作品タイトル不明
本編 ~『父と母の説得』~
翌日の午後、ヴィオラは父の書斎へ呼ばれた。
扉の前に立った時点で、用件はおおよそ察していた。廊下に控える使用人たちは視線を伏せ、誰もヴィオラと目を合わせようとしない。昨日の玄関ホールでの出来事は、すでに屋敷中へ広まっているのだろう。
「ヴィオラです」
「入りなさい」
父の声が返ってくる。
ヴィオラが扉を開けると、書斎にいた父と母、そしてノエルが目に入る。
ノエルは母の隣に座り、白いハンカチを膝の上で握っている。昨日と同じ仕草だが、顔色は良く、目元だけが都合よく潤んでいた。
さらに窓際に目を向けると、セドリックの姿もあった。
ロックウェル公爵家の嫡男として整えられた装いは、書斎での話し合いには少し華やかすぎた。これまでなら、出かける前にヴィオラが止めていたような場違いな恰好だった。
「それで、私に何の御用でしょうか?」
ヴィオラが部屋の中央で足を止め、一礼すると、父は重々しく頷く。だが最初に口を開いたのは、意外にも母の方だった。
「昨日のことは聞きました。玄関ホールでセドリック様に失礼なことを言ったそうね」
「失礼ですか……」
「ノエルの具合が悪いのを気遣ってくれたのに、姉であるあなたが、それを責めたそうじゃない……恥を知りなさい!」
強い言葉を放つ母。そんな彼女に対し、ノエルは肩を震わせる。
「お母様、私が悪いのです。私が、セドリック様を引き止めてしまったから……」
「ノエル、お前は悪くない」
父がすぐに庇う。
昨日のセドリックと同じ反応だった。
ヴィオラは目を伏せかけて、すぐにやめた。視線を逸らす必要はない。今、確認すべきなのは、彼らが何を言うかだ。
「私を責めるために呼び出したのですか?」
ヴィオラが尋ねると、父は机の上の書類へ手を置いた。
「それほど暇ではない」
「ではどういったご用件で?」
「単刀直入に伝えるぞ。セドリック公爵子息との婚約を、ノエルに譲りなさい」
唐突な提案だったが、この場にいる者たちは既に聞かされていたのか、驚く素振りはない。ノエルは申し訳なさそうに目を伏せる。
「お姉様、ごめんなさい……私、セドリック様を愛してしまったの」
「いつからですか?」
ノエルが瞬きをする。
「え……?」
「セドリック様を愛してしまったのは、いつからですか?」
「そ、それは……気づいたらですわ。お姉様の婚約者だと分かっていましたから我慢はしたのですが、気持ちは止められなくて……」
ノエルはハンカチを目元に押し当てる。
「何度も諦めようとしたのです。でも、セドリック様はいつも私に優しくしてくださって……私、勘違いしてはいけないと思いながらも、どうしても……」
「ノエル、君だけが苦しむ必要はない」
「セドリック様……」
二人の声には、怯えと安堵がほどよく混じっていた。まるで、演劇の中の恋人同士が、ようやく互いの気持ちを認め合った瞬間のようだ。
ただし、ここには婚約者であるヴィオラがいる。
当事者の一人として、話し合いに呼ばれたはずのヴィオラが、いつの間にか二人の恋を認める証人のように扱われている。
その状況を後押しするように、父が口を開く。
「ヴィオラ、これで、お前がどうすべきか理解できただろう?」
「いえ、分かりませんね」
「ノエルは昔から体が弱い。お前は姉なのだから、妹に譲るべき。そう思わんのか?」
「体が弱いと婚約を譲る理由になるのですか?」
父の眉間に皺が寄ると、母がすぐに口を挟む。
「ヴィオラ、屁理屈ばかり言わないで。ノエルはあなたと違って繊細なのよ。セドリック様を想って、どれほど苦しんできたか分かるでしょう?」
「分かるはずがありません」
「ヴィオラ!」
母の声に同調するように、父が机を殴りつける。ノエルの肩が跳ね、セドリックは顔をしかめたが、ヴィオラだけは動じなかった。
「お前はどうして、そう冷たい言い方をする!」
「確認しているだけです」
「妹が泣いているのだぞ!」
「はい。見えております」
「ならば――」
「ですが、ノエルが泣いていることと、私が婚約を解消することは別の話です」
父は言葉を詰まらせる。一方、母はノエルの背を撫でながら、責めるようにヴィオラを見つめていた。
「ノエルはあなたと違うの。少しのことでも傷ついてしまう子なのよ」
「だから、私が傷つくことは構わないと?」
「そうは言っていないわ」
「では、どういう意味でしょうか?」
詰問に答えられず、母は視線を逸らすが、その沈黙だけで十分な返答になっていた。
この家では、ヴィオラの心情は配慮されない。姉だから。しっかりしているから。ノエルと違って泣かないから。そういう理由で、最初から我慢する側に置かれていた。
「ヴィオラ」
ようやくセドリックが口を開く。
彼は困ったように眉を下げていた。だが、その顔に罪悪感は薄い。むしろ、早く納得してほしいという焦りが見えた。
「君なら分かってくれると思っていた」
「何をでしょうか」
「ノエルのことだ。彼女は君の妹だろう。姉妹なら妹の幸せを願えるはずだ」
「幸せですか……」
この場にいるのはノエルの幸せを願う者たちばかりで、ヴィオラの幸せを願う者はいない。父は家の体面を守り、母はノエルの涙を拭い、セドリックは自分の望みを通すために理解を求めてくる。
前世の結婚相談所であれば、相談者にこう伝えていただろう。相手はあなたを必要としているのではなく、あなたの我慢を必要としているだけですと。
ヴィオラは冷静さを保つ。この場で感情をぶつけても、彼らにはきっと響かないからだ。
「分かりました、婚約解消を受け入れます」
その一言に、書斎の空気が緩んだ。
セドリックは大きく頷き、母はノエルの肩を抱いたまま安堵の色を浮かべる。ノエルはハンカチを目元に当てていたが、その陰で唇の端がほんの少し上がった。
父もまた、肩から力を抜いた。まるで、厄介な手続きがようやく片づいたとでも言いたげだった。
「分かってくれたか、ヴィオラ。さすが私の娘だ」
「ただし条件があります」
「条件だと?」
「次の婚約相手は私自身が選びます」
提示された条件に母が目を見開く。
「何を言っているの、ヴィオラ。あなたは家のために……」
「その家のための婚約で、私は振り回されました」
ヴィオラは母を遮らず、けれど言葉を重ねた。
「セドリック様との婚約は、私が望んで結んだものではありません。家同士の取り決めとして受け入れ、婚約者として務めを果たしてまいりました。その結果がこれです。でしたら次は、私に選ばせていただきたい」
「ヴィオラ!」
父の声が強くなる。
だが、ヴィオラは視線を外さなかった。
「お父様は、私に姉として譲れとおっしゃいました。ですから譲ります。ですが、譲ったあとまで、私を都合よく扱わないでください」
書斎に張りつめた沈黙が落ちる。父は机の上で指を曲げ、思案すると、やがて結論を下す。
「……よかろう。その条件を受け入れてやる」
「ありがとうございます」
ヴィオラは一礼した。
「では、セドリック様の婚約者としての役目も本日で終わりですね」
「あ、ああ……そうなるな」
「承知いたしました。では、それに伴い、あなたへのサポートも本日をもって終了いたします」
書斎の中で、全員の動きが止まる。
最初に反応したのはセドリックだった。
「……サポート?」
「婚約者として行っていた支援のことです。夜会で話す話題の準備。贈答品の選定。観劇や食事の手配など、これまで私が影ながら支えてきたことは、すべて終了いたします」
「ふん、その程度のこと、誰にでもできる」
セドリックが言い切ると、ノエルがすぐに頷いた。
「そうですわ。セドリック様ならお一人でできます。お姉様は少し大げさです」
口元には、隠しきれない勝ち誇りがあった。
ヴィオラはそれを見ても、否定しなかった。
「できるのでしたら、何も問題はありません」
「ヴィオラ、君は、僕に恥をかかせたいのか?」
「あなたに恥をかかせない役目が終わる。ただそれを伝えたかっただけです」
セドリックの喉が動く。言い返したいのに、適切な言葉が見つからない顔だった。
ヴィオラには分かる。
これまでなら、彼が黙った時点で助け舟を何度も出してきた。相手の顔を立てる言い回しを選び、場を丸く収める結論へ導いていた。
けれど、もうしない。
それは、これからセドリック自身が学ぶべきことだからだ。
「ではお二人でお幸せに。失礼いたします」
ヴィオラはそれだけ告げて、扉を開けた。
廊下に出ると、書斎の中から楽しげな声が聞こえてくる。
ヴィオラはその声を無視して、廊下の先へと歩き出した。
婚約者としての役目は終わった。自由を得た彼女の足取りは、とても軽かった。