作品タイトル不明
噴水前で
昼営業の準備をしながら、リーナは何度も深呼吸をしていた。
(考えてもしょーがない。来たら来たで、その時考えることにしよっと)
営業開始の時間になり、扉の鍵を開けた。
昼営業が始まって、しばらく経った頃。
リーナは厨房で手を動かしていた。定食を次々と作り、客に運ぶ。注文を受けてお皿を下げて、また厨房に戻る。いつもの流れ。いつもと同じリズム。気がつけば、リーナは仕事に集中していた。昨日からのドキドキも、マリアの言葉も、ジュードのことも頭の隅に追いやられている。
料理を作っている時は、いつもこうだ。余計なことを考えなくて済む。
カラン。その音はいつもとは違った気がした。リーナは反射的に振りむく。
「いらっしゃいま――」
視界の端がゆるやかに焦点を失い、そこに立つ人影だけがくっきりと浮かぶ。ジュードが普段の騎士服ではない。淡い色の上着にゆるい襟元。見慣れぬ服装が、彼をまるで別人のように見せていた。
「「あ……」」
同時に、声が出た。心臓がうるさいくらいに跳ねている。リーナの頭も真っ白になったが、ジュードも固まったように動かない。シンとなったその場を破ったのは、店内の他の客だった。
「お? 来たよ」
「本当だ。どうなるんだろうね」
ひそひそと囁く声。にやにやとした笑い。
リーナは「ああ」と察した。噂だ。ソフィアが見たというジュードが店の前でしゃがみ込んでいた話。それがもう、街に広まっているのだ。周りの視線が痛い。リーナは、とにかく動かなければと思った。
「い、いらっしゃいませ」
何とか声を絞り出す。少しだけひっくり返ったかもしれない。
「あ、ああ」
ジュードはいつもの席に向かう。歩き方が、少しぎこちない。
手を動かさなきゃ。料理を作らなきゃ。定食の準備を始める。いつもと同じ手順。いつもと同じ動き。でも包丁を握る手に、力が入らない。まな板に野菜を置いて、切ろうとして、手が止まる。
リーナは深く息を吸った。
(大丈夫。いつもと同じ。ただ料理を作るだけ)
そう思うのに、どうしてもジュードの方を見てしまう。ジュードは席に座って、じっと窓の外を見ていた。その横顔が、緊張しているように見える。リーナはすぐに視線を逸らした。見ちゃだめだ。集中しなきゃ。リーナは深呼吸をして、出来上がった定食を持ってジュードの席へ向かった。
「お、お待たせしました」
声が情けなく上ずる。緊張で震える指先が、お盆の縁を白く握っていた。
「ありがとう」
ジュードがゆっくりと顔を上げる。真正面からぶつかった視線に射抜かれ、リーナは慌てて目を逸らした。
「ご、ごゆっくりどうぞ」
早口でそう言って、リーナは厨房に逃げ込んだ。調理台に手をついて、深く息を吐いた。チラリと見ると、ジュードは料理を口に運んでいた。
(いつもより早く食べてない?)
いつもなら、一口食べて「うまい」と呟いたり、満足そうな顔をしたりするのに。今日のジュードはただ黙々と食べているだけだった。
(ジュードも、緊張してるの?)
私だけじゃないんだ。それが分かって、少しだけ気持ちが楽になった。
時間が、ゆっくりと過ぎていく。店内にいた客が次々と帰っていく。リーナは皿を洗いながら、時々ジュードの方を見た。ジュードはまだ、席に座っている。料理は食べ終わって、空になった皿の前でじっと座っていた。
帰らないのか。それとも――何か、言いたいことがあるのか。そう思った時、ジュードが立ち上がった。リーナの心臓がまた大きく跳ねる。ジュードがカウンターに向かって歩いてくる。リーナは慌てて姿勢を正した。
「あ、ありがとうございますた!」
声が震える。若干嚙んだかもしれない。ジュードがカウンターの前に立って、お金を置いた。
「ごちそうさま」
いつもより低い声。リーナはお釣りを渡そうとして――ジュードが、カウンター越しに身を乗り出した。顔が……近い。リーナは息を呑んだ。
「昼の営業終わったら」
ジュードが、小声で囁いた。
「街の噴水前に来てほしい」
どくん! リーナの心臓が、止まりそうになる。
「え……あ……」
言葉にならない声が喉につかえる。頭が真っ白になる。何も考えられない。
「待ってる」
ジュードがそう言って、身を引いた。そのまま、店を出ていく。
カランカラン。扉のベルが鳴って――ジュードの姿が、消えた。リーナは、その場で固まっていた。何が起きたのか、理解するのに時間がかかる。
噴水前に――来てほしい。待ってる。
ジュードのいつもよりも低くかすれた声が、耳に残っている。
「え?」
リーナは呟いた。その時、店内に残っていた客の一人が――くすくすと笑った。
「ねえ、見た?」
「見た見た。あれは完全にさぁ」
「噴水前だって。これは期待できるわね」
リーナの顔が、一気に熱くなる。聞かれてた! 全部、聞かれてた!
「頑張ってね」
「応援してるわ」
そんな言葉を残して客たちが帰っていく。リーナは顔を真っ赤にしたまま、ただ頭を下げることしかできなかった。
カランカラン。最後の客が出ていって店内に、静寂が戻る。
リーナは扉の鍵を閉めた後、カウンターテーブルに突っ伏した。
「恥ずかしいぃぃ!」
行かなきゃ、いけないのか。行きたい気持ちはすごいある。でも、怖い。
リーナは顔を上げた。時計を見る。昼営業の終わりまで、まだ少し時間がある。
どうしよう。そう思ってリーナは頭を振った。
(考えても、仕方ない。行くしかないんだから)
「よし」
立ち上がって声に出す。女は度胸よ。祖母がよく言ってた言葉。それを思い出して、リーナは笑った。
「何とかなる! 頑張れリーナ! ってね」
リーナはてきぱきと片付けを始めた。洗った皿を拭き、棚に戻す。いつもより動きが早い。カチャリ、と皿の縁がぶつかる硬い音に、自分でも驚くほど指先に力が入っていると気づく。
全ての片づけが終わり、エプロンを外す。鏡の前に立って、髪を整える。顔が、まだ少し赤い。でも――もう、後には引けない。リーナは店を出た。
街の中心にある噴水広場へ向かう。石畳を打つ自分の足音だけが、やけに大きく響いている。歩きながらリーナの心臓が早鐘を打ち始めた。さっきまでの勢いは、どこへ行ったのか。足が震える。
(ホントに行くの?)
でも、足は止まらない。一歩、また一歩。噴水広場が、近づいてくる。曲がり角を曲がると――噴水の前に、ジュードが立っていた。リーナに気づいて、ジュードがぱっと顔を上げる。
「良かった。来てくれた」
安堵したような、嬉しそうな――そんな表情。リーナは、乾いた唇を一度きつく結び、小さくこくりと喉を鳴らした。それが、彼女にできる唯一の返事だった。すぐそばでは子どもたちが走り回り、誰かの呼び声が上がっているのに、向き合う二人にはその音がやけに遠く感じられた。噴水の水音だけが耳の奥に残る中、ジュードが深呼吸をした。
「この間の、続き。聞いてくれるか?」
頷かなければ。そう思うのに首が鉛のように固まって動かない。息が詰まりそうで、ただジュードを見つめることしかできない。
「俺、リーナのことが――」
「私、ジュードのことが好き!」
ジュードの言葉を遮り、リーナの叫びが広場に響いた。
(え? 今の私の声? え?)
リーナの思考が、噴水の水音の中で一瞬停止する。それから顔が一気に熱くなる。
「え? いや……あれ? 私、なんて言った?」
わたわたと両手を振る。視線が泳ぐ。逃げたい。ものすごく逃げたい。でも足が動かない。
ジュードは――顔を真っ赤にして、頭を抱えていた。
「何でリーナが先に言っちゃうんだよ……」
くぐもった声がその腕の中から聞こえる。でもすぐに顔を上げて、真っ直ぐリーナを見た。
「リーナが好きだ」
ジュードが、今度ははっきりと告げる。その真っ直ぐなまなざしがリーナを捉え、もう逃がさないと告げていた。
「最初に会った時、リーナは料理のことしか見てなくて……それが、新鮮だった」
ジュードが一歩前に――リーナとの距離が縮まる。
周りにいる人たちの声も、噴水の周りを走り回っている子供の声も、何もリーナの耳には届かない。ジュードの声だけが響いている。
「目をキラキラさせて料理を作ってるリーナを見てたら、いつの間にか目が離せなくなってた。話してると楽しくて、一緒にいたくて……」
ジュードがリーナの両手を取り、自分の頬に寄せた。
ジュードの顔が、近い。今、自分はどんな顔をしているのだろう。
「もう、誰にも渡したくない」
リーナは何も言えなかった。言葉が、出てこない。
ぽろり。頬を涙が一筋、伝い落ちる。
でも、泣いているのに――笑っていた。顔をくしゃっとさせて、ジュードを見上げる。
「ジュードが好き」
声が震える。涙で視界が滲み、目の前のジュードの輪郭さえもぼやけていく。それでも、これだけは言わなければと、喉の奥から声を絞り出した。
「ジュードが好きなの」
他の言葉が、出てこない。壊れたロボットのように、ただそれだけが唇からこぼれ落ちる。
「ジュードが……好き」
ジュードの手が伸び、リーナの頬を伝う涙を親指で拭った。そして、強い力で抱きしめられる。抱きしめられた瞬間、陽だまりみたいな香りがした。背中に回された手の熱が、リーナのすべてを包み込む。
「すげー嬉しい」
耳元で囁かれた声が、少し震えていた。
リーナの視界の端に、真っ赤になったジュードの耳が見える。
リーナは――もう、何も考えられなかった。ただジュードの温もりに感じながら、静かに目を閉じる。
噴水の水音が、陽の光とともに二人を包んでいた。