作品タイトル不明
整理できない気持ち
「レオンハルト殿下」という言葉が、まだ店の空気の中に残っていた。
アデラインとジュードの視線が交わり、リーナはその場で固まったまま動けない。
「……リーナ?」
アデラインの声が、張りつめた空気を動かした。
リーナはゆっくりと両手を下ろし、冷えた指先を見つめる。
「はい……」
「えっと、殿下は?」
ジュードが答えた。
「もう帰ったよ」
「あら、そうなの? 残念。団長に報告しなきゃ」
アデラインは肩をすくめ、二人を交互に見た。
ジュードは表情を固くしたまま立ち、リーナは視線を落としている。
妙な間が流れ、息をする音まで響きそうだった。
「……邪魔しちゃった?」
「い、いえ、そんなことは」
リーナは慌てて首を振った。
自分の声が少し上ずったのが分かり、さらに落ち着かなくなる。
アデラインは眉を上げ、何か言いたげに唇を開いたが、すぐに閉じた。
「ま、いいけど。殿下が来てたって団長に言っとくわ」
「頼む」
短く返したジュードの視線は、リーナから離れなかった。
アデラインは軽く手を振り、早足に店を出ていく。
カランと音が鳴り、扉が閉まる。
静けさが戻ると、店の空気が肌にまとわりついた。
リーナはカウンターに手を置いたまま、掌の冷たさだけを感じていた。
ジュードも何かを言いかけてはやめ、無言のまま息を整えている。
「……リーナ、大丈夫か?」
少し間を置いて、ジュードが口を開いた。
その声は穏やかだったが、どこか探るようでもあった。
「うん……えっと……」
言葉が出ない。
何から話せばいいのか分からず、喉の奥が詰まる。
ジュードがわずかに息を吸った。
「さっきの話、また今度でいい?」
リーナは頷いた。
安心と戸惑いが入り混じったような感覚が、胸の内側を通り抜けていく。
「……うん。ごめんね」
「謝るなよ。今日は色々あったし」
ジュードは柔らかく笑った。
けれど、その笑みの奥には言葉にできない思いが隠れていた。
「じゃあ、俺は帰る。またな」
「うん、またね」
扉が閉まり、鈴が再び鳴る。
その音が静まるまで、リーナは動けなかった。
片付けをしなきゃと思いながらも、手が震えて皿を取り落としそうになる。カップを洗いながら、頭の中を整理しようとする。
ハルトは、やはり王族だった。ローゼリア様という名前が、何度も思い浮かぶ。きっと殿下にとって大切な人なのだろう。団長に聞けば分かるかもしれない。
けれど、それよりも。
「俺……リーナのこと――」
ジュードの声が、思考の隅で途切れたまま残っている。
真剣な眼差し。少し震えた声。
思い出すたびに喉が乾いていく。考えすぎだと分かっていても、落ち着かない。
同じ皿を何度も拭き、気がつけば動きが止まっている。結局、片付けは途中のままだ。
二階の部屋に上がり、ベッドに体を沈める。眠れそうにない。天井を見つめながら、今日のことを何度も思い返す。
初めてジュードに会ったとき、軽い人だと思った。
明るくて、少しチャラチャラしているように見えた。
でも、料理を褒めるときの声は真っすぐで、その言葉が嘘じゃないとすぐに分かった。
「美味しい」
その一言を聞くたびに嬉しくて、次も頑張ろうと思えた。
彼はいつも店に来てくれて、遠征の前には「行ってきます」と言い、帰ってくると「ただいま」と笑った。
その笑顔を見た瞬間、肩の力が抜けるような気がした。
祭りに誘われたとき、「行きたい」と即答した自分に驚き、髪飾りをもらったときは、嬉しくて、恥ずかしくて、どうしていいか分からなかった。
倒れたときに看病してくれたことも、今もはっきりと覚えている。
そして今日――。
「リーナがここで作る料理が、ここで過ごす時間が、俺にとってすごく大事なんだ」
あの言葉。そして、続かなかった言葉。リーナは枕に顔を埋める。
嫌じゃなかった。むしろ、あの言葉の続きを聞きたいと、思ってしまった。いつから、こんなふうに彼を意識するようになったのだろう。
もう、ただの常連でも、友人でもない。
(私、ジュードのこと……)
「次に会うとき、どんな顔して会えばいいのよ……」
小さくこぼれた声が、静かな部屋に溶けていった。