作品タイトル不明
第23話 琥珀色の追憶、あるいは遠い潮騒
ローゼンタール王国の夜は、驚くほど静かだった。
学術院の寮の一室。使い込まれた木の机の上には、明日の講義のための資料と、異国の言葉で書かれた経済書が積み上げられている。
窓を開けると、夜風に乗って、かすかに潮の香りがした。この国は海に近く、風の中に混じる湿り気が、かつてのルミナリア王都の乾いた風とは明らかに違っていた。
それなのに。
ふとした瞬間に、鼻腔をくすぐる香りが、記憶の蓋を容赦なくこじ開ける。
(……この香り、ユリウスが好んでいた香水に似ているわ)
ビビアンはペンを置き、細い指先でこめかみを押さえた。
忘れたつもりだった。忘れるために、わざわざ海を越えて、自分の名前を知る者が誰もいない場所まで来たはずなのに。
新しい知識を詰め込み、慣れない言葉で議論を戦わせ、疲れ果てて眠りにつく。そんな風に、心を「今」という時間で塗り潰していても、ふとした隙間に、彼との思い出が琥珀のように固まったまま、鮮やかに蘇ってしまう。
例えば、夕暮れの図書室で、彼が私の髪を一房掬い上げた時の指の温度。
例えば、私の好物の焼き菓子を「偶然見つけたから」と、照れ臭そうに差し出した時の、少しだけ揺れていた彼の優しい瞳。
あの日々は、間違いなく私の世界のすべてだった。
幼馴染の彼が私の 騎士(ヒーロー) で、私が彼の唯一の場所であると、疑うことさえ知らなかったあの頃。
「……バカね。私はもう、あの頃の私じゃないのに」
自嘲気味に呟いた声が、静かな部屋に溶けていく。
この国で学ぼうとしている今の自分。けれど、心の奥底には、まだ、ユリウスと出会った頃の脆い少女のまま、置いてけぼりにされた「寂しさ」が澱のように沈んでいる。
それは、恋と呼ぶにはあまりに長く、執着と呼ぶにはあまりに純粋すぎた、幼馴染という名の呪縛。
窓の外を見上げれば、月が皓々と輝いている。
この月を見て、彼は今、何を思っているだろうか。
隣に寄り添うジャネット様の肩を抱き、彼女の「儚さ」を愛おしんでいるのだろうか。それとも、私が消えた隣の席を見て、ほんの一瞬、ティーカップを置く私の所作を思い出したりするだろうか。
(いいえ、きっと。彼はもう、私のことなんて……)
そう思うたびに、胸の奥がキリリと痛む。
「寂しい」と泣き喚く時期はとうに過ぎた。今の痛みは、もっと静かで、深く、体の一部になってしまったような鈍い痛みだ。
かつて彼に贈られた言葉や、彼のために用意した数々の気遣い。それらがすべて、今の自分を構成するパーツになっていることが、何よりも残酷で、どこか愛おしい。
もし、今この瞬間に彼が目の前に現れたら……。
私は彼を許せるだろうか。それとも、冷たく突き放すだろうか。
いいえ。
きっと、言葉を交わすよりも先に、私は泣いてしまう。
「どうして、あんなに私を一人にしたの」と、少女のような幼さで、彼を責めてしまうだろう。
だから、会ってはいけないのだ。彼が追いかけてくるはずなどないけれど、万が一にもそんな奇跡が起きてしまえば、私は昨日まで積み上げてきた「強いビビアン」を、簡単に手放してしまいそうで。
「……さようなら、私の大好きな人」
ビビアンは、そっと窓を閉めた。
夜風を遮断し、琥珀色の追憶を、再び心の奥底へと仕舞い込む。
明日になれば、また「優秀な留学生」として、凛とした仮面を被らなければならない。
けれど、眠りにつくまでのわずかな時間だけは、異国の地で一人、あの頃の少女に戻って、届かない祈りを夜に捧げる。
(ユリウス。どうか、幸せで。……私がいなくても、あなたが笑っていられますように)
それは、嘘偽りない彼女の愛であり、そして、いつまでも拭えない「少女特有の未練」だった。
翌朝は快晴だった。どこか涼しさを含んだ朝の空気に、潮風の湿り気が混じる心地よい一日の始まり。まるで何か良いことが起こりそうな、不思議な予感に包まれた朝だった。
いつも通り友人たちとともに寮から学園へ向かい、午前の授業を終えると学生食堂でランチを楽しむ。穏やかで変わらない学園生活は、ビビアンの心を芯から癒やしてくれた。
午後の授業を終えて寮に戻ると、両親からの手紙が届いていた。
『私たちの愛する娘、ビビアンへ。
あなたが充実した毎日を過ごしていると知り、みんな嬉しく思っています。頑張り屋さんのビビのことですから、無理をしているのではないかと心配していましたが、異国での暮らしはあなたに穏やかな時間を与えてくれているようですね。くれぐれも無理をせず、あなたの望む素敵な時間を過ごしてください。
十の月の第二水曜日に到着する船で、大きな荷物を送ります。船着場まで受け取りに行ってくださいね。大切なものなので、決して忘れないように。』
「大きな荷物? 何かしら……。ドレスとか、衣服かしら。一年間学園に通うだけなのに、お母様は心配性だから、ふふ」
手紙を読みながら家族に思いを馳せていると、友人が夕食に誘いに来た。
「ビビアン、食堂へ行きましょう」
声を掛けられて時計を見ると、もう夕食の時間だった。
「あら、もうそんな時間?」
ビビアンは手紙を机の上に置き、急いで部屋を後にした。
彼女の日常は、本当に穏やかに過ぎていた。