作品タイトル不明
懸け橋
1564年夏
初夏の風が琵琶湖のさざ波を揺らし、新緑の香りが西近江の街道を駆け抜ける頃。畿内に入り、統治の基盤を固めつつあった氏真のもとに、新たな吉報が舞い込んだ。 近江の平井定武を通じて、西近江の有力国衆連合、高島七頭が、今川への従属を申し出てきたのである。
「高島七頭か。…将軍家とも縁が深く、あの朽木谷を擁する者たちだな」
氏真は、近江の精細な地図を指でなぞった。高島、朽木、永田といった面々は、名門・佐々木家の流れを汲む誇り高き国衆である。かつて将軍・義輝が政争に敗れて京を追われた際、身を隠したのがこの西近江の朽木谷であった。彼らは長年、幕府の守護者としての自負を持ち続けてきた存在である。
氏真は、彼らに対して極めて今川流な条件を提示した。
「彼らには家名の保全と地名の継続を約束し、相応の給金を与える。ただし、土地からは離れてもらう。一族の主だった者たちには、駿府、一乗谷、京の三箇所に分散して住まいを構えさせ、公家のような優雅な暮らしの中で、今川の文化振興を支える象徴となってもらいたい」
これは事実上の国替えであり、土地と武士を引き離す兵農分離の徹底である。本来ならば激しい反発が予想されるが、氏真は給金と文化的名誉を提供することで、彼らの意地を傷つけることなく牙を抜いた。もとより常に近隣を窺い、しぶとく生存をしてきた者たちだ。武力で敵わぬ敵に歯向かうよりも、生存の重要性を理解しているだろう。
「地侍たちについては、そのまま琵琶湖の湖上警備や、街道整備の管理者として今川が直接雇い上げよう。彼らの武勇と土地勘は、物流の安全を守るために使わせてもらう」
この沙汰により、西近江一帯は今川の直轄地として組み込まれることとなった。近江領管である朝比奈泰朝に、この地域の統治も併せて任せることに決定する。
「これで、琵琶湖の全周は今川の手に落ちた。…もはやこの湖は、今川の内海だ」
泰朝の手腕により、琵琶湖の物流はこれまでにない速度で加速し始めた。駿府、一乗谷、京。この文化三都市を結ぶ人、物、情報の流れは、琵琶湖という巨大な水上回廊を得たことで、かつてない活発さを見せ始めた。西近江の山々から切り出される良質な材木や、北陸から運ばれる物資が、滞りなく都へと流れ込む。
高島七頭の面々は、慣れ親しんだ土地を離れる寂しさはあれど、提供された絢爛豪華な都の屋敷と、生存が約束された安寧な日々に、次第に今川の理を確信するようになっていった。
武力でねじ伏せるのではなく、より良い生活という現実で飲み込む。氏真の統治は、静かに、しかし確実に近江の景色を変えていった。
西近江が静かに今川に染まっていく一方で、四国・阿波では、日ノ本の行く末を決定づけるもう一つの儀式が行われようとしていた。 氏真の妹・隆福院と、三好長慶の養嗣子・千鶴丸の婚儀である。
氏真は、自らも紀伊から海を渡り、阿波へと足を踏み入れた。隆福院には、今川の国力を象徴するような大量の嫁入り道具と、破格の化粧料が持たされた。その行列の長さは、阿波の民を驚かせ、「まるで帝の姫君のお輿入れのようだ」と噂された。
氏真は、飯盛山城で対峙した時とは打って変わって、柔和な表情で三好家の人々と接した。 盛大な婚儀の後、氏真は長慶、冬康、そして若き夫婦である千鶴丸と隆福院と膝を交えて語り合った。
「修理大夫殿、摂津守殿。阿波の暮らしはいかがですかな。体調に変わりはございませんか? 困ったことがあれば、何なりと言ってくだされ」
長慶は、穏やかに目を細めた。
「中将殿…おかげさまで、阿波の風は心地よく、心身ともに休まっている。千鶴丸も、このような素晴らしい姫君を迎えられ、三好の家も安泰でござろう」
氏真は、少し緊張した面持ちの千鶴丸に向き直った。
「千鶴丸殿。これにて今川と三好は、ただの同盟国ではなく家族となった。妹は駿河の暖かい地しか知らぬゆえ、この阿波の暮らしに慣れぬ点もあろう。どうか、よろしく頼む。困ったことがあれば、遠慮なく私に言ってくれ」
「は、はい! 必ずや藤殿を幸せにいたします!」
初々しい千鶴丸の返事に、一同から和やかな笑いが漏れた。
氏真は隣に座る隆福院に優しく語りかけた。
「藤。三好家は我が今川と同様、文化を重んじ、志を同じくする気高い家だ。夫となる千鶴丸殿を支え、仲良くやるのだぞ。…そなたの幸せが、東と西の懸け橋となるのだからな」
隆福院は、少し照れたように、しかし凛とした声で「はい、兄上」と答えた。
この婚儀は、単なる政略を超えた意味を持っていた。氏真は、若い二人の姿を通して、三好の家臣たちにも、今川は三好を切り捨てるつもりはないという強いメッセージを送ったのである。 氏真のその姿勢は、三好家中の警戒心を解き、真の信頼関係を築くための氏真なりの演出でもあった。
かくして、三好家と今川家は、血の絆によって固く結ばれた。阿波、淡路、讃岐、そして伊予の一部。四国の主要部を有する三好家は、今川という巨大な後盾を得たことで、四国の安定を目指し、民を富ませ、土地を耕す名君への道を歩み始めたのである。
「戦のない世、か。…修理大夫殿と我らでその景色を作っていこうではないか」
氏真の言葉に、長慶は深く頷いた。瀬戸内海の穏やかな海原を眺めながら、氏真は確信していた。この結びつきがある限り、西から今川を脅かす火種は生まれない。日ノ本は今、これまでにない巨大な安定の弧によって包まれようとしていた。
西の三好、東の今川。二つの龍が手を取り合ったことで、戦国の夜明けは、いよいよその光を強めていくこととなる。