作品タイトル不明
配信前夜
研修から数日が過ぎ、いよいよ初配信を明日に控えた金曜日の夜。
俺の新しい防音マンションの部屋には、なぜかまたしても紗由が入り浸っていた。
「そこ、エンコーダの設定はハードウェアにしておかないと、ゲーム配信の時にカクつくよ。あとビットレートは最初はこれくらいで……」
紗由は俺のデスクチェアにふんぞり返りながら、慣れた手つきでマウスを操作している。
デュアルモニターの左側には配信ソフトの複雑な画面、右側には灰城ベルンのアバターを動かすためのトラッキングソフトが開かれていた。
「なるほどな。お前、ほんとにプロなんだな」
「当たり前でしょ。伊達に一年近く配信してないっての」
紗由は得意げに鼻を鳴らすと、カメラに向かってウインクをした。
すると、画面の中の灰城ベルンも同じように片目をつぶる。切れ長の目がウインクをすると、なんだか妙な色気があった。自分で自分のガワのウインクを見るのは、少し気恥ずかしい。
「……動きのラグもほぼないな。技術ってのはすごいな」
「でしょ? ダイバーシアの機材は結構いいやつだからね。ほら、お兄ちゃんも座ってテストしてみて」
紗由と場所を代わり、俺がカメラの前に座る。
首を振ったり口を開けたりすると、画面の中の没落貴族が忠実にその動きをトレースする。
試しに低めの声で「あー、マイクテスト」と呟いてみると、アバターの口が滑らかに動いた。
『ピコン』
その時、サブモニターに表示させていた通話アプリに通知が届いた。
数日前に作られた同期三人のグループチャットだ。
【神宮寺愁】
『明日のリレー配信、俺トップバッターじゃなくてマジで助かったわー!ベルンさん、温めよろしくです!』
【御影玲音】
『神宮寺さん、サムネイルの提出まだですよね? 運営から催促が来ていましたよ』
【神宮寺愁】
『マジ!? 今から作る!!!』
【御影玲音】
『……間に合うんですか?』
文字面だけでも、二人の性格がはっきりと伝わってくる。
神宮寺の適当さと、御影の几帳面さ。俺は思わず苦笑しながらキーボードを叩いた。
【灰城ベルン】
『トップバッターの重圧で胃が痛い』
【神宮寺愁】
『ベルンさん!! 胃薬いりますか!!』
【御影玲音】
『ベルンさん、明日の待機所URLはXに早めに告知してください。本番一時間前には上げてほしいです』
【神宮寺愁】
『あ俺も告知忘れてた』
【灰城ベルン】
『御影さん、ありがとうございます! とても助かります!』
「同期の人たち、仲良さそうだね」
背後からモニタを覗き込んでいた紗由が、感心したように言う。
「まあな。一回しか会ってないけど、いい奴らだと思うよ」
「ふふ、いい滑り出しになったらいいね」
紗由は満足そうに言うと、デスクの上に置いてあったコンビニのプリンに手を伸ばした。
「ちょっと待て、それ俺の今日のデザート……」
「配信指導料として貰うね! 没落貴族はお家復興のために我慢しなさい」
紗由は悪びれる様子もなくフィルムを剥がすと、プラスチックのスプーンで滑らかな表面をすくう。
とろりとしたプリンが彼女の口に消えていくのを、俺は制止できず、ただ眺めるしかなかった。
「んー、美味しい! 没落貴族の家にあるまじき贅沢品だね」
底のカラメルソースまで綺麗にすくい取って、ペロリとプリンを平らげた紗由は、満足げに立ち上がった。
玄関まで見送ると、紗由はドアノブに手をかけたまま、ふと振り返った。
「お兄ちゃん」
「なんだよ」
さっきまでの悪ふざけした態度は消え、少しだけ真面目な顔になっていた。
「緊張すると思うけど、大丈夫だから。お兄ちゃんの声、人柄。絶対みんな好きになるよ」
「……ああ。ありがとな」
「うん。月宵空の厄介払い計画の第一歩、期待してるからね!」
最後はまたいつもの調子に戻って、紗由は手を振りながら帰っていった。
一人になった静かな部屋で、俺は再びパソコンの前に座る。
「……さて、やるか」
画面の中で、灰城ベルンが俺と同じように小さく息を吐いた。
明日の19時、この男の――俺の、新しい生活が始まる。