作品タイトル不明
ガチ恋殲滅作戦
スマホの画面を一度暗くしてから、俺はソファの背もたれに身を預けた。
頭の中には、最後に流れたコメントが、まだうっすらと残っている。
《俺は空ちゃんが元気ならそれでいい。仕事も配信も全部やめて、うちにおいでっていつでも言えるようにしてる》
文字列だけを見れば、それほど長くもない一文。
ただ、距離感がちょっと、いや、かなり近い。
「……お前、よくこういうの、毎日浴びてるな」
「慣れたよ」
何でもないように答えると、紗由は近くのクッションを抱えなおして、俺の顔を上目遣いで覗き込んでくる。
「最初の頃は『うわ、こんなこと言う人いるんだ』って思ったけどね。今はもう、あって当然、空気みたいなもの」
冷蔵庫の唸る低い音と、リビングの蛍光灯のかすかなジジ、という音だけが部屋に漂っている。
「で、本題なんだけど」
紗由は膝の上で指を組んだ。
「さっきのコメント欄、どう思った?」
「どう、って言われても」
俺は言葉を探しながら、天井のあたりを見る。
「お前、ちゃんと『月宵空』やってたよ。配信自体は、楽しそうだったしな」
「そっちじゃなくて」
紗由は小さく笑ってから、すっと表情を引き締めた。
「ガチ恋っぽいやつ。何個かあったでしょ」
「あったな」
「あれをね、ちょっと、整理したいの」
整理、と紗由は言った。
その単語の選び方が、どうにも穏やかじゃない。
たぶんろくでもないことを言われるんだろうな、と俺は半分覚悟しながら、紗由の次の言葉を待った。
「お兄ちゃん」
「なんだよ」
「さっき、私が『付き合っている人がいる空気を作りたい』って言ったの、覚えてる?」
「……ああ。そのために俺にVtuberになってほしいって言ってたよな」
「うん。でもね、ちょっと訂正。付き合ってる、じゃなくて」
紗由は人差し指を一本立てる。
「ガチ恋勢を整理する一番きれいな方法ってね、『この人にはもう手が届かない』って、静かに納得してもらうことだと思うの」
「納得、ね」
「で、お兄ちゃんがデビューした後、しばらくしてから噂を、流すの」
紗由はクッションの角を指でつまみ、ゆっくりとなでた。
「私と、そのお兄ちゃんが演じるVtuberが――実は結婚してるっていう噂」
俺は数秒、本当に黙った。
空調の音が、急に大きく聞こえる。
「……結婚」
「うん」
「付き合ってた、とかじゃなくて」
「うん。結婚にしたい」
「なんで一段階上に行くんだよ」
思わずツッコミが口から出る。普通は付き合っている、じゃないのか。
紗由は、待っていましたと言わんばかりに、ぴんと指を立てた。
「『付き合ってる』だと、ファンの一部はこう考えるの。『そのうち別れるかもしれない。だったら次は俺かもしれない』って」
「……ああ」
その言い方に、俺は思わず眉を寄せた。
「結婚してるなら、話が違う」
「結婚って、付き合うのよりちゃんと選んだ感じがする。そういう関係を一度経た人って、ファンの頭の中では『もう大人の世界の人』になるの。手の届かない側に、ぐっと寄る」
「………そういうもんか」
「そういうもんなの」
二人とも、結婚なんて言葉は縁遠い身分だ。しかし、紗由の断言の仕方に、妙な説得力があった。
「ただ」
紗由は声のトーンを少し落とす。
「匂わせ方を間違えると、絶対に荒れる。見てくれている男性ファンのほぼ全員反転アンチになる」
「かもな」
俺はうなずいた。
『実は夫がいます!』と噂でも聞いたとき、平気でいられる男性ファンはそう多くないだろう。
「だから、順序と過程が大事なの」
紗由は膝の上で指を立てる。まるで企画書を読み上げるみたいに話しはじめた。
「最初の三カ月くらいは、お兄ちゃんは普通に新人男性Vtuberとして活動するの。歌が少し歌えて、トークが落ち着いてて、女子に積極的に絡まない、感じのいいタイプ」
「ハードル高いな」
「お兄ちゃんなら大丈夫」
まったく根拠のない信頼の置き方だった。
「で、その間、私とは絶対に絡まない。コラボもしない。SNSでも、リプとかも飛ばさない。徹底的に、別の人」
「徹底的に、ね」
「それで、先に『感じのいい人』っていうイメージを単独で作っておくの。これがすごく大事」
二本目の指を立てる。
「次に、別の先輩Vtuberとコラボさせて、そっちで人柄を広めてもらう。箱推しのリスナーが、『あの新人、結構いい人だよ』って噂を聞く状態にする」
「お前のファン層に、外側から情報を染み込ませていく、ってことか」
「そう」
紗由はにっこりと微笑む。
「先に箱推しリスナーの間で『この人は嫌な人じゃない』って情報を入れておけば、即座に憎まれにくくなると思う」
なるほど、と俺は感心する。
「で、そこからどうやって結婚してるって噂を流すんだ? Vtuberって画面越しだし、結婚指輪を見せつけるわけにもいかないだろ」
「そう。だから『匂わせ』を使うの」
紗由は三本目の指を立てた。
その指先が、天井の蛍光灯の光を少しだけ反射する。
「ただの仲良しアピールじゃダメ。もっとこう、生活の根っこが同じ場所にあるってことを、じわじわとリスナーに気づかせるの」
「生活の根っこ?」
「一番わかりやすいのは、引っ越しのタイミングとかね」
紗由は組んでいた指をほどき、ソファの背もたれに深く寄りかかった。
「たとえば、お兄ちゃんがデビューして半年後くらいに、私が『最近ネットの回線が不安定だから引っ越すかも』って配信でこぼすの」
「……うん」
「それから一ヶ月後、お兄ちゃんが『回線工事あるので、スタジオから配信します』とか言って、しばらく不定期な配信にするの」
「で、同じ時期に、お前も引っ越しを理由に配信を休むってことか」
俺の言葉に、紗由は満足げに頷いた。
「そう。配信できない、不定期な配信になる期間が数日から一週間くらい、完全に一致するの。これだけでも、熱心なファンなら『あれ?』って思う人もいるかもしれない」
たしかに、穿った見方をすれば、何かしら関係があるかも、と思うラインだ。
特定のファンからすれば、一緒に住み始めた(住んでいた)のではと疑うかもしれない。
「でも、それだけじゃただの同棲疑惑だろ。結婚って思わせるには弱くないか?」
「まあ、そうかもだけど。そこは、同じくらいのタイミングで役所での手続きがあって…とか言えば、勝手に籍を入れに行ったんだ、とか疑ってくれそうでしょ」
「……役所、ね」
たしかに、引っ越しのタイミングなら転出や転入の手続きで役所に行くのは不自然じゃない。
だが、それが二人同時に重なり、しかも「配信不定期」というスパイスが加われば、邪推する人間には「婚姻届」に変換されるわけだ。
「お前、そういうの考えるの、ちょっと上手すぎないか」
「Vtuberやってると、嫌でもこういう裏の勘ぐり方みたいなの、見えちゃうんだよ」
紗由は少しだけ自嘲気味に笑って、膝の上のクッションを抱きしめる力を強めた。
布が擦れる、かすかな音がした。
「でも、まだそれだけだと『たまたま引っ越しと役所の手続きの話が被っただけ』って言い張るファンもいると思うの」
「だろうな。信じたくない奴は、最後まで偶然だって縋るはずだ」
「だから、あとは、日常の情報でさらに追撃するの。同じ家に住んでいるかもって」
紗由は抱えていたクッションの端に顎を乗せ、上目遣いでこちらを見た。
「たとえば、天気の話題。配信のタイミングが同じか、近いときに『急に雨降ってきたね』とか『昨日、夜中に雷すごかったよね』って言うの」
「局地的な天候、か」
「そう。同じ地域に住んでいる。もっと言えば、同じ部屋で同じ外の景色を見ている…、そういうので決定打になるでしょ」
「それ、下手をしたら本当の住所まで特定されないか?」
「そこは架空の設定を混ぜるの。天気の話をする日も、わざと一日ずらして『昨日の夜』って過去形にしたり。窓から見える架空の建物の話をしたり」
紗由はあっさりと答えた。
どうやら、そのあたりのリスク管理も十分に考えているらしい。
「間取りの話も同じ。別々の配信で、『南向きで日当たりがいい』とか『近くに大きめのスーパーがあって便利』とか、少しずつ情報を出すの」
「それを俺も言うわけか」
「もちろん。あくまで無自覚を装ってね。特定班の人たちが情報をすり合わせたら、『あれ、これ同じマンション、いや同棲じゃない?』って気づくように」
俺はテーブルの上の、水滴が完全に乾ききったグラスに視線を落とした。
妹の口から語られる計画は、あまりにも緻密で、そして生々しい。
「ファンからすれば、自分で考えて『あ、これ完全にクロだ』って悟る方が、いいと思うんだよね」
「自分で見つけた真実には、逆らえないってことか」
「そういうこと。騙されたってキレる隙を与えずに、徐々に諦めさせるの。それに、お兄ちゃんが箱推しの人たちから『いい人』って認められていれば、『あいつなら仕方ないか』って空気にもなるかもしれない」
紗由はにこっと笑って、クッションから顔を上げた。
「どう? 完璧な計画でしょ?」
得意げな顔をする妹を見て、俺は小さくため息をついた。
たしかに、理にかなってはいる。いるが――。
「俺がその『Vtuber』になる前提で話が進んでるのが、一番の不安要素なんだけどな」
俺のぼやきに、紗由は今日初めて、声を上げて笑った。