作品タイトル不明
困難
1564年夏
検地官僚からの報告書が山積みになった岸和田城の一室で、今川氏真は汗を拭いながら、大きく息を吐いた。
「…現実は、地図の上のように綺麗ではないな」
自らの足で河内、和泉、摂津の村々を回り、あるいは山城の関所を視察して痛感したのは、改革への壁の厚さであった。 正直に言えば、駿河や遠江で行ってきた施策をそのまま当てはめるのは、極めて困難と言わざるをえない。
これまでの領土拡大は、戦で勝ち取り、あるいは向こうから救いを求めてきたケースが大半だった。故に、民は新しい支配者による変化を歓迎し、あるいは敗者として受け入れてきた。
だが、この畿内は違う。三好家からの平和的な禅譲である。 民や国衆にしてみれば、昨日までと今日で何が変わったのか、実感がない。「今まで特に困っていなかったのに、なぜ変える必要があるのか」という、無言の、しかし強固な抵抗感が土地全体に根を張っていた。
「関所の多さ、寺社の武装、そして村々の過剰な自衛能力…。まるで全身に棘を生やしたハリネズミだ」
長年の戦続きで、幕府の威光は地に落ち、民は自らの命と財産を自ら守るしかなかった。村ごとに堅固な自警団が組まれ、他所者を排除する。その維持のために農業がおろそかになり、貧困に喘ぐと、今度は権力を持つ寺社に駆け込み、高利貸しの借金で首が回らなくなる。
駿河でもかつて見た光景だが、その規模と根深さは桁違いだった。急速に改革を進めれば、必ず軋轢を生む。一揆の火種になりかねない。
「だが、ここで手をこまねいていては、三好から引き継いだ意味がない。…絡まった糸は、太い剣で断ち切るのではなく、新しい糸を紡いで覆い隠すしかないか」
氏真は、側近の光秀と藤吉郎、そして評定衆を招集し、壮大な畿内改造計画を立ち上げた。
「まず、村々の自警団についてだ」
氏真が地図上の村々を指す。
「彼らに武器を置けと命じても無駄だ。治安が悪いと信じている限り、彼らは鍬より槍を持つ。ならば、その暴力を私が買い上げよう」
氏真の策は、逆転の発想だった。 村の自警団を解散させるのではなく、希望者を直轄軍として正規に雇用してしまうのである。
「今川公認の治安維持部隊として給金を払う。彼らに現金収入を与え、村の守りを公的なものにするのだ。そうすれば、村は自前で自警団を養う必要がなくなる。即座に全員が武器を置かずとも、割に合わない自衛より米作りや出稼ぎの方が豊かになれると気づけば、自然と村の空気は変わる」
河内には広大な平野が広がっている。無益な警戒に精力を費やすより、米を作ることに集中させれば、この地は本来の生産力を取り戻すはずだ。
「同時に、今までと同様に寺社の特権を削ぐために、我らが救いを提供する。施薬院を作り、直営の低金利貸金所を設け、誰でも学べる学問所を建てる。寺に頼らずとも、病が治り、銭が借りられ、文字が学べる。…民が寺を必要としなくなれば、寺の武力など無用の長物となる」
寺社との折衝は骨が折れるだろうが、これは信教の自由を犯すものではない。ただ、信仰以外の既得権益を国家が回収するだけのことだ。
次に氏真が筆を入れたのは、街道と港湾である。
「畿内は関所が多すぎる。数里進むたびに銭を取られていては、商いなどできぬ。既存の道を直すのではなく、関所を一切置かない今川街道を通す」
陸路で、大型の荷馬車がすれ違えるほどの道幅を持つ、今川規格の街道を整備する。
「これには人も銭も、莫大な時間がかかる。だが、関所のない道ができれば、物流の速度は数倍に跳ね上がる。…労働力には、領内にあふれるあぶれ者や浪人を使え。彼らに仕事を与え、銭を流すのだ」
そして、視線は海へと移る。石山本願寺の門前に広がる海、今の大阪湾である。
「石山近辺の港湾をすべて今川管理とし、大型船が直接入れる大規模な荷揚げ所を作る。…本願寺には再興を認めたが、あくまで信仰の場としてだ。それ以外の権利はすべて取り上げる」
ここを整備すれば、駿河から紀伊、そして瀬戸内海へと続く海の道が太く繋がる。造船は紀伊の堀内氏に、海上護衛は九鬼と雑賀衆に任せる。彼らの技術と武力を、平和利用のためのインフラとして組み込むのだ。
だが、ここで最大の問題となるのが堺の存在である。 日本最大の自治都市・堺。彼らのプライドと既得権益は、畿内随一の障壁であった。
「十兵衛。堺の会合衆を呼べ。交渉だ」
呼び出された今井宗久や津田宗及ら、堺の代表者たちに対し、氏真は単刀直入に切り出した。
「単刀直入に言おう。石山の港を大拡張し、日ノ本中の物流拠点はそこへ移すつもりだ」
商人たちの顔色がさっと変わる。石山に巨大な港ができれば、目と鼻の先にある堺の地位は相対的に低下する。
「だが、堺を潰したいわけではない。そなたらの知恵と経験は必要だ。…そこで提案だ。堺の中だけで小銭を集めるような座の特権を捨て、楽市楽座と桝の統一に協力するなら、新しい石山港の管理運営の一角に加えてもいい」
氏真は、甘い蜜と猛毒を同時に皿に乗せて差し出した。
「もし断れば…私は石山の門前に、今川公認の巨大市場を開く。そこでは座の税は一切なし、関税もなし、今川の物流網を使った格安の品が山のように並ぶ。…さて、そうなれば堺の商人はどう動くかな? 客も商人も、安くて便利な方へ流れるのが世の理だと思うが」
堺の経済が崩壊するのは、氏真の本意ではない。だが、彼らが変わろうとしないなら、市場原理で淘汰するまでだ。
「手を取り合って、共に豊かになろうではないか。…日ノ本全土という、かつてない規模の市場が手に入るのだぞ」
利に聡い彼らが、この計算を間違えるはずがない。堺は、自治という名の殻を破り、今川経済圏の中枢都市へと脱皮することになるだろう。
最後に、氏真は淀川水系を指差した。
「石山の港ができれば、そこに続く淀川の治水と整備も行う。…重要なのはここだ」
指先が止まったのは、大和川と淀川の合流地点、そして大和国への入り口である。
「ここを今川が完全に握るということは、大和への物資の流入を、我々のさじ加減一つで調節できるということだ」
現在、大和では松永久秀亡き後、筒井氏らが主導権争いを続けている。だが、彼らの命綱である物流を今川が握ればどうなるか。
「陸路のほとんどは今川領に通ずる。その上、河川も使えないとなれば、大和国内はたちまち干上がり、疲弊する。戦わずして、彼らは今川に降るしかなくなるだろう」
兵を動かして血を流す必要はない。物流を止めれば、剣など役には立たないのだ。これが、氏真の描く現代的な攻城戦であった。
会議を終え、窓から夏の夕暮れを見つめる氏真の横顔には、珍しく疲労の色が滲んでいた。
「直轄軍の採用、道の整備、港湾拡張、堺との交渉、そして淀川の治水…。やることは山積みで、湯水のように銭と時間が消えていくな」
光秀が、心配そうに声をかける。
「殿。これほどの改革、実を結ぶには相当な歳月が必要です。家臣の中には、成果を急ぐあまり焦りを感じる者も出るやもしれませぬ」
氏真は頷き、しかし力強い目で光秀を見返した。
「ああ、分かっている。軌道に乗るまで三年。富を生み始めるのは、さらに三年はかかるだろう。…だが、これは投資だ。畿内での今川の統治を、上辺だけでなく骨の髄まで浸透させるには、この道は避けて通れない」
六年後の畿内は、今の誰もが想像できないほどの繁栄を極めているはずだ。 泥にまみれ、汗を流し、銭を計算する。暗君と呼ばれた男の戦いは、華々しい合戦場ではなく、この地味で壮大な建設現場にこそあった。
「さあ、始めようか。新しい国造りを」
氏真の号令とともに、畿内の大地が、重く、しかし確実に動き始めた。