作品タイトル不明
第24話 潮騒の再会
ローゼンタールの港町に、秋の気配が漂っていた。
十の月の第二週の水曜日。両親から届いた手紙に記されていた日がやってきた。
学園の放課後、ビビアンは大型船の船着場へと向かっていた。手には冷えた指先を温めるための温かいコーヒーと、難解な経済学の原書。
「大きな荷物って、いったい何かしら」
そんなことを考えながら、彼女は海沿いの道を歩いていた。
この国に来て数ヶ月。彼女の瞳からは迷いが消え、その佇まいは、王都にいた頃の「誰かの影」のような控えめな令嬢ではなく、自らの足で立つ一人の女性へと脱皮を遂げていた。
だが、その日は違った。
港に停泊したばかりの商船から、次々と荷が下ろされる喧騒の中。
人混みの向こう側に、ひどく場違いな、それでいて見覚えのある「色」を見つけた。
「…………え?」
ビビアンの足が、石畳の上で止まる。
そこにいたのは、かつての光り輝くような貴公子ではなかった。
長い船旅の名残を感じさせるコートを纏い、大きな荷を背負った一人の男。貴族らしい気配は残しているものの、供も連れず、ただ一人でそこに立っていた。
その男が、ふと顔を上げた。
「ビビ……?」
掠れた、けれど耳に馴染んだその声。
ユリウスだった。
かつての余裕に満ちた微笑みも、整えられた髪もない。その指先は荒れ、頬には、長旅の疲労を物語るような影が落ちている。
「ユリウス……? どうして、ここに……」
ビビアンの手から、コーヒーの紙カップが落ちそうになる。
彼は一歩、また一歩と、覚束ない足取りで彼女に近づいた。周囲の学生たちが「なんだ、あの男は」と不審な目を向けるのも構わず、彼はビビアンの数歩手前で、まるで崩れ落ちるようにその場に膝をついた。
「……やっと……会えた。……ビビだ」
ユリウスの声は震えていた。
彼は、かつて彼女が最も求めていたときには差し出さなかったその手を、今は祈るように伸ばし、彼女の手を掴もうとして、その汚れに気づき、慌てて引っ込めた。
「すまない、こんな格好で……。でも、元気そうで良かった。会えて、本当に良かった」
彼は小さく息を吐き、それから続けた。
「ジャネット嬢とのことは、すべて終わらせてきた。リッチモンドの名前も、家も、地位も……全部、捨ててきたんだ。今の僕は、君にふさわしい男じゃないかもしれない。……それでも、君がいない世界で生きていくことなんて、できなかった」
ビビアンの視界が、急激に滲んだ。
胸の奥で、かつて彼を盲信していた「愚かで可愛いだけの少女」が、待ってましたとばかりに歓喜の悲鳴を上げる。
(すべてを捨てて私を選んでくれた! あのユリウスが、私だけのために、全部を投げ打ってくれた!)
その甘美な誘惑に、そのまま溺れてしまえたなら、どれほど楽だっただろう。
すべてを忘れて彼の胸に飛び込み、また都合のいい、守られるだけの女に戻ってしまえたなら。
けれど、ローゼンタールに留学して半年、自分の力だけで生きる女性たちを見てきたビビアンの魂が、それを強烈に拒絶した。
彼の自己犠牲に涙して抱きつくような、そんな安い女にはなりたくない。ここで流されれば、私は一生、彼に庇護されるだけの『お荷物』に逆戻りだ。
そんな惨めな女に、私は二度と戻らない。戻ってたまるものか。
それは恋焦がれた男への甘えなどではない。自分を蔑ろにした過去の彼と、それに耐え続けた自分への、激しい糾弾だった。
「バカよ。ユリウスは、大バカよ……」
ビビアンは、手にしていたコーヒーと経済学の本を、あえて地面にしっかりと置いた。自分の積み上げてきた足跡を、決して投げ出したりはしない。
そして、あの辛かった日々に叫びたくても叫べなかった言葉を、彼に叩きつけるように正面からぶつけた。
「どうして.......あんなに私を放っておいたの! どうして、一緒にいてくれなかったの! どれだけ、寂しかったと思っているのよ......っ!」
ビビアンは駆け出した。
だがそれは、彼に救いを求めるためではない。その胸ぐらをつかみ、自分の痛みをすべて理解させるためだ。
膝をついたままの彼の胸に、体ごとぶつかるようにして飛び込む。
ユリウスは驚いたように目を見開いたあと、壊れ物を扱うような手つきで、ためらいがちに彼女を抱きしめる。それでも次の瞬間には、すべてを失った男が唯一残された光にしがみつくように、強く、強く抱きしめ返した。
彼の腕の中で、ビビアンは涙を流しながらも、その目をしっかりと見開いていた。
(私は、貴方に流されない)
激しく胸を焦がす涙の雨は、弱かった少女の時代の終焉を告げ、一人の自立した女性へと生まれ変わるための洗礼だった。
彼の胸からは、かつての高級な香水の香りではなく、潮風と汗、そしてなりふり構わずここまでやってきた男の匂いがした。
それは決して上品なものではなかったが、不思議なほど胸に沁みた。
あの明るくて、常にスマートだったユリウスが、なりふり構わずここまで追ってきたのだと、その匂いが何より雄弁に物語っていたからだ。
ビビアンは彼の胸に顔を埋めたまま、堪えていた涙を流した。
寂しかった。苦しかった。放っておかれたことが悲しかった。
ジャネットを優先する彼の後ろ姿を見ながら、「どうして自分ではなかったのか」と、何度も何度も夜に問い続けた。
けれど、その涙が落ち着くにつれて、胸の奥から冷徹なほど静かな、別の感情が顔を出す。
『私は、もうあの頃の、貴方の都合に振り回される私ではない』
ゆっくりと息を吐き、ビビアンはそっと、しかし拒絶の意志を込めてユリウスの腕の中から離れた。
ユリウスは捨てられた子供のような、酷く不安そうな顔で彼女を見つめる。
その情けない表情に、少しだけ可笑しさを覚えた。
かつてなら、こんな風に見捨てられる恐怖に怯えていたのは、いつだって自分の方だったのに。立場は、もう逆転しているのだ。
「ねえ、ユリウス」
ビビアンは涙の跡を拭いながら言った。
「会えて嬉しいわ。それは本当よ」
ユリウスの表情が安堵にわずかに緩む。だが、ビビアンはそれを許さなかった。
「でもね、私はもう、昔みたいに貴方の後ろを泣きながら付いていく女の子には戻れないの」
ぴしゃりと言い放たれた言葉に、ユリウスが息を呑む。涙を流していたのが嘘のように、彼女の口調は静かで、確かな響きを帯びていた。
「貴方がジャネットさんを『可哀想だから』と助けていた頃、私はずっとあなたを待っていた、信じていたし、我慢もしたわ。でもね、その結果として、私は一人にされた」
責める口調ではない。ただ、犯した罪の重さを突きつけるような静かな声だった。
「だから私は、貴方を《《捨てた》》のよ」
ユリウスの肩が、衝撃を受けたように大きく震える。
「貴方を忘れるためだけじゃないわ。私自身が何者なのかを知りたかった。.....ローゼンタールへ来て、私は知ったの。女性が自らの足で立ち、自らの力で生活を支えている光景を。王都で貴方の庇護を待つだけだった私には、見えなかった世界よ」
ビビアンは凛とした態度で、経済学の原書を大切そうに抱え直すと、ぎゅっと抱きしめた。
「帰国したら、私は領地の女性たちの働く場所を増やしたい。夫を失った人も、家族を頼れない人も、自分の力で生きていけるような場所を。私は私の夢を生きるわ。誰かの、『人気者のユリウスのおまけの婚約者』としてではなくね」
しばらくの沈黙の後、ユリウスが絞り出すように静かに口を開く。
「素敵な夢だね。.....応援、したい」
昔のユリウスなら、きっと「危ないから」「僕が守るから」と言って遮っていただろう。 だが、今の彼にはもう、そんな傲慢な言葉を口にする資格がないことを、彼自身が一番理解していた。ただ、今のビビアンの眩しさに圧倒されている。
「だから私は、残り半年を全力で勉強するわ。貴方のためじゃない。私自身のために」
「うん......」
「もう、貴方を待つだけの優しい幼馴染には戻らない。お前なんか当然だ、帰れって言われても文句言えないことを、貴方はしたのよ?」
ユリウスは一瞬目を見開き、それから自嘲気味に、けれど覚悟を決めた顔で笑った。
「そうだね。本当に、その通りだ。.....僕も、今のビビに相応しい男になるよ。独りよがりな正義感で身近な人を傷つけるような愚か者じゃなく、本当に誰かを守れる男に」
「半年後……」
ビビアンは、もう彼に縋る必要のない大人の淑女の微笑みを浮かべた。
「帰国したら、また会いましょう。その時、私に恥ずかしくない男になって、胸を張って会いに来て」
「……ああ。約束する!」
夕暮れの光が海を照らしている。
ビビアンは一度も振り返ることなく、港から学園への道へと歩き出した。その背中はどこまでも気高く、そして、かっこよかった。
その背中を、ユリウスはただ呆然と、しかし恋焦がれるような眼差しで見送り、やがて自分も歩き出す。
追う者と待つ者の関係は終わった。これからは、遥か先を行くビビアンの視界に再び入るために、彼がプライドをすべて捨てて、必死にしがみつく番だった。