作品タイトル不明
王都からの声
クレープの皿が片付けられ、店内にはバターの甘い香りの余韻と、穏やかな静けさが戻っていた。
ジュードが、ふと思い出したように口を開く。
「そういえばハルト、王都で会いましたよ」
「へえ? 誰に?」
ハルトが軽くカップを傾けた、その瞬間。
「ローゼリア様に」
ぴたっとハルトの手が止まった。
カップの中で紅茶が、細かく揺れる。
「……え?」
「ローゼリア様から、伝言を頼まれました」
ジュードは淡々とした口調のまま、どこか楽しげな表情で続けた。
「一つ。『お父様を困らせることはしていないでしょうね』」
ハルトの頬が引きつり、視線が泳いだ。
「二つ。『なぜ私にも声をかけてくれなかったのですか』」
「……っ、ま、待っ……!」
言葉が裏返る。握ったカップがかすかに鳴った。
手が震えているのが、はっきりと分かる。
「三つ。『早く戻らないとどうなるかわかってますよね』」
ハルトの唇がわずかに開き、喉が鳴り、額に冷や汗が浮かんだ。
「……ローゼ、は……怒ってたか?」
声が震えた。情けないほど小さく、かすれた声だった。
「いえ、穏やかでしたよ。でも、それが逆に怖かった」
「……終わった……」
椅子の背にもたれかかり、ハルトは頭を抱えた。膝がわずかにがくがくと揺れている。その様子に、リーナは思わず心配になる。
「ハルトさん……?」
「……大丈夫、大丈夫……いや、全然大丈夫じゃない……っ!」
しばらく額を押さえたまま小刻みに震えていたが、やがて、ひとつ息を吐いた。
目を閉じ、手のひらで顔を覆う。
深く、ゆっくりと呼吸を整え――次に顔を上げたとき、その表情は嘘みたいに整っていた。
「……リーナ、帰る前に一つ提案がある。王都で、料理人として働かないか?」
リーナは一瞬、言葉を失った。ジュードも、驚いたようにまばたきする。
店内の空気が静まり返った。
「最高の設備がある。君の素晴らしい料理を、もっと多くの人に届けられる環境だ。相応の地位も用意できる」
その声音には誠実さがあった。
リーナは微笑み、ゆっくりと首を横に振った。
「ありがとうございます。とても光栄です」
一呼吸置いて、静かに続ける。
「でも私、この街が好きなんです」
ハルトの目がわずかに丸くなった。
「ここで過ごした時間と築いた関係は、私にとってかけがえのないものです。王都で有名になることより、この場所で料理を作り続けることが私の幸せなんです」
柔らかな声。揺るがない意志が、そこにあった。
「王都には素晴らしい設備があるかもしれません。でも私が作りたい料理は、ここでしか作れません」
ハルトはしばらく無言のまま、リーナを見つめていた。
それから、ふっと口元をゆるめる。
「……そっか。だよな。君はそう言うと思ってた」
一度目を伏せ、深呼吸をして立ち上がる。
手早く上着の襟を整え、少し無理をしたような笑みを浮かべた。
「じゃ、また来る。ぜっっったい来るからな! カセットコンロ、完成させて持ってくる!」
リーナは思わず笑ってしまった。ジュードは呆れたように眉をひそめる。
「そんな急がなくていいんですが」
「いや急ぐよ! 鍋食べたいからさ!」
言葉とは裏腹に、笑顔の奥には疲れと焦燥が滲んでいた。
それでもハルトは、軽く手を振って扉へ向かう。
「本当に、ありがとう、リーナ。美味しかったよ」
「こちらこそ、ありがとうございました」
ハルトが扉を開けると、カランと音が鳴った。
その音が消えたあと、静かな時間が落ちてきて、リーナとジュードだけが、店に残された。
「……やっと帰った」
ジュードが、ぽつりと呟く。
「ふふっ」
「リーナが断ってくれて良かった。王都に行ってしまうのかと、少しドキドキしたよ」
ジュードの瞳が、これまでにないほど真剣な色を帯びている。
「ハルトの言う通り、リーナの料理はすごい。王都に行けば、もっと有名になれると思う」
「……」
「でも、俺は……ここがいい」
ジュードは真っすぐにリーナを見る。
「リーナがここで作る料理が、ここで過ごす時間が、俺にとって――すごく、大事なんだ」
熱が、二人の間に生まれた。
ジュードの唇が、何かを言おうと動く。
「俺……リーナのこと――」
バタン!
店の扉が、壊れそうな勢いで開け放たれた。
「リーナ! レオンハルト殿下来てる!?」
アデラインが駆け込んできた。店内の熱が、ガラスのように砕け散る。
リーナは呆然とアデラインを見た。視線をジュードに戻すと、彼は口を半開きのまま固まっていた。
「アデラインさん、今、なんて……?」
「だから! 殿下が来てる? って聞いてるの! ローゼリア様から団長に連絡が入ったのよ!『殿下がそちらに寄っていたら、即刻王都に戻るようにお伝えください』って!団長が『多分リーナのところだ』って言うから、私、急いで……」
そこまで言って、ようやくアデラインはもう一人の存在に気づいた。
「……って、あれ? ジュード? なんでいるの? 王都に行ったんじゃ……」
アデラインの視線が、リーナとジュードの間を行ったり来たりする。
ジュードの目には、絶望と混乱が浮かんでいた。
薄々感じていた真実が、アデラインの言葉によって確定してしまった。ジュードが寸前で失った言葉と、ハルトの身分。
リーナの中で思考が渦を巻く。処理しきれない情報が、頭の中で暴れ回る。
リーナは、両手をゆっくりと持ち上げ、耳を塞いだ。
「……私、何も聞いてません」