軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

改心

1564年秋

「…またか」

氏真は、月明かりに照らされた庭先を見下ろし、小さく嘆息した。茶歌会の興奮も冷めやらぬ数日後の深夜である。屋敷の静寂を破ったのは、人の悲鳴ではなく、鋭い鷹の啼き声と、唸るような犬の咆哮であった。

庭の茂みから引きずり出されたのは、黒装束に身を包んだ数名の男たちだった。彼らは一様に衣服を引き裂かれ、手足からは血が滲んでいる。空からは信長が遣わした鷹が目を光らせ、地では義信が送った甲斐犬が逃げ道を塞ぐ。

堀も塀もないこの屋敷は、一見すれば無防備な平屋に過ぎない。だが、その実態は、獣の五感が支配する狩り場であった。

「して、何処の者だ」

氏真が問いかけると、捕縛された男たちは観念したように目を伏せた。調べれば、彼らは甲賀の者たちであった。近江の六角承禎、義治親子の差し金であろう。

本来であれば、忍びなぞその場で斬り捨てるか、拷問にかけて情報を吐かせるのが定石だ。だが、氏真は傍らに控える一益に目配せをし、縄を緩めさせた。

「お前たち、このまま帰ればどうなる」

男の一人が、震える声で答えた。

「…任務失敗は死。口封じに消されましょう」

「だろうな。六角は今、疑心暗鬼の塊だ。戻れば間違いなく首が飛ぶ」

氏真は屈み込み、男たちの目を見据えた。

「ならば、今川で働かぬか」

その言葉に、男たちは虚をつかれたような顔をした。小姓たちが「殿、それは危険です!」と慌てて制止しようとするが、氏真は片手でそれを制した。

「六角の情報を流せとは言わぬ。家を捨てる必要もない。だが、家に捨てられるくらいなら、生きるために働け。…今川は、生きようとする者に銭と場所を与える」

忍びたちの目に、涙が浮かんだ。彼らは道具として扱われることに慣れきっていた。失敗すれば廃棄されるだけの存在に、敵の総大将が、生きろと手を差し伸べているのだ。彼らは額を地面に擦り付け、咽び泣いた。

「…ありがたき、お言葉…! この命、精一杯使わせていただきまする!」

氏真は満足げに頷くと、彼らを一益に預けた。

「彦右衛門、お前の下で鍛え直してやれ。警備の目は多いほうがいい」

「はっ。…殿の甘さには呆れますが、彼らの忠誠は本物になりましょう」

塀や石垣がなくとも、城は守れる。むしろ、物理的な壁がないからこそ、人は知恵と獣の力を使い、そして情という見えざる壁で敵を取り込むことができる。数人の忍びの命を救ったことは、堺中に広まるだろう。

今川の屋敷は、忍びすらも改心させる。と。それは、いかなる堅牢な石垣よりも、侵入者を躊躇させる防壁となるはずだ。

時を同じくして、北陸と河内から早馬が届いた。内容は、氏真が描いた通りの吉報であった。

「能登畠山家、ならびに河内畠山家、当主以下重臣一同、捕縛。抵抗する勢力は瓦解いたしました」

報告書に目を通しながら、氏真は安堵の息を吐いた。どちらの戦場でも、今川軍の損害は皆無に等しい。

名門・畠山家は、武力で敗れたのではない。借金を踏み倒し、あろうことか内紛に明け暮れた。という醜態を晒し、自壊したのだ。

氏真は即座に、京を含めた全土に高札を立てさせた。

『畠山家は、借りた銭も返さず、民を顧みず私闘に及んだ。これは名門の風上にも置けぬ所業である。よって今川が、天に代わりて粛清を行った』

これは侵略ではない。債権回収であり、治安維持活動であるという大義名分を、徹底的に喧伝したのである。

能登の処置は迅速に行われた。当主や腐敗した重臣たちは、例外なく処断された。彼らに情けをかける余地はない。そして、空白となった能登の領管には、義信を任命した。

「太郎、能登はただの領地ではない。北の海を統べる要だ」

氏真の命を受け、義信は直ちに水軍の組織化に着手した。

ただし、かつてのように一族だけで固めることは許さない。内応した長氏の水軍、九鬼水軍、そして駿河の今川水軍。これらを混成させた複数の隊列を組ませ、相互に監視と競争を促す。その上で、最高責任者として義信に指揮権を与えた。

長氏の独断で水軍が私物化されることを防ぐための、万全の布陣である。

これにより、今川の物流網は劇的な進化を遂げた。北は能登から、加賀、越前、若狭を経由して京へ。南は駿河から、遠江、三河、伊勢、紀伊を経由して石山へ。日本海と太平洋。日ノ本を囲む二つの大海路が、今川の手によって完全に掌握されたのである。

「これで、北の海産物も南の木材も、すべて今川の船で運ばれる。銭の流れは、もはや誰にも止められぬ」

越後の上杉輝虎へは、丁重な礼状と共に、大量の最高級酒を贈った。

『越中の皆様のご協力のおかげで、無事に朝敵を討伐できました。感謝いたします』

本来なら越中への干渉を警戒されるところだが、朝敵討伐という美名と、輝虎好みの酒、そして、越後は攻めないという暗黙の了解が、越後の龍を大人しくさせていた。

一方で、畿内は大騒ぎである。 河内と紀伊に跨っていた畠山領が消滅したことで、隣接する大和国の国人たちが恐慌を来したのだ。

「次は我らか」と怯え、筒井藤次郎順慶をはじめとする大和の勢力が、我先にと今川への接触を図ってきている。 だが、彼らの要求は領土の安堵ばかりだ。

「…まだ、分からぬか」

氏真は彼らからの書状を机の端に追いやった。 彼らは古い権威にすがり、既得権益を守ることしか考えていない。

今川が求めているのは、土地の支配者ではなく、経済圏の一部として機能する実務者だということを、理解できていないのだ。

「適当にあしらっておけ。返事は無用だ」

時代に適応できぬ者は、放っておけば勝手に枯れる。今は相手をする時間すら惜しい。

人材の配置も見直した。河内で辣腕を振るった岡部元信には、一時帰休を兼ねた辞令を出した。

「丹後守、ご苦労だった。しばらく東海の警備を頼む」

実家に近い場所への配置転換である。信濃に河内と働き詰めだった彼に、故郷の近くで羽を伸ばさせてやりたいという、氏真なりの配慮であった。

そして、信長である。能登攻めから戻った彼は、河内の飯盛山城を新たな居城とした。かつて三好長慶が拠り所とした名城だが、信長はここを要塞としてではなく、己の別邸のように扱っている。

「ここから中将の危機を見張ってやる」

そう嘯き、最小限の兵だけを置き、あとは連日のように鷹狩りや幸若舞に興じているという。

世間は彼を魔王と呼ぶが、その素顔は極めて文化的な趣味人だ。飯盛山城の風光明媚な景色を愛で、暇を見つけては堺の氏真の元へ遊びに来る。

「中将、また面白い茶器が入ったそうだな」

「三郎、耳が早いな」

まるで年の離れた兄弟のように、茶を酌み交わし、文化を語る。信長にとって、氏真との時間は、乱世の緊張から解き放たれる貴重なひとときとなっているようだった。

若狭の領管には、小原肥前守鎮実を任命した。丹波、丹後と国境を接する若狭は、決して安泰な土地ではない。

その上、旧武田家の家臣たちは軒並み再教育行きとなり、実務を行える者が皆無という有様だ。 造船所の建設、港湾整備、そして杜撰だった行政の立て直し。仕事は山のようにある。だが、小原は不満を言うどころか、目を輝かせて頭を下げた。

「殿。これほど重要な、やりがいのある地を任せていただき、感謝の言葉もございませぬ」

難題を好機と捉え、喜々として任地に赴く家臣。その背中を見送りながら、氏真は胸の奥が熱くなるのを感じた。

腐敗し、内紛で自滅した畠山や若狭武田の家臣たち。対して、困難を厭わず、新しい国創りに邁進する今川の家臣たち。

「私は、なんと恵まれていることか」

人材こそが、最強の石垣であり、最大の宝だ。日本海と太平洋を繋ぐ航路。そして、それを支える忠実な家臣たち。天下への道筋は、もはや揺るぎないものとなっていた。