軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第25話 大人の掌の上、そして「本当の」約束

潮騒のなかで立ち尽くすユリウスのもとに、コツコツと正確なリズムを刻む足音が近づいてきた。

現れたのは、非の打ち所のない身なりをした初老の紳士だった。彼は、ユリウスに向かって深く一礼する。

「……失礼いたします。ユリウス様」

紳士の顔を見てユリウスが目を見開く。

「君は……リッチモンド家に仕える、父上の秘書官では?」

「左様でございます。本日はドルーマン、リッチモンド、両家のご当主様方より伝言を預かって参りました」

紳士は淡々と、しかしどこか楽しげに告げた。

「ユリウス様。貴方様が地位を捨て、血判まで押して出立された覚悟、しかとご当主様に届いております。……が、『あんな面白い見せ場を一度で終わらせるには惜しい』とのことでございます」

「……え?」

「今回の件は、両家で話し合いが持たれました。ビビアン様の留学も、ユリウス様の今回の強行軍も、すべては『若いうちに一度頭を冷やし、真の絆を確かめるための試練』として容認されております。ユリウス様、貴方の嫡男としての地位も、学園の籍も、何一つ失われてはおりません」

彼は必死だった。一生の別れだと思い、すべてを捨てて海を越えた。しかし、それはすべて、子供たちを深く愛する両親たちと、不器用な息子を案じた親たちの、大きな掌の上の出来事だったのだ。

「ふっ。……父上たちには、敵わないな」

ユリウスが苦笑すると、紳士は厳かに続けた。

「数日間の滞在を許されます。その後、ユリウス様は帰国し、学園へ戻ってください。ビビアン様に恥じぬ紳士として、彼女の帰りを待つ。それがご当主様たちとの約束です」

「わかった。滞在中は、事業所を視察させてもらうよ。面倒をかけるがよろしくお願いします」

ユリウスは、父の秘書官が手配した宿に滞在し、精力的に事業所を回った。

当初はビビアンに会うための訪問であったが、両家の取り計らいにより、無事に再会は果たされている。

その上で、ビビアンが半年後に帰国するまでは、それぞれ自己研鑽に励むという約束になった。ビビアンに負けないよう努力しなければという思いに満ちていた。

その数日後。ローゼンタール王都中心部の繁華街で、ユリウスは街角に激しい人だかりと怒声を見つけた。

見れば、質の悪そうな男たちが、困惑する若くて美しい女性店員を囲み、難癖をつけて凄んでいる。

「待て! 寄ってたかって女性を脅すなど、恥を知れ!」

人だかりから一人の男が躍り出た。正義感に燃える目をした、いかにも血気の多そうな若者だった。

若者は女性店員を背に庇うと、有無を言わさず男たちの顔面を殴りつけた。たちまち周囲は悲鳴に包まれ、殴り合いの大騒動へと発展する。

ユリウスは反射的に駆け寄り、若者に加勢して男たちを追い払った。

男たちが捨て台詞を吐いて逃げていくと、若者は周囲の歓声を浴びながら、満足げに胸を張った。

「もう大丈夫ですよ。怪我はありませんか?」

若者は女性店員に爽やかに微笑みかけ、自分の正義の行いに深く酔いしれているようだった。

周囲の野次馬たちも「よくやった」「さすが正義の味方だ」と拍手を送っている。ユリウスもまた、かつてジャネットを助けていた自分自身の姿を重ね、どこか誇らしい気持ちでそれを見ていた。

しかし、その直後だった。

「どうして……どうしてこんなことをするの……っ!」

突然、助けられたはずの女性店員が、顔を覆って激しく泣き崩れた。

あ然とする若者の前へ、店の奥から真っ青な顔をした店主が飛び出してくる。店主は破壊された看板や、割れたショーウィンドウを震える手で指差した。

「あんたたち、なんてことをしてくれたんだ! あいつらはこの界隈を仕切るタチの悪い組織の奴らだ! あの娘が少し頭を下げて、言われた通りの 袖の下(賄賂) を渡せば、それで丸く収まる話だったんだ。それなのに……!」

店主は若者の胸ぐらをつかまんばかりに激昂した。

「あんたがヒーロー気取りで暴れたせいで、店はめちゃくちゃだ! 明日からあいつらがどんな報復をしてくるか、考えもしなかったのか!? あの娘だって、もうここで怯えながら暮らすしかなくなるんだぞ!」

若者は言葉を失い、青ざめた。

「僕は、ただ彼女を助けたくて……悪者を許せなくて……」と消え入るような声で呟くが、引き下がらない店主に詰め寄られ、最後は逃げるようにその場を走り去っていった。

残されたのは、壊された店と、これからの理不尽な恐怖に怯えて泣きじゃくる女性店員の姿だけ。

結局、あの「正義の味方」は、自分が良いことをしたという満足感だけを抱いて去り、一番の被害者である店員たちに全てのツケを押し付けたのだ。

その光景を、ユリウスは金縛りにあったように動けず、ただ見つめていた。

(……あぁ、そうか。学園での僕は、まさに、あの男だったんだ)

衝撃のあまり、指先が冷たく震えだす。

ジャネットが可哀想だからと、両家の間で内々にはすでに決まっていた婚約者を持つ身である自分の立場も弁えず、首を突っ込んでヒーロー気取りに浸っていた。

自分が「正しいこと」をしている裏で、ドルーマン家やリッチモンド家が、自分とジャネットの関係を社交界で揶揄されるたびに、どれほど必死に否定して歩き、事態を収拾するために奔走していたか。

そして何より、婚約者としての誇りを傷つけられ、社交界で後ろ指を指され、孤独のなかで耐え続けていたビビアンがどれほど惨めな思いを噛み締めていたか。

自分はただの一度も、その裏にある涙に目を向けようとしなかった。

「僕は……なんて浅はかで、醜い男だったんだ……」

その夜、宿に戻ったユリウスは、暗闇のなかで激しい自己嫌悪に頭を抱えていた。

両親の慈悲により、家も地位も失わずに済んだ。だが、そんなものは何の免罪符にもならない。

ビビアンに言われた「ここで貴方に『二度と私の前に現れないで』と告げたとしても、貴方は受け入れるしかないはずよ。それだけの裏切りを、貴方はしたのよ?」という言葉が、今になって本物の刃となって胸を切り裂く。

泣いて縋る「声の大きい弱者」を救う快感に溺れ、静かに自分を信じて耐えてくれていた「一番大切な人」を、自分はこの手で踏みにじり、傷つけ続けていたのだ。

ようやく彼は、本当の意味で己の未熟さと、犯した罪の重さを思い知らされたのだった。

消灯前の寮の一室で、ビビアンは友人と食後のお茶を共にしていた。

「以前、話したことがあったでしょ。幼馴染の男の子の話。彼がね、一昨日、ローゼンタールに到着して、偶然再会したの」

「まあ! あの、ビビアンを大切にしてくれなかった幼馴染の彼ね?」

「ええ。その彼が会いに来てくれたの。それで……少し、ううん。悔しいけれど、かなり嬉しかったんだと思うわ」

「うん」

「でもね、港でそのまま別れたの。半年前の、ただ待つだけの自分には戻りたくないと思ったから。……私、おかしいかしら」

ビビアンが少し不安げに視線を落とすと、目の前で紅茶を飲んでいた友人は、カップをソーサーにコトリと置いた。

「ううん、おかしくなんてないわ。むしろ、よくぞそこで流されずに踏みとどまったと褒めてあげたいくらいよ」

「……本当?」

「ええ。ただ、私はその幼馴染の彼との復縁自体、正直に言って反対だけどね」

きっぱりと言い放った友人の言葉に、ビビアンは目を丸くした。友人は腕を組み、呆れたようにため息をつく。

「その彼に直接会ったことはないから絶対とは言えないけれど、ビビアンから話を聞く限りでは、随分と無責任で調子の良い男だと思うわ。だって、その『男爵家の令嬢』だっけ? 彼女に対しても、『すべて終わらせてきた』なんて言っていたんでしょう?」

「ええ……。家も地位も捨てて、決着をつけてきたって」

「『終わらせた』って何よ。ビビアンに対しても、その彼女に対しても、あまりにも失礼で傲慢な言い方じゃない。自分がヒーローから退場する都合のいい言い訳に聞こえるわ。正直、私は全く好感が持てない」

手厳しい友人の指摘は、どこか新鮮で、けれど不思議なほどビビアンの胸にするりと落ちてきた。

王都にいた頃は、誰もが「容姿端麗で才気あふれる、快活な伯爵家嫡男」としての彼しか見ていなかった。こうして一人の男としての未熟さを、客観的に斬ってくれる存在が今のビビアンには何より有り難かった。

「そう……よね。私も彼の言葉に一瞬、絆されそうになったけれど……どこか割り切れない違和感があったのは、そういうことだったのかもしれないわ」

「そうよ。せっかくここローゼンタールまで留学して、環境を変えて一人で頑張ってきたんだもの。この半年間の努力を、彼の感傷だけで無駄にされてたまるもんですか」

友人は身を乗り出し、ビビアンの手をぎゅっと握った。

「あと半年、お互いに頭を冷やして冷静に将来を考えればいいわ。本当に彼が人生を共にするに値する男なのかどうかをね。男は彼だけじゃないもの。ビビアンはこんなに素敵なんだから、今度は彼をたっぷり待たせてやればいいのよ!」

友人の勢いに、ビビアンは思わず吹き出してしまった。

「ふふ……そうね。少しは、残されて放っておかれる側の気持ちも体験してもらおうかしら」

「そうそう、その意気よ!」

窓から差し込む優しい陽光のなか、友人との小気味よい語らいは、ビビアンの心をすっきりと穏やかに、そして確かな自信で満たしていった。

それから数日後、リッチモンド伯爵家の秘書官から、ユリウスの帰国便の知らせが寮に届いた。

ビビアンは見送りに行くべきか一瞬迷いながらも、最終的には港の近くにある高台から見送ることを選んだ。

出航したユリウスは、船上の甲板に立ち、遠ざかる港を名残惜しげに見つめていた。同じ景色を見ているはずの二人は、互いの姿に気づくこともないまま別れの時間が流れていった。

そして、再会までの半年間を、それぞれが噛みしめながら過ごしていく。

ユリウスは、自分の未熟さと向き合うだろう。善意だけでは人を幸せにできないことを知り、本当に守るべきものを見失わないために。

ビビアンもまた、自らの足で選び取った留学の日々に誇りを持ちながら、自分がどんな未来を望むのかを改めて考えていた。

二人の拗れた関係が周囲を振り回してしまったことを忘れず、今度こそ互いの言葉に耳を傾けられるように。それは、幸せな未来へ向けての必要な半年だった。