作品タイトル不明
いつもと違う、いつもの店
水しぶきが光を反射する噴水の音だけが、二人の間を流れていた。
その穏やかな静けさを破ったのは、唐突な声だった。
「わああああああ!」
次の瞬間、周囲から割れんばかりの歓声が上がった。
リーナが驚いて顔を上げると、いつの間にか噴水広場は黒山の人だかりに囲まれていた。
「おめでとう!」「いやあ、いいもん見せてもらったわ」 見知らぬ人々からの直接的な祝福が、次々と飛んでくる。リーナは、自分の頬に一気に熱がのぼっていくのを感じた。
「わしも若い頃はあんな感じだったなぁ」
「……俺も嫁さんに最近ちゃんと言ってないな。帰ったら伝えよう」
口々に投げかけられる祝福の言葉。好奇と好意が入り混じった視線が四方八方から突き刺さる。
隣を見れば、ジュードも耳たぶまで赤い。それでも彼は離れず、誇らしげに群衆へ声を張った。
「あ、ありがとうございます!」
わずかに上ずった声だった。
「俺たちの気持ちが通じ合えたことを、こうして皆さんに知ってもらえて……本当にうれしいです!」
(……え、なんでそんなに堂々としてるの?)
広場の熱気と全方位から注がれる視線、その中心に立っているという事実に耐えきれず、リーナはジュードの袖を無意識に引く。
「ちょっと……恥ずかしいかも」
彼の袖を引いたまま、リーナはうつむき加減に呟いた。小さくそう告げてから、慌てて顔を上げ彼の瞳をまっすぐに見つめ返す。
「あ、でもジュードのことは好き」
ジュードが勢いよく振り向いた。
「……リーナ」
みるみるうちに頬が染まり、さらに赤みが増していく。
「あらあら」「まあまあ」と、周囲から再び生温かい声が飛んだ。
「いいわねぇ、若いって」
限界はとうに超えていた。頬の熱は最高潮だ。
「に、逃げよう!」
「え?」
「逃げる!」
リーナはジュードの手を掴み、人垣の薄い方へ駆け出した。
ジュードは一瞬目を見開いたが、すぐに笑顔になる。
「ああ、逃げよう」
二人はしっかりと手を繋いだまま石畳を蹴り、噴水広場を駆け抜けた。
背後からは「頑張れよー!」「お幸せに!」という温かな笑い声と拍手が追いかけてくる。振り返る余裕もなく、ただ走った。
互いの弾む息遣い、耳元をかすめる風の感触、そして手のひらに伝わる確かな温もり。それだけが現実を強く知らせてくる。
やがて二人は「アンナの食卓」へ辿り着いた。リーナが鍵を開け、店内へ滑り込む。
背後で扉を閉めると、カチャリと金属音が響き、外の喧騒がすっと遠のいた。店内に静けさが戻り、二人の荒い息遣いだけが聞こえる。
顔を見合わせた途端、どちらからともなく笑いがこぼれた。恥ずかしさも、嬉しさも、胸いっぱいの高揚も、全部が混ざり合って、ただ笑うことしかできない。 ようやく笑いが落ち着き、リーナは深く息を吐いた。
「お茶、淹れる?」
「ああ。お願いします」
ジュードがいつもの席に腰を下ろすのを見届けてから、リーナは厨房へ入り、お湯を沸かす。
いつもと変わらない店の風景。
いつもと変わらない湯の沸きはじめる音。
けれど、決定的に違っているものがあった。
背中に向けられる熱のこもった視線に気づき、リーナは振り返る。穏やかで、それでいてどこか熱を帯びた瞳でジュードが見つめていた。その視線に射抜かれ、リーナの頬が再び熱を持つ。隠すように少し俯きながらも、笑みがこぼれるのを止められない。
リーナは二人分のカップを用意し、静かに湯を注いだ。湯が注ぐ音しかしないその間も、ジュードの視線は外れない。
「はい、どうぞ」
差し出した湯気越しにジュードが微笑む。その穏やかな表情に、リーナも自然と口元がゆるんだ。
こうして向かい合って笑い合う時間が、今日から違う意味を持っていく。リーナはカップのぬくもりを確かめるように指を滑らせた。