し、法度を遵守する。それこそが、武士のあるべき姿よ。…だが、関東の事を考えれば、今は今川と結ぶことは叶わぬ」
輝虎の表情に、わずかな寂寥感が漂う。
「今川と結べば、間接的に北条とも敵対できなくなる。それでは関東の諸将を救うための大義が立たぬ。北条さえいなければ…中将殿と共に、この乱世を終わらせる夢も見られたものを」
義に生きる龍は、氏真の才を認めつつも、己が課した宿命ゆえに、その手を握れぬもどかしさを酒と共に飲み干した。
安芸、毛利家
毛利元就は、老いたとはいえ、その眼光の鋭さは少しも衰えていなかった。彼の傍らには、後に両川として次代を支える吉川駿河守元春と小早川左衛門佐隆景が控えている。
「…今川の作った富士札、か。恐ろしきことを考える者がおったものよ」
元就は皺の寄った手で、密偵が持ち帰った富士札の情報を撫でた。
「この札という名の波は、いつか必ず山陰山陽にも流れ込む。その時、毛利にとって東を守る盾となるか、東で拒む壁となるか…」
元就は遠い空を見つめた。
「儂はおそらく、その頃にはこの世におらぬ。お前たちが、毛利を導かねばならんのだ。…だが、決して見誤るな。時代の波を、風を読み誤るなよ。今川に付けとも、付くなとも言わぬ。だが、どちらを選ぶかが毛利という家の命運を決める最大の分岐点となろう」
父の言葉の重みに、元春と隆景は無言で平伏した。西国の雄・毛利にとって、富士札という名の小さな紙切れは、もはや無視し得ない巨大な脅威の先触れとして映っていたのである。