作品タイトル不明
オーディションに参加しよう!
紗由の笑い声が、静かなリビングに響く。
ひとしきり笑った後、彼女は目尻に滲んだ涙を指先で拭った。
「あはは、でも、お兄ちゃんなら絶対大丈夫だよ」
「その根拠はどこから来るんだよ」
俺はテーブルに置かれたままのスマホを手に取り、画面を無意味にスワイプする。
とりあえず、話の全貌は理解した。
妹の狂気的なガチ恋殲滅計画の、一番の要として俺が担ぎ出されようとしていることも。
「で、そのダイバーシアだっけ。事務所のオーディションっていつあるんだ?」
俺が尋ねると、紗由はクッションから顔を離し、さらりと言い放った。
「来週の土曜」
「は?」
指先がスマホの画面の上でピタリと止まる。
「来週?」
「うん。ダイバーシアの縁故採用枠のオーディション、ちょうど来週末が書類選考の締め切り。面接は書類選考の次の週でさ」
急すぎるだろ。
思わずスマホをテーブルに放り出しそうになった。
準備期間なんて無いに等しいじゃないか。
「ちょっと待て。いくらなんでも急すぎないか? 俺、今はただのフリーターだぞ」
「知ってる」
「履歴書とか、自己PRとか、そういうの書いたの何年前だったか思い出せないぞ」
紗由は悪びれる様子もなく、にんまりと笑う。
「だからちょうどいいじゃん。失うものなんて、何もないでしょ?」
痛いところを突かれた。
俺、一ノ瀬透は現在二十四歳。
大学に通いながら組んでいたバンドが鳴かず飛ばずで、メジャーデビューなんてできないままに解散し、そのまま就職のタイミングを逃した。
今は週に五日、駅前の居酒屋で深夜シフトに入って、なんとか家賃と生活費を稼いでいる。
いわゆる、夢破れたバンドマン崩れのフリーターだ。
「……まあ、たしかに失うものはないけどな」
喉の奥が、少しだけ苦くなる。
もう数年はギターにも触っていない。ギターの弦を押さえることで固くなっていた指先も、今は少し柔らかくなってしまった。
ステージの上で歌っていた熱も、その記憶も、日々のアルバイトの疲れの中に溶けて消えかけている。
「お兄ちゃん、歌うの、まだ好きでしょ?」
紗由の声が、不意に静かなトーンに変わった。
見上げると、さっきまでの悪戯っぽい表情は消え、まっすぐに俺の目を見つめていた。
「たまに実家帰ってきたとき、お風呂で鼻歌とか歌ってるじゃん。あれ、昔のバンドの曲でしょ」
「……聞こえてたのかよ」
「丸聞こえ。お母さんも『透、まだ未練あるのかねえ』って心配してたよ」
余計なお世話だ。
居心地の悪さに、俺は首の後ろを撫でるように触る。
「Vtuberなんて、よくわかんない世界かもしれないけどさ」
紗由は身を乗り出し、俺の顔を覗き込む。
わずかに、彼女の使っているシャンプーの甘い香りが漂ってきた。
「もう一回、歌ってみなよ。画面越しでも、聞いてくれる人はたくさんいるからさ」
その言葉は、奇妙なほど胸の奥にすとんと落ちた。
防音設備の整っていない、客のいないライブハウスの景色が脳裏をよぎる。
あそこで歌っていた時よりは、マシなのだろうか。
「……来週の土曜、だな」
「うん!」
紗由の顔が、ぱぁっと明るくなる。
「ダメ元だからな。落ちても恨むなよ」
「やったあ! じゃあ、さっそくオーディション用の音源作らなきゃね。お兄ちゃん、明日うちの防音室兼スタジオ、貸してあげるから、歌録りしよ!」
「………展開が早すぎるだろ」
俺は深くため息をつきながら、再びソファの背もたれに身を沈めた。
なんだか、とんでもない流れに巻き込まれてしまった気がする。
でもまあ、悪くない。
退屈なフリーター生活の、ちょっとした暇つぶしくらいにはなるだろう。
なぜだか、根拠はないけれど。明日から楽しくなるような気がした。