作品タイトル不明
胃薬と一皿と私
「リーナさん、いらしてたんですね」
厨房の方から、白い帽子とエプロン姿のフリッツが顔を出した。
「こんにちは、フリッツさん」
「いらっしゃいませ。今、アードフェストの話をされていましたか?」
フリッツは向かいのテーブルの椅子を引いて腰を下ろした。
「……もう、そんな時期なんですね」
フリッツの表情が曇った。
「フリッツさんも最終日のお料理、出すんですよね?」
「ええ、毎年。今年の私はいつも通り作るだけですから……リーナさん、今年の『一皿』頑張ってくださいね」
「え? あ……はい。やっぱりフリッツさんもご存じですよね」
「リーナさんの今年のご活躍なら、選ばれるのは当然だと思っていましたから。……正直に申し上げると」
フリッツはローラが運んできたカップを受け取り、視線を落とした。
「ほっとしました。ええ、そりゃもう心の底から」
「はい?」
「あれは本当に、胃が痛くなるんです。広場の真ん中で、領主さまも騎士団の皆さんも、街の人たちもみんなが見ている前で出すんですよ。それを思うと……うぅ、胃が……。今年は違うのに思い出し胃痛が……」
「フリッツさん、『一皿』出す年は、一週間前からご飯が全然食べられなくなってたもんね」
「ろ、ローラさん! それは言わないお約束というやつですよ!」
フリッツは慌てたように、人差し指を口元に当てて「しーっ」とローラを制した。
(さっきローラから胃薬が必要なくらいとは聞いてたけど、こんな立派な宿屋の料理人であるフリッツさんですら、本当に胃を押さえてる……っていうか、あれ? それを言ったら私も明日は我が身じゃない!? ……なんだかこっちまで胃がキリキリしてきたような気がするよ)
「しかもね、リーナ。フリッツさんってば、出す料理が決まっても今度は盛り付けで悩み始めちゃうのよ」
「盛り付け……」
「そう! 去年なんて、お皿の上のソースの垂らし方が気に入らないとか言って、夜中まで何十回もやり直してたんだから。お肉の角度をちょぴっと変えてみたりとか、付け合わせの野菜の配置を直したりとかさ。しまいには『こんなのでは秋の訪れを表現できない! もうダメだ』って頭抱えちゃって」
「ロ、ローラさん! もういいですから!」
顔を真っ赤にするフリッツをリーナはまじまじと見つめた。
あの圧倒的な盛り付けのセンスは、こうした極限のプレッシャーと、納得のいくまで繰り返された試行錯誤の中で磨かれてきたものだったのか。
(……なんて、かっこいいの)
「でも――終わってみれば、楽しかったんですよね。不思議なもので、あんなに苦しかったのに、料理を出した瞬間にみんなが身を乗り出すようにして覗き込んできて、ひと口召し上がっていただいた後の顔を見たら……ああ、やってよかったって」
照れたように目を逸らすフリッツ。
「……だから、リーナさんなら大丈夫ですよ。あなたの料理は、食べた人を夢中にさせ、幸せにしますからね」
そんなふうに言ってもらえるなんて。リーナ自身、まだまだだと思うけど、いつかその言葉に胸を張れる料理人になりたい。
「ありがとうございます! フリッツさんにそう言ってもらえると、なんだか勇気が出ます」
「あ、そうだフリッツさん」
ローラが思い出したように手を打った。
「仕込み、大丈夫?」
「――いけない! すっかり忘れていました! 肉を休ませる時間が終わってます!!」
フリッツが弾かれたように立ち上がった。さっきまでの穏やかさが嘘のように、慌てて厨房へと向かっていく。
「いってらっしゃーい」
ローラの呑気な声を背中に受けて、フリッツは振り返りもせず厨房に消えていった。
残されたリーナとローラは顔を見合わせ、ぷっと噴き出した。
「フリッツさん、いつもああなの?」
「うん。スイッチ入ると周り見えなくなるの。でもね、あの慌てっぷりで毎回ちゃんと美味しいもの出してくるから、すごいよね」
えへへ、と笑うローラは嬉しそうだ。自分の家の料理人を誇りに思っているのが伝わってくる。
お茶を飲み干して、リーナは立ち上がった。
「そろそろ戻るね。私も仕込みがあるから。あっ、そうだローラ。ルークさんから聞いたんだけど、アードフェストの日、一緒に回ろうね!」
「兄さん、ちゃんと伝えてくれたんだ。うん、絶対一緒に回ろうね!」
カゴを持って金の麦穂亭を出ると、日差しが傾き始めていた。
街路樹が黄色く色づいて、落ち葉が足元にも散っている。
日本の秋っていうと真っ赤な紅葉を思い浮かべるけど、この街の秋は黄金色だ。焦げ茶色の木組みに白い漆喰の壁、そこに黄色が重なっている。
リーナは足を止めて、しばらくその景色を眺めていた。
(私は、私らしく……この街の秋を……)
リーナはカゴをぎゅっと握り直すと、自分の店へと足早に歩き出した。